最後の記憶-四話-

 夏の肌にまとわりつく空気の中、煙突から白い煙がまっすぐ天へと伸びていく。

 手術を経て、ようやく自分の足で地を踏みしめた。けれど、待ち望んだはずの喜びは胸に生まれない。

 蝉の煩い声を聞きながら。入道雲が一面に広がる空に向けて、指先を伸ばす。少しでも君に触れられるなら──そう願った掌は、ただ暖かい風を掴むだけだった。


 ──実はな。あいつは、一ヵ月前に交通事故で逝っちまったんだ。


 おじさんの声は耳に届いたのに意味を拒み、目の前の景色が一瞬ぼやけた。

 リハビリのバーに手をかけても指先が震え、力が抜け、そのままベッドに倒れ込む日が続いた。病気で命の灯が小さくなっていたあの頃よりも、胸の奥の火が一気に吹き消されたようだった。大切なものを腕の中で取り落としたように、全身の力が抜け、視線すら上げられなかった。

 ある日、ふいにリハビリの先生が病室のドアをノックした。問い詰めることもなく、私が忘れた淡い黄色の封筒をそっと差し出した。


『命の恩人のために、頑張るんじゃなかったの』

『意地悪、言うんですね』


 口角だけを無理に上げて、かすれた声で「そうですね」と返す。先生の言う通りだった。

 この胸の奥で動いている鼓動は、もう私ひとりのものじゃない。顔も知らぬ誰かが託してくれた命の鼓動。つまずいて休むことはあっても、ここで止めることだけは裏切りになる──そう胸の奥で呟いた。

 何より、立ち止まっていたら、君に心配させてしまうから。


 ──また、“足”が必要か?


 掌を空にかざしていると、君の声が胸の奥でかすかに反響した。

 私は唇の端だけで笑い、空に向かって答えた。


「そんなわけないじゃん。見てなよ、ばーか」


 喪服の人々に囲まれ、私はどこまでも青い、澄んだ空を仰いだ。晴天の空に見守られながら、涙を流すのはこれで最後──心の中で君にそう誓った

 私は、両親に声をかけ葬儀場をあとにする。「松葉杖は?」と背中から声が飛んだ。私は振り向かずに、「自分の足があるから」とだけ返し、そのまま歩き出した。


(君の仏壇には、胸を張って報告できるようになったら行くから。だから、待ってて)


 返事があるはずもないのに、胸の奥で“待ってる”という声がかすかに響いた気がした。その幻の声に笑われないように、私は袖で涙を拭い、弱い私を置いていく。


 ***

「あら、大きくなってぇ」

「……最後に会ってから、一ミリも身長伸びてないですから」


 数年振りに──いや、病気で倒れる以前振りにだから、十年以上訪れていなかった彼の実家。

 おばさんに軽く背を押され、リビングへ足を踏み入れる。そこでは、白髪の増えたおじさんがマグカップを手にくつろいでいた。


「おじさんも、お久しぶりです」

「あぁ、久しぶり……大きくなったな」

「いや、だから──」


 言いかけた言葉を飲み込み、私は黙った。二人の目は柔らかく、まるで成長した子の姿を確かめるように私を見ていた。

 私も小さく笑みを返した。


「はい。頑張って走ってきました」


 二人と取り留めのない話に笑い合い、穏やかな時間が流れていった。

 おじさんから差し出されたマグカップ。ミルクが渦を描くカフェオレを一口含むと──甘すぎるけれど、大好きな味。君にもよく作ってもらったことを思い出す。

 リビングの一角、本棚にはおばさんの園芸の本が並んでいた。その中に『花言葉全集』の背表紙を見つける。ページを開きもしないのに、君と交わした約束が蘇り、胸がじんとした。

 そんな楽しい時間の終わりを知らせるように、突然、携帯の着信音がリビングに割り込んだ。画面に映るのは、部下の名前だった。


「もう時間なの?」

「はい……また、近いうちに時間は作りますので」


 二人が向けてくる微笑ましい視線に、頬が熱くなる。思わず視線を逸らし、リビングの隣の部屋へと足を向けた。

 畳張りの和室。がらんとした空間の中央に、君の仏壇がぽつんと置かれていた。写真の中の君は、あの頃と変わらぬ笑顔を見せている。

 仏壇の前に座り、目を閉じ手を合わせる。


(君が驚くような報告を持って来たんだよ)


 言いたいことは山ほどあったが、限られた時間ではとても足りない。だから最後に──また来るよ、とだけ伝える。

 ゆっくりと目を開け、君の笑顔を胸に刻もうと仏壇を見つめた。その奥に、見覚えのあるものがちらりと覗いていた。


「どうして……これが、ここに」


 淡い黄色の封筒が、何十通も重ねられている。日焼けして色褪せたその束は、かつて私が命の恩人へ宛てて書いた手紙。

 現実が頭に入ってこない。そんな、でも──口の中で意味をなさない言葉だけがくぐもり、息が詰まる。


「私達の自慢の息子だよ」


 おじさんとおばさんが、私を挟むようにそっと座った。


「先に逝くなんて親不孝者、とも思ったけどね。自分の大切な人のために逝くなら──私達が褒めないで誰が褒めるって言うんだ」

「で、でも、交通事故だって──」

「あぁ、事故だったよ。紛れもなく、アレは交通事故だった」


 そんな奇跡みたいなことが起こっていいのだろうか。

 君は、ずっと、私の事を支えていてくれていたと言うのか。君は、今まで、ずっと私の傍にいてくれたと言うのか。


「そんなの……そんなの、ずるいよ」


 私は、どうすれば君に恩を返せるのか。いや──どうすれば、この想いに報いられるのか。

 ずっと堪えてきた涙が、一気に溢れ出す。これまで辛くても、大変でも立ち止まらずにいた心の堤防が、音を立てて崩れていくようだった。

 気づけば、子どものように声をあげて泣きじゃくっていた。


「あの子は、いつも貴女の話ばかりだったのよ。約束したから、花言葉を勉強するんだ──って言い出して」

「退院したら、美味しいの飲ませるんだ──って、ドリップの動画も見ていたな」


 記憶が、思い出が──君への想いが溢れていく。

 この感情をぶつける相手がいないなんて、君はなんて酷いことをするんだ。私に渡すばかりで、恩返しをさせてくれない君はなんて残酷なんだ。

 こんな気持ちを──伝えようにも伝えきれない。君への愛を、私にどうしろって言うんだ。


「ったく……君には敵わないなぁ」


 仏壇に立てかけられた君の写真。憎たらしいほどの笑顔を向ける君を、私は思いっきり指で弾く──。

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