第21話 妻のいる人
近藤社長と体の関係を持った次の日。
無事に社長はプレゼンのため出張に出かけ、私は前任の秘書だった先輩から「昨夜は大変だったね」とねぎらわれた。私はつい顔が緩みそうなのを必死でおさえ、「そうなんですよ」と口をとがらせてみせる。
「結局早朝までずっと作業してました」
「社長と二人で? 手ぇ出されなかった?」
いたずらっぽく先輩に聞かれて、私は慌てて首を振る。
「ま、まさか、そんな」
「気を付けたほうがいいよ~。あの人、妻帯者のくせに案外手が早いから」
先輩の言葉に、一瞬頭が真っ白になった。
──妻帯者……?
「社長って……ご結婚されてるんですか?」
「あれ?知らなかった?」
「でも……指輪…」
「指輪はしてないけど、学生時代に結婚したとかでラブラブだよ。確か奥様も、IT系のスタートアップ企業の社長だったはず」
「そうなんですか……」
その日、私は生まれて初めて仮病を使い、会社を早退した。
──最低な男。最低、最低、最低。
布団にくるまって声が漏れないように号泣しながら、私はなんとか気持ちに折り合いをつけた。
だいたい社長なんて全然好みのタイプじゃないし。たしかにセックスは素敵だったけど、妻帯者のくせに社員に手を出すなんて最低すぎる。
私は絶対に、既婚者に恋なんかしない。自分のものにならない男に、1秒だって無駄な時間を取られたりしない。
私は涙をふき、ティッシュで鼻をかみ、唇を噛み締める。
そう、あの日はお互いにランナーズハイだったのだ。大きなトラブルを乗り越えて、お互いを一晩一緒に戦った“戦友”のように感じて、なんだか熱に浮かされたようで……普通でない状態だから起きたアクシデントだったのだ。
私は自分にそう言い聞かせて、自分の中でふくらみそうな思いを必死で押さえつけた。
社長は出張から戻ると、何かを言いたそうに私をチラチラ見ていた。だけど、私はいつも通りの秘書の態度を貫いて、何事もなかったような顔を崩さなかった。
そして数日が過ぎ、社長の視線を感じなくなった。彼の目線に含まれていた熱は消え、「信頼するスタッフのひとり」を見る目で私と向き合うようになった。こうして、あの夜のことは完全に“なかったこと”になったのだ。
===
「やっぱ返事ナシか……」
スマホの画面を見つめてぽつりとつぶやくと、独身荘のリビングに集まっていた桃花とサクラが、「どうしたの?」と視線を向けてきた。
「いや、この前の合コンで会った弁護士の持田さん。連絡かえってこなくなっちゃった」
そんな予感はしていたんだけど、と心の中で呟く。
持田さんとは、一度飲みに行った帰りに、誘われるままにホテルで体の関係をもってしまった。その後すぐに連絡先をブロックしたのだけど、やっぱりワンチャンなんとかならないかなと思ってブロックを解除し、こちらから連絡してみたのだ。
だけど、三日たっても返事はなし。「何それ」と桃花が身を乗り出してくる。
「持田さんだよね? あの後会ったの?」
「一度飲みには行ったんだけど……まぁ、ダメだったみたい。桃花はどうだった? 山本さんだっけ?」
冴子さん主催の弁護士合コンに来ていたもう一人の男性の名前を出すと、桃花はものすごく嫌な顔をした。
「あいつ、最低だよ」
「おっと、何があった?」
「彼女持ちだった」
「最低―!!!」
私は桃花とガシッと抱き合う。サクラは困ったように私たちの背中を撫でてくれた。
「そっか……私のために合コンしてくれたのに、なんかごめんね」
「サクラが謝ることじゃないよ!」
桃花が大きくかぶりを振り、私もうなずいて同意する。
「悪いのは冴子さんだ!」
「そうだ!!冴子さんにクレーム入れよう!!」
立ち上がってシュプレヒコールを上げる私と桃花を見て、サクラがくすくすと笑う。その笑顔は明らかに幸せそうで……私はちょっと嫉妬してしまった。
「サクラはどうなの? 例の彼氏と」
「あ……遠距離だけど、うまくいってると思う」
サクラがパッと頬を染める。逆ナンという出会い方からして、適当な男が相手なんだろうと正直思っていたけど、案外彼も誠実な人らしい。このところサクラは毎日夜30分くらい電話していて、たまに聞き耳を立ててしまうのだけど、いつも嬉しそうに声を弾ませている。きっと良い恋愛をしているんだろう。
「あーいいなぁ、幸せそうで」と桃花は羨ましそうにため息をつき、スマホを取り出す。
「私の今の癒しはこれ」
「どれ?」
桃花のスマホをのぞきこむと、待ち受け画面にやたらと整った顔の男性が映し出された。
──あ、この人……。
「これって、アイドルのマッキーだよね?」
私の言葉に、桃花は嬉しそうに笑ってスマホにほおずりする。
「そうそう。可愛いよねぇ~! もう永遠に見てられる」
「私、今度仕事でマッキーに会うよ」
彼がうちのCMに起用されることになって、今度社長もまじえて食事会をするのだ。
その話をすると、桃花は大きな目をキラキラと輝かせて、私の手を強く握りしめた。
「舞……!一生のお願い」
「サインはダメだよ」
「じゃ、せめて…」
「写真もダメ」
「なんでぇ~!?」
「当たり前でしょ、仕事で会うんだから」
あきれる私に、桃花は「じゃ、せめて声を録音してきて…!」と無茶なことを言ってくる。食い下がる桃花をなだめていると、サクラがニコニコと満面の笑みを浮かべていることに気づいた。
「サクラも、マッキーのファンなの?」
「ううん。でも、うれしくて」
サクラは心底うれしそうに私を見つめて、柔らかな声で続ける。
「舞ちゃん、お仕事めちゃくちゃ頑張ってるもんね。社長さんからも信頼されてるんだろうなぁ。新しいCM、見るの楽しみだよ」
どこまでも優しく、おおらかな笑顔。
──本当に、サクラはいい子なのだ。
サクラが優しい人だから、周囲の人もサクラに優しくする。サクラが心の綺麗な女の子だから、誠実な彼氏もできる。
「サクラ、ありがとう! がんばるよ!」
そう言ってサクラに抱きつきながら、私は無性に泣きたくなった。
サクラみたいな女の子に生まれたかった。なんで私は、何もかもうまくいかないんだろう。
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