延宝五年 夏  吉原大門 高田藩江戸吟味役長谷川長兵衛

 吉原の外れの長屋に半兵衛の住む小屋がある。

 カンカンという音が昼間から聞こえる。


「邪魔するわよ」


 戸を開けた花魁の名前は冬花。

 雪の別名である冬花はその白い肌からつけられたといい、この吉原でもそこそこの売れっ子花魁である。

 夜とは違う襦袢姿は艶っぽくはあるが、簪を触っていた男は冬花を見る事なく口を開く。


「付き合いが長いとは言え、もう少しは着飾ってこい」


「それぞ今更でしょう?

 うちの楼主が会いたいって。

 何をしたの?」


 冬花の問いに返事をする事無く、できたての簪を箱にしまい布にくるむ。

 出来上がった簪を懐に入れて男は立ち上がると、やっと冬花の方を向いた。


「さあな。

 行けば分かるだろうよ」


「相変わらずよね。あんた。

 吉原の人間はあんたの事を『昼行燈の半兵衛』なんて呼んでいるわよ」


「ただの簪職人なら、それで十分だ」


 冬花を連れて昼の吉原を歩く。

 すれ違う遊女や禿達は二人を見ると頭を下げるが、声をかける者はいない。

 それは男が人見知りだからではなく、単純に話しかけるのが難しい雰囲気を持っているからだ。

 やがて吉原の大通りの一角の大店の前に立つ。

 『蓬莱楼』。冬花のいる店であり、二人を見た忘八者が頭を下げた。


「ここよ」

「ああ」


 中に入ると楼主の蓬莱弥九郎が目を閉じて、禅を組むかのように待っていた。

 冬花が障子を閉めて去る音が遠ざかると、弥九郎はゆっくりと目を開けた。


「あれとの付き合いも長いだろうに。身請けの金もあるだろう?」

「あれが嫌がるんだよ。夫婦になれないから」


 懐からさっき仕上げた簪を入った箱を渡す。

 飲むも打つもしない簪職人半兵衛の稼ぎはそこそこあるが、遊女一人を身請けするほどの身代ではない。

 それにもかかわらず身請け話が出るという事は、半兵衛に身請けできる金がある事をこの楼主は知っているのだ。

 むしろ、他ならぬその元手にこそ弥九郎が関わっている。


「酒井雅楽頭様直々の仕事だ」


 弥九郎の低い声にも半兵衛のそばかす顔は揺らぎもしない。

 いつもの事なので弥九郎は続きを口にする。


「狙うのは、高田藩江戸吟味役の長谷川長兵衛。

 高田藩家老小栗美作の腹心で、揉めている高田藩の後ろ暗い金を知っている男だ」


 後ろ暗い金、つまり大老酒井雅楽頭忠清への賄賂も知っている男な訳で、高田藩の騒動の裁定に異を唱えている若年寄堀田備中守正俊が探りを入れている今、彼が邪魔になったのだろう。


「そいつを始末しろと?」

「そうだ。

 いつもの事だろう?」

「無理だな」


 珍しく即答する半兵衛に弥九郎は笑みを浮かべる。

 幕閣第一の実力者の仕事を断れる訳がないのは二人とも分かっている。

 にも拘わらず、『無理』と即答した半兵衛の答えに興味が湧いたのだ。


「理由を聞いてもいいか?」


「まず一つは、若年寄殿が雇った手の者がついているのだろう?

 それを排除する手が思いつかん」


「ふむ……」


 若年寄堀田正俊の所には、柳生新陰流の剣豪がついていた。

 既に長谷川長兵衛は身の危険を察して姿をくらませており、彼を探そうとした酒井家の家臣がその剣豪によって何度か邪魔をされていたのである。


「二つ目、この依頼が本気ではない」


「はっ! よく言うぜ!

 雅楽頭様直々の依頼を本気ではないってどういう了見だ?」


 半兵衛の言葉を弥九郎が笑い飛ばすが、半兵衛はにべもない。

 弥九郎は半兵衛の腕前を知らない訳ではない。

 彼の仕事を知っており、多くの人を殺している半兵衛が臆病とは思えなかったのだ。


「だからだよ。

 本気ならば、直々に依頼なんてするものか。

 酒井様の狙いは、この依頼を流して、柳生の連中を排除する事だろうよ」


「なぁるほどねぇ…… そりゃあ確かに俺達向きじゃないな」


 弥九郎は納得したとはいえ、断れる依頼でもないのは事実だ。

 弥九郎の声に苦渋の色が混じる。


「だが、どうするんだい?

 たとえ囮とはいえ、断れる依頼でもなかろう。

 お前は打ち首、俺はこの楼閣を失うなんて御免だぞ」


「何、簡単な話だ」


 そう言って半兵衛はニヤリと笑う。

 持ってきた簪の入った箱を見ながら解決策を口にした。


「どうせ来るのだろう?

 酒井様が。

 その時に問いただすのさ」



 吉原というのは異界である。

 江戸の、徳川の法の下にありながら、その理とは違う連中が蠢く様はさながら蟲毒の巣のごとし。

 そんな吉原の大門前に、今日も下馬将軍大老酒井雅楽頭忠清の駕籠行列がやってくる。


『下馬公方 大門の前で 駕籠を降り』


 毎日大名や江戸家老たちの接待に明け暮れる酒井忠清を皮肉った落書きが見つかった時、酒井家家臣はその不届き者を捕えようとしたが、主君酒井忠清はその落書きにこう書き足した。


『めでたくもあり めでたくもなし』

 

 現在の吉原の隆盛は、二つの事が理由と言われている。

 一つは、明暦の大火と呼ばれる大火事で吉原が焼かれて再建された事。

 もう一つは、由井政雪の乱で発覚した浪人たちの逃げ場としてである。

 これらの事を主導したのが老中職にあった彼であり、大名や御家人や江戸家老たちの接待に吉原を使うようになった事から、今の吉原は彼の周りに群がる金によって隆盛を極めていると言ってもいいだろう。

 そんな大老の列が今日も接待の為に吉原の仲の町を歩き、『蓬莱楼』に入る。

 もちろん貸し切りであり、大老をもてなすのは越後国高田藩家老小栗美作であった。

 飲めや歌えの乱痴気騒ぎの中、酒井忠清は小姓を連れて用を足す。

 壁の向こうからの声はそんな時に聞こえてきた。


「大老ともあろうお方が不用心な事で」


「今、儂を討てるのならば討つがいい。

 備中守はその汚さを嫌う。

 だからまだ老中に座らせられんのだ」


 壁向こうの格子窓から煙草の煙があがる。

 小姓が刀を抜こうとするのを止めて酒井忠清は呑気に用を足し続ける。


「今回の相手である小栗美作の腹心を始末しろと命じられたが、本当に始末したいのは柳生の方なんじゃないかい?」


「残念ながら、腹心であっている。

 長谷川長兵衛が姿を消したのは、命を狙われてではない。

 高田に残した妻子を人質に取られて、やむなく駆け込んだからよ」


 幕府の裁きが下った越後国高田藩の騒動は、小栗美作の勢力と反小栗の勢力に分かれて争い、幕府は小栗美作の隠居と反小栗勢力の処分を言い渡したばかりだった。

 用は足し終わったのに酒井忠清は立ち尽くしたまま外の誰か分からぬ声に嘆く。


「愚かなものよ。

 高田藩は神君の血を引く御一門の家。

 騒ぎ立てて取り潰しにでもしたら、どれほど世が乱れるか分からぬものが多すぎる」


「とはいえ、毎夜毎夜吉原遊びをする下馬公方へのやっかみは誰でもわかる」


「貴様!無礼……」


 小姓が刀を抜こうとするのを酒井忠清は手で止める。

 その声は下馬将軍や大老という権力者ではなく、壁向こうを羨む囚人のように聞こえた。


「此度の仕掛けは小栗美作より頼まれたものだ。

 このまま脱藩されて幕府に駆けこまれたら、高田藩が取りつぶされて高田の妻子に類が及ぶ。

 今、殺されたら、少なくとも武士として家を継がせて小栗美作が面倒を見るそうだ。

 小栗美作も悔しがっていたよ。長谷川長兵衛の妻子にまで気を配れなかった己の不覚をな」


 格子窓から煙草の煙が消える。

 聞きたい事は聞いたのだろう。

 居るかどうかわからない相手に酒井忠清は声を残した。


「長谷川長兵衛は、ここ、吉原に隠れて明日堀田備中守の下屋敷に駆け込むらしい。

 一発で仕留めてやってくれ」


 返事は返ってこなかった。



 戦国時代にこの国に伝来し、覇者を決めた武器がある。

 鉄砲。

 種子島と呼ばれるそれは、徳川の世になって徹底的に規制された。

 そんな武器が何故か吉原にある。

 吉原の無縁仏を吉原で弔う為に建てられた寺の三重塔に半兵衛は登る。

 隠し床を開け、そこに置かれた種子島を取り出し、銃口から玉薬を入れ、槊杖で弾と火薬を突き固める。

 塔から外を眺める。

 半兵衛は長谷川長兵衛の顔を知らないが、吉原大門を眺めているとそれらしい人間を察する事が出来る。

 あたりに殺気を漂わせているのは堀田備中守が雇った柳生の侍か。

 その隣で、全てから解き放たれたような笑みを浮かべている男が長谷川長兵衛なのだろう。

 彼は、これから先の事を分かって受け入れた。

 火皿を開いて火縄に火をつける。

 長谷川長兵衛らしい男が立ち止まり塔の方を見る。

 彼は半兵衛が引き金を引くときですら笑っていた。

 轟音と共に吉原大門の方で騒ぎが起こるが、吉原大門を出た柳生侍は吉原に戻る事ができない。

 吉原は夜の街であり、客が門を出たならば次の夜まで入れない決まりだからだ。

 吉原は吉原という街の中の決まりがあり、その中で裁く以上は吉原の中の事件に限られる。

 だから、吉原の外で侍が殺されても、吉原はそれを裁けない。

 下馬将軍酒井忠清すら守る吉原の掟を、ただの柳生侍にどうこうできる訳もなく。

 半兵衛は種子島をまた隠し床にしまい、何食わぬ顔で寺を出る。

 仕事を終えた冬花と出会ったのはそんな時だった。

 酒井忠清の重臣を相手に腰を振っていた彼女は、その情臭を漂わせつつ半兵衛に近づいて鼻をかぐ。


「臭うわよ。色々」


「そいつはいけねぇ。

 風呂にでも行くかな?」


 火薬の臭い、その先にある死の臭いを冬花は察していた。

 それでも昼行燈を演じるこの男が好きなのだ。

 冬花が腕を組むと、半兵衛の懐から小箱が落ち、中から簪がこぼれる。

 拾った半兵衛が簪を持って苦笑した。


「弥九郎のやつ、作り直せと来たもんだ。

 こだわりが過ぎるんだよ。お前の楼主」


「それぐらいしないと、酒井様を呼ぶなんてできないわよ。

 これ、もらっていい?」


 半兵衛は何も言わずに冬花の髪にその簪を刺してやり、吉原大門の騒ぎなんて気にする事無く、二人して湯屋の中に入っていった。

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