10 若草町

もう、自分の居場所はない、なんて思わないようにしよう。

あの日、あの駅前広場で、私は誓いを立てた。


益次郎に市バスを力説されたしみずは、しばらく「市バス沿線」というものを探ることにした。

今日行くのは若草町である。5系統の終点。地図で読んだことはあったが、正直、何があるかさっぱり知らない。

路線図を確認すると、新長田駅から妙法寺駅北部へ行くらしい。


休日早朝の新長田駅は、驚くほど人がいない。

市バスの始発はたいてい5時か6時台で、系統によってもっと遅い場合もある。

乗り込んだのは私を含めて3人。

しみずはバスに乗ると、きまって一番後ろの席に座る。乗客を俯瞰するのが昔から好きなのだ。

俯瞰症候群

自分勝手にそんな名前を付けている。


先月訪れた板宿は、車窓から見てもやはり「交叉点」だ。あんなに小さかったかな。あのアーケード。

前池町のあたりで妙法寺川と並走する。この川はあまり好きではない。コンクリートで整備され、あまり川という実感を得ない。

禅昌寺までは意外にも平地だ。向かいの停留所に反対からバスが止まる。それを待って、バスは発車する。

そこから急に、すれ違いが困難な細道に入る。なるほど。バス同士で行き違いをしていたのね。


停留所間隔が地図で見るより短く設定されている気がする。歩くのがしんどいからか。

高速道路の高架をくぐり、右手には送電線の鉄塔がたくさん見える。ところどころ開発から取り残された緑の領域が見え、ここが奥須磨であることを感じさせる。


「この車は、若草町方面に参ります」


中田の手前から山道に入り、車竹ノ下で右手に山を見る。

振り返ると、車両後部の横長の窓から、ドミノのように中層建物が段々状に並ぶ。しみずがシャッターを切る間にも高度を上げていき、ドミノは遠ざかっていく。


若草町の回転地は、坂を上がる途中にあった。ガードマンが立っており、2台分駐車できるスペースがある。

バスを降りたはずの1人の客が、乗り場で別のバスを待っている。東白川台方面へ乗り継ぐのだろうか。


少し歩こう。まだ朝7時くらいか。

右手だけ手袋を外し、ジャンパーのポケットから古びた地図帳を取り出す。東白川台も白川台も、ここから歩いていけそう。


22号線を歩いて白川台方面へ。

白川峠の交差点を過ぎたあたりに空き地があり、そこから名谷駅前のビル群が見える。駅前再整備が進み、クレーンが見える。

数年前から各地で再整備が進んでいることは、広報誌で見て知っていた。掲載された完成図では、時間の流れを感じさせないほどにその装いを変え、新しい出会いが生まれる場所、と宣伝される。

色白の手指で構えた携帯の画面が、少しだけその輝度を取り戻す。


さびれたクリーニング屋のガラスや、開店前の無人のミニコープの前をかすめて、金髪のTreiberは、歩みを遊ばせる。歩いては、立ち止まる。進んでは、振り返る。

昨日通勤途上で読んだ本にあったように、脳が刺激を欲している。中脳からドーパミンが放出され、神経は研ぎ澄まされる。

ダンプカーのノイズすら心地よい福音となり、頭の中の記憶が、目の前のすべてが。ブロックキューブの段差が瞬時に解消され、昔解いた簿記の各数字が意味を持つように、全てに血が通う。幼いころ読んだ新聞紙大の路線網が、網膜にフラッシュバックする。


これなら朝9時までには家に戻れそうだ。

「忘れていないよ、約束」

名谷駅まで徒歩40分。検索結果の画面に、そう表示される。

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