マーガレット-信頼と愛を奏でて-(上)
母親から「あんたに手紙来てたわよ」と電話を受けたのは、一週間前のことだった。
仕事帰り、宅配ボックスを開けると、実家からの仕送りの段ボールが置かれていた。野菜や調味料がぎっしりと詰まった一番上に、場違いなものが一つ。
送り主の名前はどこにもなく、代わりに『タイムカプセルプロジェクト』とだけ印字されたピンク色の封筒──それを見つけた瞬間、胸の奥がかすかにざわつく。私はしばらく立ち尽くし、やがて覚悟を決めるように、そっと封を切る。
『拝啓 私の一番の親友へ』
そんな一文から始まっていた手紙。
懐かしい字──学生の頃、何度も目にした丸みを帯びた文字。
紙からは、かすかに香水の匂いが漂っていた。高校時代、私が好んでつけていた、安価で容器ばかり可愛いあの香水。今はもう廃盤になったそれも、似た香りを嗅ぐたびに必ず思い出す。
そんな香水を「いい香りだね」と笑い合った記憶が、ふっと胸によみがえる。
“親友へ”と書かれた手紙。
あまりに昔の、学生時代の青い記憶。それに触れる勇気がすぐには持てず、続きを読むのをためらった私は、開いた手紙をそっと封筒に戻した。
目を逸らすように、実家からの仕送りを漁る。
野菜や調味料、インスタント麺──一人暮らしにはありがたい品々に混じって、透明なA4のファイルが一枚入っていた。ファイル越しに見えたのは、否応なく学生時代を思い起こさせる懐かしい楽譜。
所々に私の字で走り書きのような書き込みがあり、自分でも判読できない文字もある。それでも確かに、あの頃の私の筆跡だった。
A4のファイルに入った楽譜。そして、私を“親友”と呼ぶ人物からの手紙。
テレビの音すらない静かな部屋に、ため息だけがやけに大きく響いた。膝に手を置き、ようやく腰を上げる。足は自然とクローゼットへ向かい、取っ手に触れる。
仕事用のワイシャツばかりが並ぶ、飾り気のないクローゼット。その奥から黒いケースを引っ張り出す。
最後に手入れをしたのはいつだっただろう──懐かしさに胸をざわつかせながら、ゆっくりとチャックを開ける。
金具が手に伝える冷たい感触。夕暮れの教室を思い出した瞬間、一気にチャックを下ろした。
「意外に、綺麗じゃん」
ケースの中に眠っていた木目調のアコースティックギター。最後に触れた日のままの姿で、静かにそこにあった。
高校を卒業してから、一度も手を伸ばしたことはない。気づけば十年近くの時が流れていた。
まるで初心者のように慎重にケースから取り出す。けれど体は、その重みと形を覚えていたのだろう。自然と指が定位置を探り当てる。
試しに弦をはじいてみる。響いた音は、記憶の中の澄んだ響きとは程遠く、濁った残響だけが部屋に広がった。
「そりゃ……弦もダメになってるか」
錆びついた弦に指先が触れ、べたりとした感触が残る。思わず顔をしかめながら、汚れていない方の手で脇に置いた封筒へと伸ばした。
「ねぇ。チューニングって……どうやるんだっけ」
答えが返ってくるはずもないのに、封筒の向こうにいる彼女に問いかけてしまう。きっと、呆れた顔で「貸して」と言いながら教えてくれるのだろう。いつもそうしてくれていたように。
ギターを膝に乗せたまま、私はそっと目を閉じる──夕暮れの、あの空き教室を思い出すように。
***
「ねぇ。チューニングって……どうやるんだっけ」
カチャリ、とドアの開く音がした。反射的に振り向くと、入り口には彼女の姿があった。私は思わず笑みを浮かべ、問いかける。彼女はため息まじりに肩をすくめながら歩み寄って来てくれる。
夕暮れの光を背にしたその姿は、まるで物語の主人公のように見えた。気だるげな表情とは裏腹に、差し出された手は細く整い、丁寧に手入れされている。
「いい加減に覚えなさいよ……ほら、貸して」
私の手からギターを受け取った彼女は、無駄のない動きでチューニングを合わせていく。その横顔を、私は嬉しさを隠せずに覗き込んだ。
弦を押さえる指は細くしなやかで、爪の先まできちんと整えられている。つい「女の子らしい手だね」と口にしたら、彼女は眉をひそめて「うるさい」と吐き捨てた。
けれどその後の音合わせは、ほんの少しだけ優しくなっていて──胸の奥があたたかくなるのを、誤魔化すように笑った。その笑みを、今もはっきりと覚えている。
「ほら、できたよ……って、何でニヤニヤしてんのよ」
「ううん!ありがとう!」
ギターを受け取り、隣に椅子を引き寄せる。
彼女も自分のギターを取り出し、それぞれ同じ楽譜を広げて音を重ねていく。
下手な私に合わせ、彼女はわざとゆっくり弾いてくれる。私が何度も間違えて止まってしまっても、黙って同じ小節から弾き直してくれる。
口数は少なく、いつもぶっきらぼう。クラスでも一人でいることが多いのに、その孤独をまるで気にしていないようなところが、私にはたまらなく格好よかった。
だからこそ──あの黒いケースを背負う姿を見たとき、気づけば声を掛けてしまっていた。
『そ、それ。何が入ってるんですか!』
放課後。ざわめきの残る本館を背に、彼女は人気のない別館へと歩いていく。気づけば私は、その背中に向かって声を張り上げていた。
私の声は、静まり返った廊下に大きく反響する。振り返った彼女は一瞬驚いた顔を見せ、次の瞬間、ふっと笑って答えた。
『ライフル銃が入ってんだよ』
『ライフル銃……?』
聞き慣れない言葉に首を傾げる私に、彼女は笑みを浮かべたまま歩み寄ってきた。距離が一気に詰まり、あと少しで触れてしまいそうなところで立ち止まる。
伸ばされた指先が、私の額に軽く触れる。
『そう。こうやって──バーンってね』
効果音と同時に額を押され、不意を突かれて二歩、三歩とよろめいた。
そんな私を見て、彼女は声を立てて笑い、そのまま踵を返して歩き出してしまう。
『ま、待ってよ。教えてくれたって──』
伸ばした手の先で、彼女はふいに立ち止まり、振り返った。指先でいつの間にか手に持っていた鍵をくるくると回しながら、涼しい声で告げる。
『知りたいなら、来なよ。別に隠してるわけじゃないしね』
そう言い残し、彼女は階段を上がっていく。その背中を慌てて追いかけた。
三階の一番奥──名札すら掲げられていない教室の前で、彼女は立ち止まる。慣れた手つきで鍵を差し込み、ドアを開いた。
開かれたドアの向こうには、夕日が差し込み、教室全体を真紅に染め上げていた。
『ようこそ。私の“ハコ”へ』
『ハコ?』
『そ。私専用の……練習兼、演奏場所』
彼女はそう言って、背中に背負っていた黒いケースを開ける。中から現れたのは、見慣れた楽器に似ていながら、どこか異なる存在感を放つ弦楽器だった。
ヴァイオリンより大きく、チェロよりは細身。その姿はすらりとしたシルエットを描き、夕日の赤を映して輝いている。木目が透けるその色合いは、ただ「綺麗」という言葉では足りないほどに美しかった。
『……綺麗な色』
『だろ』
木目の落ち着いた艶をまとった弦楽器を、彼女は誇らしげに抱え、私へと示した。
彼女は席に腰を下ろすと、弦を軽く弾いてみせる。その音は澄んでいて、どこか深呼吸したくなるような響きだった。
『ドア閉めといて』
『あ、うん』
私がドアを閉めるのを見届けてから、彼女は本格的に弾き始めた。それは、私でも知っている有名なJ-POPのはずだった。けれど、耳に届く音は激しさを削ぎ落とし、柔らかく心に沁み込んでいく。
私は息を呑み、ただその音色に聞き惚れていた。今でも、その瞬間をはっきりと思い出せるほどに──。
***
「そう言えば、この曲って、最初に聴かせてくれた曲だっけ」
透明なA4ファイルに収められた楽譜。
べたついた指先を洗い落とし、タオルで拭きながら手に取る。中身を丁寧に引き出して広げると、自分でも笑ってしまうほど汚い書き込みが並んでいた。
「ここ気を付ける!」と書いてあるのに、肝心の“どこ”が分からない。けれど、その走り書きの線の勢いだけで、当時の熱が甦ってくる。
親友の演奏に惹かれて「私もやりたい」と言い出した日のこと。いつも無表情な彼女が、その時だけぽかんと口を開けていたのを思い出す。胸がくすぐったくなり、思わず口元が緩んだ。
「練習したら、また弾けるかな……いや、その前にチューニングの方法を動画で調べて──いや、そんなことより、まずは弦を買わなきゃ」
口から漏れた独り言に自分で苦笑しながら、クローゼットを探って軍手を引っ張り出す。
壁掛け時計に目をやる。秒針の進む音がやけに大きく響いた。今から走れば、駅前の楽器屋にまだ間に合う。そう計算して、ポケットに鍵と財布を滑り込ませると、私は玄関へと足を踏み出した。
その瞬間、踏み出した足を部屋へと戻し、ギターの入ったケースを背負う。懐かしい重さ。心地よいとも思えてしまうその重さと共に、私は玄関のドアノブに手をかける──。
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