あっけなく終わった短いミーティングは、これから起こる嵐のような予兆を十分に孕んだまま、彼らの中に収まった。詳細な情報はまだ明かされてはいない。それはアンナを訓練する過程で、小出しにされていくのだろう。いつも仕事はそのように、詳細な説明ですら、段階を踏んで進められた。


 廃ビルの地下に造られたバー型のアジトから出て、雨の下に出ると、不文律のように街は雨の底に沈んだままだった。私はそのまま家へと向かった。


 アパートへと帰り、何気なく、ただいま、と言う。返事がない。部屋へと上がり、辺りを見回してみるが、素っ気ない家具や食器や酒の他、生き物の温もりのような気配はどこにもなかった。彼女はどこかへ行ってしまったようだ。だが一体何処へ?


 そう思っていると、ポケットの携帯が震えた。出ると、聞き馴染んだ声だった。爆弾班のガトーだ。


「カエデさんから言われたんだけどさ、あいつ、携帯持ってないんじゃん? でさ、ハナビとも話し合ったんだけどさ、やっぱりあいつと一番仲良いのってお前じゃんか。だからさ、あの、言いにくいんだけどさ……」


「お前から言いにくいなんて言葉が出てくる日が来るとは思わなかったよ、ガトー」


「……」


 暫く沈黙が続く。ガトーと私は普段、あまり話す機会がない。彼女もまた大分無理をして電話をしてきたのだろう。要件はすぐに分かった。


 私は謝ろうかと思って口を開きかけた矢先、別の声が入ってきた。ガトーと同じ爆弾班のハナビだった。


「私がそう言ったんだよ、リリィ。お願い、カエデさんがアンナを呼んでるから、探してきてくれない? 私達が全員で探すわけにもいかないし……彼女が行きそうな場所、あなたなら良く知ってると思って。ごめん、使いっ走りみたいなことさせて……」


 私は携帯を切った。使いっ走りといえば、それはいつも、私を含め____彼女達がアンナに対してしてきた事だった。普段からぞんざいに扱ってきたツケが、こういうところで誰かの元に回ってくる。それが私ということだろうと私は思った。


 私は玄関へと戻り、再び扉を開けて、閉め、鍵を掛けた。




 傘を差して歩き始める。雨の音が傘に浸透して鼓膜を震わせる。パラパラパラ……石の小粒が撒き散らされるような小刻みな音。静けさを感じ、心が少しずつ無防備になっていくのを感じる。風はなく、アスファルトからは車から醸し出た汗のような濃い匂いが漂っている。地面とゴムの匂いが雨の水滴によって混じり合い、渾然一体となって鼻に感じられる。私はそれを雨の匂いだと思った。何故かは自分にも分からない。


 気がついたら、ダンスホールがある繁華街まで来ていた。雨が降っていても、この場所はいつも人で賑わい、忙しない雰囲気を帯びている。ダンスホールの庇の上に設置されているネオンの看板は、いつもはそのケバケバしい光を頭上で垂れ流しているというのに、今日は大人しく無色に沈黙して、何も言わない。


 辺りを見回すと、人々が歩行者天国を自由に行き交っている。その傘の波を見ていると、何故か自分が、この街において、とてつもなく匿名的な存在になっているかのように感じる。彼らは皆下を向いているが、傘はどれもカラフルで、工夫に富み、陽気だ。


 アンナを見かけた事があるゲームセンターにも来てみたが、あの日彼女が立っていた筐体の周りにも、誰もいなかった。筐体の中では、薄着の女性と、筋骨隆々な格闘家の姿のキャラクターが、向かい合って技を互いに繰り出している。デモンストレーション映像だ。私はこのゲームが好きだった。


 アンナがこんな場所にいる訳がないとは思っていた。だが、私が彼女のことを、実際の所どれだけ知っていると言えるのだろうか。


 私は店を出た。雨はまだ降り続いている。


 雨足が強まってきている。傘の骨を通して滴が伝い、持ち手を濡らした。


 公園に行ってみる。いつも鳩がいない公園。防カビ加工の施された庇の下にも、彼女の姿はない。


 ボウリング場。あり得ないな。いや、もしかしたらいるのかも。だが、根拠はまるでない。


 くたびれてきた。私は公園の休憩所に一人で座り、強さを増した雨が床を打つ音を聞きながら、私は少しずつまどろんでいった。自然と頭を椅子の上に下ろし、私は目を瞑った。


 昔見た景色が、暗闇の中で次々とよぎり、通り過ぎていく。思い出したくない記憶。覚えていたくもない記憶。そして、忘れたくない記憶も。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る