第30話 涼介
◆SIDE:春山涼介
3年間のロンドン勤務を無事に終え、久しぶりに日本に帰国して、しみじみと思うことがある。――日本人の女性は、マジで良い。
羽田国際空港に着き、ひとまず腹ごしらえのために適当な空港内の蕎麦屋に入ったのだが、そこのアルバイトの女性店員があまりに感じよく、俺は思わずチップを握らせそうになってしまった。なんて優しいんだ、日本人の女性は……!
「お水いただけますか?」と聞けば、笑顔で「少々お待ちください!」と朗らかな声を返してくれる。1銭の利益にもならない無料のモノを頼んで、そんなに丁寧に対応してくれるなんて、思わず感涙しそうになる。
「七味唐辛子ありますか?」と聞けば、「すみません、すぐにお持ちしますね!」と心底申し訳なさそうに謝ってくれる。いやいや、全然謝ることないよ!!俺のわがままじゃん!!と、思わず大声で叫びたくなる。
――帰ってきたんだなぁ、日本に。
ごみひとつない綺麗な道路。時刻通りにやってくる電車。めちゃくちゃ安くて死ぬほどウマい飯。そして、心優しく可愛らしい女性たち。
おそらく次の駐在は、ロシアか中東あたりで2~3年後になるだろう。いや、引継ぎをした後輩の顔色がだいぶ悪かったことを考えると、下手すると1年ちょいでイギリスに呼び戻される危険性もある。
それまでに、絶対に、絶対に、俺は日本人女性と結婚する……!
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栄えあるグレートブリテンの首都にある、三葉商事のロンドン支社への異動が決まったのは、社会人5年目の27歳のときだった。
学生時代からの夢だった“商社マン”になり、花形と言われる石油や燃料を扱うエネルギー本部に配属され、超多忙ながら順風満帆な社会人生活を送っていた俺にやってきた、ロンドン行きの辞令。まごうことなき、大出世コースだ。同期からは散々やっかまれ、うらやましがられたものだ。
そのとき、駐在経験が豊富な上司から、ぽつりと言われた言葉をよく覚えている。
「嫁さんがいないと、駐在はキツイぞぉ」
当時は、上司の言葉を軽く受け流していた。確かに、駐在を機に結婚する同期もたくさんいたけど、俺はたまたまそのとき深い付き合いをしている恋人はいなかったし、むしろ海外での自由な生活を楽しみにしていたのだ。
というわけで、駐在初期は、「よーし、せっかくだしロンドンの美女とお付き合いするぞ」と浮かれていた。もともとロンドンには出張でよく来ていたこともあり、いわゆるナンパスポット的な場所もなんとなくわかる。アジア人差別は根強く残っているものの、金を持っているホワイトカラーであれば、社交の場でそこまで見下されることもないし、俺は日本人にしては体格が良いほうで、長年やってきた空手の心得もある。
日本でのように“入れ食い”とはいかなくとも、ロンドン美女からまったく相手にされないということはないだろう。
――しかし、俺を待っていたのは恐ろしすぎる現実だった。
ひとまず、クラブで一晩に30人の女性に声をかけるとする。そのうち、25人に無視される。4人に人種差別的な態度をとられる(目を指で引っ張って細めてみせたりとか、中国人中国人と笑われたりとか)。残り1人はそれなりにフレンドリーに会話をしてくれるが、たいていがアメリカあたりからの観光客だ。
クラブでの出会いには期待できないと悟ると、俺は可及的速やかにナイトライフから撤退し、今度はもうちょっと身近なコミュニティを狙ってみることにした。社内は面倒がありそうなので、同じビルの違うフロアで働く女の子たちだ。彼女たちは、このビルがそれなりにグローバルな大企業ばかりが集まっていることをわかっているので、同じビルで働くホワイトカラーというだけで、基本的に好意的な目で見てくれる。
中でも、ビルの総合案内を担当する、日本で言うところの“受付嬢”のミディとは、そこそこ良いところまでいった。赤みがかったブラウンのまっすぐな髪と深緑の大きな瞳、頬にちょっと散らばったソバカスがキュートな女の子だった。何度かデートをして、セックスもした。――だけど、会えば会うほど俺は疲弊していった。
とにかく、彼女は気が強い。“自分の意見をはっきり言う”というのは、むしろ美徳だと俺は思っていたし、自己主張することを幼い時から叩き込まれている欧米の文化を尊重しているつもりだ。だけど、ミディの“自己主張”は度が過ぎていたと思う。
自分がこうだと決めたら、絶対に譲らない。俺の意見は何一つ受け入れない。俺の考えを述べると、まず否定から入る。ミディが間違っていることをできるだけソフトに遠回しに指摘しようものなら、不機嫌マックスになって黙り込む。にらみつける。足を踏みつける。
あと、メシの趣味が絶望的に合わない。彼女はいわゆるビーガンで、それはもちろん個人の思想としてかまわないのだけど、外食はすべてビーガン専門店でないとダメで、彼女と一緒にいるときに俺が肉や乳製品を摂ることは絶対に許されなかった。それは本当に、本当に苦痛だった。
しかし、好きなものを食わせてくれと主張しようものなら、理論武装したミディから、なぜ環境問題に配慮しないのかと責め立てられる。その言い争いが面倒で、俺は仕方なく彼女に合わせて大豆を使ったぱさぱさした肉モドキと、豆乳入りの麦芽コーヒーを食わされるハメになった。
セックスも合わなかった。彼女は行為の間中、「こうしろ、ああしろ」とまるで命令するように細かく指示を出してくる。あそこを10分以上舐めろとか、このタイミングでここを刺激しろとか、とにかく「自分がイク」ことが最優先事項で、俺を気持ちよくさせようなんて配慮はまったく感じられない。もちろんフェラチオは絶対拒否。俺は彼女のオナニーマシンか? ものすごくむなしくなる行為だった。
そのうえ、真剣な付き合いだと思っていたのは俺だけだったらしい。
「付き合おう」的な告白文化のない欧米では、なんとなくいつのまにか「ステディ」になるらしい、という文化は知っていた。だけど、毎週食事に行って、お互いの家にも遊びに行って、セックスもしたんだから、当然付き合ってると思うだろ。
それが、ある日珍しく機嫌の良いミディに「何か良いことあったの?」と聞いたところ、「ボーイフレンドにプロポーズされた」とのこと。一瞬、思考停止した。俺は、もう何も言いかえす気力もなく、「おめでとう」と微笑して彼女を祝福したのだった。
こうしてイギリスで彼女を作ることをあきらめた俺だったが、ロンドンのフラットでひとりかみしめる孤独の味は、本当に苦かった。
家族連れの社員には、そこそこ広い立派なマンションが与えられるのだが、独身の社員はいわゆる下宿屋的な存在であるフラットに入居しなければならない。俺が住んでいたフラットは3部屋の住人でキッチンを共用しており、お湯や電気の使用にもうるさく制限があり、めちゃくちゃ暮らしにくかった。独身駐在員の中には、この環境に辟易し、自腹で家賃を負担して高級マンションを借りる人も多いらしいが、俺は意地でも耐えた。そして、頻繁にある停電のせいでヒーターが動かず、極寒の部屋のベッドの上で毛布にくるまりながら誓ったのだ。
――絶対に、絶対に、日本人女性と結婚する、と。
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