喫茶店-第十三輪-
チン──と澄んだ音が喫茶店に広がった。その響きが妙に遠く、終わりを告げる鐘のように胸に沁みた。思わず振り向けば、カウンター越しに見えるのはマスターの背中。戸棚に食器をしまう仕草が、いつも通りの静けさを保っている。それが逆に、この時間が終わりに近づいていることを告げているようで──胸がざわめいた。
記憶のない私に、ずっと寄り添い優しく微笑んでくれた人。声には出さず、目を閉じ、心の中で感謝を伝える。今、口に出してしまうと、なんだかそれが最後になってしまう気がしたから。
そっと瞼を開けると、視線の先──テーブルの上に、いつの間にかカフェオレが置かれていた。白い湯気が立ちのぼり、ほろ苦さと甘やかな香りがふわりと鼻をくすぐる。
両手でマグカップを支える。手に伝わる、優しい
気付けば、頬を伝った雫がテーブルに落ち、小さな斑模様が広がっていた。
──これで、お別れなんだ。
ずっと朧気だった私の記憶。走馬灯のように断片ばかりだった生きていた頃の出来事が、今はまるで昨日のことのように鮮明に蘇る。
思い出したいと強く願いながらも、心の奥では思い出したくないと拒んでいた。その矛盾に満ちた記憶を、今はっきりと思い出せる。
それは、悲しみを帯びた少し先の物語。それでも、不思議と心は前を向いていた。
手に伝わる温かさを感じながら、マグカップをそっと口元へ運ぶ。
口の中に広がる苦味と甘み。喉を通っていく感触。そして、お腹の中で徐々に広がっていく温もり。
初めてここに来た時にも感じた、理由のわからない落ち着きを与えてくれる味。その味すら、これが最後だと思うと──行儀が悪いと知りながらも、つい口の中に留めて舌の上で転がしてしまう。
マグカップの底と目が合い、惜しいと思いながらテーブルへと置く。その瞬間、視線の先に──いつから置かれていたのだろう、透明な花瓶に生けられた一輪の黄色い花が目に入った。
「これは……彼岸花?」
これが──
ゆっくりと、黄色い彼岸花の
触れてしまえば、私の記憶が見える。そして、きっと、それが最後になる。
この落ち着きに満ちた喫茶店。コーヒーの苦みや、果物の甘い香りが漂う空間。そして、カウンターの向こうで、変わらず背を向けて立つマスター。
花に向けていた視線を、カウンターに向ける。
「結局……マスターの顔、見れなかったな」
あのモヤの下に、顔があるのかは分からない。けれど、何度も確かに感じた優しい視線。せめて最後くらいは、目を合わせてお礼を伝えたい──そんな気持ちが込み上げてくる。
でも、こうやってウダウダ理由を並べているのは──結局、私がマスターに惹かれてしまっているから。だから顔を見たいのだろう。
これは、記憶の向こうにいる“あの人”への裏切りだろうか──と考えるが、首を振る。マスターへの気持ちは『愛してる』とか『恋してる』ではなくて。ふと、先程まで触れていたマーガレットに目が止まり、自分の感情に当てはまる言葉が浮かぶ。
「──友愛」
私は、マスターの人となりに惹かれているのだ。恋とかそんな感情じゃなくて。
これは、“あの人”への裏切りではない。むしろ、“あの人”とマスターを引き合わせてみたいとさえ思う。
きっと、二人は話が合うだろう。その光景を隣で眺めながら、私はマスターが入れてくれたカフェオレを味わう。もしかしたら、二人の話が盛り上がって私が放置されて。それに対して、私が文句なんか言ったりして。
「残りたい理由ばっかり湧いてきちゃうなぁ……」
後ろ髪が引かれる。きっとマスターを困らせてしまう。
マスターの困り顔も見てみたい──そう思って、ふっと唇の端を上げる。そんなこと出来るはずもないと、自分が一番わかっている。
両手を天井へと高く伸ばし、ぐっと背筋を伸ばす。よし──と気合を入れ直し、目の前の“黄色い彼岸花”へ手を伸ばす。
これが最後。
私の休憩時間はこれで終わり。いつまでも休んでいては、マスターに笑われてしまうから。
(行ってきます)
誰に向けるでもなく、その別れの挨拶を心の奥でそっと呟いた。
花弁の優しい肌触りが、指先にそっと触れる──。
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