喫茶店-第五輪-
「写真……」
黄色い花畑。遠くに立つ誰かの影がカメラを構えていて──そのカメラに向かってピースをしている私。
自分の記憶のようで、誰かの記憶のようで。そんな記憶によって、胸の奥がざわついている。
「どうされましたか?」
その視線に背中を押されるように、頭に揺れるぼんやりとした映像を口にする。
「花畑にいるんです……黄色い花が沢山咲いていて。そこで、誰かに楽しそうにピースをして……」
「他には、何か思い出せましたか?」
優しく問いかけるマスター。その声が、記憶の奥をそっとなぞる。
「私の視線が……花の高さとあまり変わらなくて。子供の頃の記憶……?」
お腹の高さに咲く、何の花かは分からないけれど、やわらかい黄色の花。陽射しに透けて、花弁が小さくゆれているのを、私はじっと見つめていた。
あのとき私の目の前には、カメラを構える誰かの影があった気がする。誰に向けてピースをしたんだろう。
懐かしく、心がじんわりと温かくなる。鮮明とは言えない記憶なのに、なぜか自然と頬を伝い、涙が流れた。
「これは……私の記憶なのでしょうか」
「はい、貴女の記憶です」
なぜか、ハッキリと言い切ってくれるマスター。マスターが私の過去を知るわけがないのに。でも、言い切ってくれた言葉が嬉しくて。これが私の記憶なんだ──と安心する。
沈黙が流れる店内。どこかで小さく時計の針が鳴っている。その静かな時間が心地よくて。
「私の記憶……私、笑ってました」
「それは良かったです」
「はい……よかった」
私の記憶はきっと、辛い記憶じゃない。それが分かっただけでも、安心して一歩を踏み出せる。まだ、ほんの断片のような記憶だけれど、私は笑っていたから。
「──だから、もう少し……思い出してみたいです。私の、なくした記憶を」
どんな記憶なのだろう、と不安はあった。しかし、その憂いが消えた今、この笑顔の続きが見たくて。
私の言葉を聞き、マスターは紫陽花の入った花瓶を持って立ち上がる。
「少し、待っていてください」
そう言って、カウンターの方へ歩き出すマスター。気づけば、カウンターには花瓶がいくつも並んでいた。
マスターは花瓶を持ったままカウンターに歩み寄り、そっと置くと、小さな“ことん”という音が店内に響く。その途端、花々の香りが微かに鼻先をくすぐった。
マスターはその並びを指先で少しだけ整えながら、どこか
アネモネ、紫陽花、向日葵に彼岸花。どれも私が触れた誰かの、大事な最後の記憶。並んでいる様子が、記憶の標本のように見えて、胸が少しだけきゅっとした。
そんなことを思っていると、マスターが新たな花瓶を持ってテーブルに戻ってくる。
「こちらをどうぞ」
置かれた花瓶には、5枚の
「
「いいえ、夏椿です」
「……椿なんですよね?」
「いいえ、夏椿です」
二人の間に沈黙が流れる。
マスターは何を言っているのだろうか。"椿"とマスター自身も言っているのに、なぜ私の答えを間違いと言うのだろうか。
マスターの楽しんでいる雰囲気を感じとりながら、少し考えて、マスターに問う。
「もしかして……"夏椿"と"椿"って別物なんですか?」
「はい、その通りです」
マスターの声がどこか嬉しそうだ。満面の笑みをしてそうな表情が、自然と思い浮かぶ。物理的には見えないが。
あぁ、また花の豆知識が披露されるな──なんて、少し面白く思って笑う。
「この花は"夏椿"といいます。"椿"とは完全に別種です。属している『科』は同じでも『属』が違いまして──」
どうやら、今回の豆知識は少し難しいということが分かった。別種と言っていながら、『科』は同じと言い……理解が追いつかなくて、マスターに助けを求める視線を送る。
「す、すみません。えーっと、そうですね……あれです。同じ『猫科』だけど、その中に"ネコ属"や"ヒョウ属"、”チーター属”があるって感じですね」
「なるほど!」
マスターは、私の反応で安心したのかホッとしている。
私も小さく笑って息を吐いた。こんな風に、分からないことを分かりやすく教えてくれるマスターの存在が、なんだか嬉しい。
「夏椿は、朝に花を咲かせ、夕方には花を散らす"一日花"と呼ばれる花です。アサガオも同じですね。そんな
儚い美しさ──一瞬だけ咲いて、すぐに散ってしまう花のように。この記憶を持っていた人の気持ちも一瞬で散ってしまったのかもしれない。
そんな、どこか不安を抱きながら私は手を伸ばす。白い花弁に伸ばした指先が静かに触れる。
──この
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