第5話 図書館
頭が、ズキズキと痛む。体が、鉛のように重い。
「……子さん、冴子さん」
靄のような意識の向こう側から、誰かが、自分を呼ぶ声がする。
「冴子さん。……冴子さん!」
体を揺り動かされて、私はようやくうっすらと目を開けた。――すぐ目の前に、独身荘の住人の1人である永森舞の、呆れたような顔が迫っている。
私は重いまぶたをこすりながら、必死で頭を働かせる。
――えーと、昨日はあの感じの悪いサイボーグ弁護士としこたま飲んで、珍しく結構酔っぱらって、なんとか家までたどり着いて……。
ここでようやく、私は自分が共用リビングの床で熟睡していたことに気づき、ガバッと体を起こした。
「うわ! 私、ここで寝ちゃったんだ……」
「昨夜は大変だったんですよ、冴子さん。帰ってくるなり、酒臭い息まき散らしながら、サライを熱唱」
「……それは、大変失礼いたしました」
「私とサクラで、メイクだけふき取っておいてあげましたから。感謝してくださいよ~」
スーツ姿の舞が、苦笑しながら私が起き上がるのを助けてくれる。
「あ、冴子ちゃん起きたんだ」と、サクラもキッチンから顔を出す。そして、お水の入ったグラスと、湯気の立ちのぼる味噌汁をリビングボードの上に置いてくれた。
「よかったら飲んで。シジミのお味噌汁」
「あぁ~…ありがたい……」
本当に、サクラは気が利く。私は深く頭を下げてから水を一気飲みする。そして、ありがたく味噌汁をいただいた。シジミの出汁が香り、温かい味噌の風味が体に染み渡る。
「冴子さんがここまで酔っぱらうなんて珍しいですねぇ」
舞がニヤニヤとからかうような視線を向けてきた。
「昨日のデート、相当盛り上がったんですか?」
「だから、デートじゃないってば」
私は顔をしかめて手を振ってみせる。舞はますますおかしそうな顔になって、「またまた、照れちゃってぇ~」と煽ってきたが、腕時計に視線を落とすと慌てた声を上げた。
「やばっ! そろそろ出ないと」
「休日出勤、大変だねぇ」
サクラの言葉に、私も何度かうなずいて同意する。
舞は、最近急成長している新進気鋭のIT企業で、社長秘書をしている。右肩上がりでイケイケの会社というだけあって忙しいらしく、帰宅はたいてい夜遅く、急な休日出勤も多い。
私は頬杖をついて、カバンを持ってハイヒールを履く舞の横顔を、見るともなしに眺める。
舞は秘書という言葉でイメージするとおりのシュッとした美人で、そのうえ有能だ。もし私が社長になって、この独身荘の中から誰かを秘書に選ぶとしたら、まず間違いなく彼女を指名するだろう。
「それじゃ、行ってきます。冴子さん、お大事に~!」
さわやかな笑顔を残して、舞が慌ただしく玄関から出ていく。その背中を見送って、私は再び味噌汁をすすり、ふぅと一息ついた。
サクラも私の向かいに腰かけて、コーヒーを口にする。そして、少し迷った顔をしてから、控えめに聞いてきた。
「それで……実際のところ、どうだったの? 昨夜は」
「――最悪だった、とだけ言っておくわ」
憮然とした私の一言で、サクラは苦笑して「そういうこともあるよね」と話を終わらせてくれた。――本当に、気が利く良い子なのだ。
「サクラこそどうなのよ」
「ん?」
「例の同期の彼氏と」
「ああ、康太ね」
サクラは恥ずかしそうに微笑んで、視線を落とす。
「最近忙しそうであんまり会えなかったんだけど……今夜は会えるんだ」
「おお、よかったじゃん」
「ありがと」
銀行に勤めるサクラは、もうすぐ30歳。そろそろ結婚を考える年だ。同じ銀行の同期とかいう男と3年ほど付き合っており、私はゴールインも近いんじゃないかとにらんでいる。
――そして、妙齢の女性が集まったこの独身荘の中でまともに男と交際しているのは、実はこのサクラだけだったりする。
「サクラ、あんたは私たちの希望の星だよ……」
「えっ、なに? どういうこと?」
不思議そうに目を丸くするサクラを、もう少しからかってやろうと身を乗り出しかけて、私はとんでもないことを思い出した。
――今日、私も出勤日だ!
「やばい!! 私も仕事だった!」
「えー! 大丈夫!?」
「死ぬ気で行くしかない!!」
三分で支度をして出れば、おそらくギリギリ間に合うはず……!
私は猛ダッシュでシャワーを浴びて着替えると、舞以上に慌てて玄関から飛び出したのだった。
=====
――というわけで、最悪の印象となった佐々木雄吾との出会いだったが、私は翌日の午後には事の顛末のほとんどをキレイに記憶から消し去って、恵理に一応の礼儀としてお礼のメッセージだけ送っておいた。
『昨日、佐々木さんと会いました。私には素敵すぎる人で、一度会えばお腹いっぱいでした。紹介してくれてありがとね』
すると、一分もしないうちに恵理から返事がきた。
『お腹いっぱいって何?? 佐々木さんは冴子のこと気に入ったみたいだし、何度かデートしてみなよ』
――絶対イヤ。
心の中で返事をしてから、私は休憩を終えてカウンター業務に戻った。
私が働いている図書館は、土曜日も17時まで開館している。
最低でも月に一度は土曜日のシフトが回ってきて、職員からは嫌がられていたが、私は土曜出勤が嫌いじゃなかった。平日には来ないタイプの、いかにもキャリアウーマンっぽい女性が熱心に昔の新聞記事をコピーしていたり、お父さんと小学生くらいの子どもが並んで本を読んでいたり、普段とは違う利用者の姿を見ることができるから。
カウンターに座ると、同僚で非常勤職員の夏川さんが小声で話しかけてきた。
「遠藤さん、ネット文学賞コーナーの企画書、通った?」
「ああ、通りましたよ。館長の決裁もらいました」
「さすが遠藤さん!」
夏川さんが嬉しそうに手をたたく。なんでも、最近新設されたネットの文学賞を、夏川さんが推している男性アイドルが書いた本が受賞したらしい。
私もパラパラとページをめくってみたが、若者言葉満載の軽い文体にどうしても意識がついていけず、途中で挫折したのだった。――もちろん、夏川さんには「読みましたよ!若者ならではのみずみずしい感性で、さわやかな読後感がたまりませんね!」とコメントしておいたけど。
うちの図書館では、正面玄関に置かれた一番目に付く本棚で、毎月特設コーナーを設けている。夏川さんからのさりげないレコメンドもあって、私は来月の特集のためにネット文学賞の受賞作を並べる企画を提出していたのだった。
「よければ私、特設コーナー用の看板作るわよ。ほかにも手伝えることあったら、なんでも言ってちょうだい」
夏川さんが心底嬉しそうにそう言うので、私は思わず感心してしまう。
「ありがとうございます、助かります。すごい忠誠心ですねぇ、推しのアイドルに対して」
「うふふふ。私の人生、もはや晩年でしょう。そこに思いがけないトキメキと潤いをくれた人なの、マッキーは」
夏川さんは、おそらく50台半ばくらいだろう。お子さんも皆独立して、ご主人とはもはや“会話の不要な関係”らしい。そんな中で推しのアイドル――マッキーと出会ったことで、いかに毎日が輝きだしたか、夏川さんは目を少女のようにキラキラさせながら熱く語ってくれた。
「はー、なるほど。いいなぁ、私もそういう推しがほしいなぁ」
つい羨ましくなってそうつぶやくと、夏川さんはおかしそうに笑った。
「なぁに言ってるの、まだ遠藤さんは若いんだから。推しよりも先に、彼氏を作って結婚しないと、ね」
――うわー、なんて悪気のないストレートなハラスメント。
私とは生まれた時代が違うのだと言い聞かせ、私は曖昧な微笑で夏川さんの言葉を受け流す。
まったく、どいつもこいつも彼氏を作れだの、結婚しろだの。自分がそういう方面に向いていないことは、私自身が一番よくわかっている。
ふいに昨夜会った佐々木雄吾の、不機嫌そうな顔が浮かんできて、私は笑いをかみ殺した。あいつも、絶対結婚向いてなさそう――まぁ、どうでもいいけど。
もう二度と会うことのないだろう男のことは一瞬で脳裏からかき消して、私は再び仕事へと意識を戻した。
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