喫茶店-第六輪-

 白い小さな病室。ベッド脇の窓から差し込む光が、シーツを透かしていた。ベッドの傍らに座る人影。その気配が愛おしくて、訪れを待つ時間さえ、小さな宝物のように思えた。


 気付けば、涙が頬を伝い、膝上に置いた手の甲へと落ちていく。

 夏椿に伸ばしたままの手は動かせず、もう片方の手で目元を拭う。それでも、涙は止まってはくれなくて。

 花を通して触れた誰かの記憶が、私自身の奥に積もっていた記憶と静かに重なっていく。


「大丈夫ですか?」


 マスターが私の前にそっとハンカチを差し出す。その仕草に、声の優しさに、小さく心が揺れる。

 受け取ったハンカチで涙を拭う私を、マスターは黙って見守っていた。その視線がどこかくすぐったくて、泣いているところを見られていることが堪らなく恥ずかしくて、私はそっと顔を俯かせた


「あの……できれば、見ないでもらえると……」

「……そうですよね。すみません。少し、席を外しますね」


 マスターは静かに頷くと、夏椿が入った花瓶をそっと抱えたまま、背を向けて席を離れる。店内には、遠ざかる足音が小さく響き、夏椿の香りだけを残していく。

 受け取ったハンカチを目元に当てながら、瞼の裏に浮かぶ記憶にそっと触れる。


 花の匂いが漂う、小さな病室。

 誰かが花束を抱えて入ってきて、ベッドに横たわる私は、それを嬉しそうに起き上がって待っていた──でも、そこから先は何も思い出せない。思い出そうとするほど遠くに滲んでいく


「私は……病気で死んじゃったの?」


 そう呟いた言葉が、喉の奥に重たく残る。

 私の人生がそんな理由で終わってしまったかと思うと、胸の奥がじわじわと悔しさで満ちていく。

 他には、ろくに何も思い出せない。思い出せないけれど、何もできなかったまま終わってしまったんじゃないか──そんな人生なんて、と喉まで出かけて、言葉を飲み込む。


 夏椿を通して見た記憶。ベッドに横たわる”あの子”は、決して人生に絶望しているようには見えなかった。それどころか、誰かに感謝しているようにさえ見えて──。

 でも、だからこそ、そんなのはどうしても納得がいかなくて。


「……怖いよ」


 私も、あの子みたいに“感謝”を伝えられないまま終わってしまったのかもしれない。それが、何より怖かった。

 死ぬことそのものよりも、私を想ってくれた誰かに何も言えなかったのではないか──そう思うと、マスターから受け取ったハンカチを持つ指先が静かに震えた。


 そんな不安が胸を塞ぎかけた瞬間──鼻先を甘い風がかすめる。空気が変わった。強い香りが、静かに店内に満ちていく。

 私は俯いていた顔を上げ、ふと香りのする方に目をやる。店内の端には、オレンジ色の小さな花を無数に付けた幹が花瓶に飾られていた


「確か、あれは……」

金木犀きんもくせいですね」


 低く穏やかな声に振り向くと、いつの間にか、私の席の横にマスターが立っていた。

 マスターの手には、一輪の白い花があった。

 私のために持ってきてくれたのだろうか──そう思い、声を掛けようとした瞬間、マスターはふっと目を伏せて、小さく笑ってみせる。


「この花は、後にしましょう。今は──貴女が気になった、金木犀を」


 そう言うと、白い花を花瓶ごとカウンターに置き、代わりに金木犀をそっと抱えてくれる。

 花が近づくにつれ、存在を主張する甘い匂いが強くなり、胸の奥に秋の涼しい風景を呼び込んでいく。


「名前は金木犀。匂いも良く、観賞用に庭先や街路樹としても見かけますね」


 秋に、住宅街を歩けば必ずといっていいほど漂ってくる香り。あるはずのない記憶をくすぐる、その甘い匂い。けれど目を閉じると、瞼の裏にうっすらとその光景が浮かぶ。


「金木犀と対をなすように、銀木犀ぎんもくせいという花があります。また、実は花が薬となったりと、有名な花のわりには、世間一般にはあまり知られていないことが多いんですよ」


 銀木犀。そんな花があるのか。それに薬になるなんて──相変わらず、マスターの花知識は尽きない。

 その”変わらない”様子が、私の不安をそっと和らげていく。


「甘い香りや小さな花を指して『初恋』。また、『真実の愛』といった花言葉を持ちます」


 小さな花なのに、ひそやかに強く存在を主張する金木犀。

 甘くて優しい香りに誘われるように、不安の隙間をそっと埋めるように──私は迷いながら手を伸ばす。


 私の中に残っているかもしれない、誰かを想った記憶に触れたくて──。

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