バイバイ、ビューティフル

下村アンダーソン

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「ああくそ、なんだって本ってこんなに重いの」床から段ボール箱を抱え上げかけていた琉夏さんが、中腰のまま唸り声をあげた。「紙の塊のくせに生意気な」

「紙の塊だからでしょう。無理なら置いといてください。私がやりますから」

「まじ? さすが皐月」

 彼女は嬉々として箱から手を離した。そのまま自分の椅子に直行しようとしたので、私は深く呆れて、

「本を棚から出すとか、空いた場所を拭くとかしてください。休憩には早いです」

 高校の入学祝いに貰った腕時計の、青い文字盤に視線を落としながら告げる。まだ四時半を少し過ぎたばかりだ。今日の活動――蔵書整理と大掃除を開始してから三十分ほどしか経っていない。

 この杠葉高校文芸部は、現在二年生で部長の倉嶌琉夏さんと、私、志島皐月のふたりきりの、言うなれば弱小集団だ。昨年の時点で危うく廃部になりかけていたところを、琉夏さんがなんらかの手段で復活させ、部長の座に収まった。動機が文芸創作への強い情熱であれば立派なのだが、残念ながらそうでないことはこの数箇月ではっきりと露呈している。普段の彼女は独自に持ち込んできた漫画の頁を捲ったり、お菓子を摘まんだり、瞑想に耽ったりするばかりで、要はのんべんだらりと放課後を過ごすための穴蔵として部室を欲したに過ぎないというのが、私の見解である。

 今回の大掃除は、生物部から巨大な業務用ラックを譲り受けるための下準備だ。先日、部室の西側に設置してあったもはや骨董品というべき本棚が、遂にして崩壊した。生徒会管財担当とのやり取り、琉夏さんに言わせれば「死闘」の果てに、私たちは新たな棚を入手する権利を得たのである。

「なんでこんなに本があるかな。皐月、段取り上手で屈強な助っ人いない? チェスボクシングの選手みたいな」

「そんな都合のいい人、いるわけないでしょう。というか、おかしな競技を創出しないでくださいよ」

 琉夏さんは古びた文庫本を掴み出し、掌で埃を払った。蛍光灯の白いあかりのなかで、細かい粒子が舞う。「チェスボクシングなら残念、ちゃんと実在します。記念すべき第一回世界大会はアムステルダムで開催、チャンピオンはリングネーム『ジョーカー』ことイップ・ルービング選手」

「はあ。決勝の対戦相手は?」

「オランダ出身、『弁護士』ルイス選手。ちなみに時間切れでの決着」

 即答だった。それにしても話があまりに嘘っぽすぎて、かえって真実味が感じられなくもない。「どういう競技なんですか、そもそも」

「えっとね、第一ラウンドではまず四分チェスを――」

 ノックの音がした。それからボクシングで二分間、などと喋りつづけている琉夏さんを黙殺し、私は踏み台にしていたパイプ椅子から降りた。ドアを開けに向かう。

「失礼しまーす」

 と入り込んできた女生徒の姿を一瞥するなり、琉夏さんの表情は一変した。感情がここまではっきり顔に出る人も珍しい。寝起きの猫のようなしわがれ声で、

「なんの用なんだよ、目黒」

 目黒さんは笑顔を崩すことなく、「ちょっと相談っていうか、話を聞いてほしくて。いま忙しいかな?」

「誰がどう見ても忙しいでしょ。万が一、超が付くほど暇だったとしても、あんたや生徒会のためには指一本動かしたくないけどね」

「まあ、聞くだけ聞いてよ。倉嶌さんが好きそうな話だなって思って、律ちゃんには内緒で来ちゃったの」

 琉夏さんが殊更に顔を顰める。文芸部、というか主に琉夏さんが「死闘」を繰り広げた相手というのが、この目黒雛さんおよび、生徒会管財担当の楠原律さんなのだ。

「楠原の奴、今日も元気に地上の空気を吸引してるのか。ほんとにむかつく」

 あまりにも出鱈目ないちゃもんである。いつでもこの調子だ。

「散らかってますけど、座ってください。本棚の件、お世話になりました」

 私としては目黒さんにも楠原さんにも本当に世話になっているので、非礼を働く気にはなれない。琉夏さんが過剰に生徒会を敵視しすぎているだけだと、つねづね思っている。

 私が運んできた椅子に目を向けた琉夏さんが不服そうに、「それは私の」

「学校の備品ですよ。それでお話っていうのは?」

「実はね」着席した目黒さんが、どこか愉快そうに発する。「演劇部でクーデターが起こりそうなの。部長を退任させて、現副部長が取って代わる計画があるんだって」

「へええ」と途端に琉夏さんが頬を緩めた。段ボール箱に腰を落ち着ける。自分とは関係ない場所で起こる揉め事が大好きという、ちょっと救いがたい性質が彼女にはある。「いちおう詳しく聞こうかな」

 やったあ、と目黒さんが両手を打ち合わせた。私たちを交互に見やって、

「演劇部のいまの部長、澤城さんのこと、ふたりは知ってる?」

 私はかぶりを振ったが、琉夏さんは頷いて、「八組の澤城円。サングラスかけて登校してくるって噂の奴でしょ? あれ本当なわけ?」

「本当らしいよ。目撃証言、多数あり。演劇部の看板なのは間違いないけど、部長としての適性はどうかって、前々から言われてはいたみたい。実務はぜんぜんやらないし、部長会議にも出てこない。部内でも我儘放題っていうか――」

「女王様気取りってことか」

「そんな感じらしいの。いよいよ我慢できなくなった部員たちが相談して、澤城さんには部長を辞めてもらおう、と」

「ずいぶん温情的だね。追放すればいいのに。あとで嫌がらせされそうでびびってるのかな」

「そのへんの事情は分からないけど、とにかく副部長の緒賀くんのほうが、ずっと部長に相応しいっていうのが、演劇部内での見解らしいよ。もちろん澤城さん派もいるとは思うけどね。あの人、本当にオーラあるから」

「オーラねえ」と琉夏さん。「ま、澤城がいけ好かない奴だってのは分かった。話としてはけっこう面白いね。じゃあ目黒、私たち大掃除の続きがあるから」

 琉夏さんがわざとらしく席を立ちかけたので、私は慌てて、

「まだ終わってないじゃないですか。それで目黒さん、文芸部への依頼は? 具体的になにをすればいいんですか」

「聞いてくれるの?」目黒さんが身を乗り出す。

「聞きます。本棚のお礼っていうのはなんですけど」

「勝手に話を進めるな。文芸部部長は私なんだから、私が厭と言ったら厭だ。生徒会のためには絶対に動きたくない」

「自分の好奇心に基づいて動けばいいじゃないですか。いつもみたいに」

 ねえ目黒さん、と促すと、彼女は嬉しそうに顔を上下させた。「聞いてくれるなら助かる。部長を辞めさせるなんて例がないから、生徒会でも対応に困ってるの。監査はもちろんやるけど、他の視点も欲しい。演劇部の様子を探ってきてくれないかな。探偵らしい仕事でしょう?」

 ぶつぶつ不満を洩らしている琉夏さんを余所に、私は目黒さんと打ち合わせを始めた。なんだかんだと理由を付けて騒いでいても、倉嶌琉夏という人間がけっきょく好奇心には抗えないことを、私は知っている。目黒さんも彼女のそういう性格を理解してだろう、澤城さんの突飛なエピソードや演劇部の受難について、あれこれと語ってくれた。打ち合わせは長引き、はたと気が付いたときには下校時刻が迫っていた。

「ごめん、大掃除の邪魔しちゃったね」目黒さんが鞄を手にして立ち上がったかと思うと、あれ、と呟きながら部室の奥、方角でいうと西側の壁に顔を向けた。カーテンを摘まんで少し開き、「こっち、窓だったんだ」

「以前は、本棚がほぼ完全に前を塞いでたんです。せっかくなら模様替えしようって、私が提案したんですよ。この部室、窓が二箇所あったんだって、壊れた本棚を退かしてみて初めて知りました。考えてみたら文化部棟の角なんですよね、ここ」

 かろうじて存在を認識できていたほうの窓も、積みあがった蔵書やがらくたに遮られて、ほとんど機能を停止している。見て見ぬふりを続けてきた惨状を解決すべきときが来たと、私は強く思ったのである。

「掃除は明日また頑張ります。終わり次第、作戦を遂行しますから」

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