第六話
あの時の鼬
もともと荷物のほとんどなかった私の引っ越しは簡単だった。問題は女将だ。やはりと言うべきか、初めは嫌そうな馬鹿にするような視線を投げてきたけれど、母から許可をもらったと伝えれば仕方なしに頷いてくれた。
雪平の部屋は九尺二間にちょっと色が付いた程度のもので、広くはないが二人暮らしには十分だった。
それでも、今朝は朝から引っ越しでバタバタとしている。布団も持っていかなければならないし、私の力では荷物の入った長持は重くて動かせない。
ここに来たばかりの頃は、まさかこんな事になるなんて思ってもいなかった。まさか人間と夫婦になるなんて。
私はどちらかというと、標準からズレる事の出来ない奴だと思っていた。だからこそ、姉からの嫌がらせにも黙って耐えるしか選択肢を持たなかったのだ。
それがこんな前例のない事をするのだから、人生というのは分からないものだ。
「おさくちゃん、鏡台はここでいいかい?」
「えぇ。ありがとう」
「これからは仕事にもちゃんと力を入れて行かないとなぁ。なにせ、今までは自分が食えればそれで良かったから」
「報酬をお金でもらうこと自体が少なかったものね」
「あぁ。でもこれからは、ちゃんと銭をもらうぞ」
「私も繕い物、続けるから大丈夫よ」
「すまないなぁ、おさくちゃん」
こんなやり取りでも、私は嬉しくて仕方がないのだ。
そろそろと部屋が片付いてきた時、雪平が私を呼び止めた。
「これ、良かったらもらってくれないか」
差し出されたのは、緑が描かれた小さな箱だった。
「これ……」
「壊れてしまった物と同じではないだろうけれどさ、少しでも気が和らぐかと思って」
雪平は覚えていてくれたのだ。私が姉に大事な箱を壊されて傷ついていた事を。
「ありがとう。本当にありがとう」
「おっと」
私は思わず雪平に飛びつく。
姉が私の大事な箱を壊したことが無しになるわけではない。それでも、確かに私は救われた気持ちになったのだ。箱一つで大げさなと思うかもしれないが、あの当時の私にとっては、母から初めてもらったその箱一つがとても大事だったのだ。
もしかすると、姉もそれを分かっていて私に嫉妬したのかもしれない。
こうして理由を推し量る事は出来ても、だからと言って納得する事はできない。許せる訳ではないのだ。当然だろう。箱は壊れてしまって二度と元には戻らないのだから。
時々、私は心が狭いのだろうかと悩む事がある。そうすると、いつも自分の事が嫌いになりそうで怖くて、途中で考えるのをやめてしまうのだ。
「あぁ、お二人さん。仲が良いのはよろしい事だがね、もうちっと人前だって事を考えてもらいたいもんだなぁ」
抱き着いたままだった私たちに、急にそんな声がかけられた。
驚いて見ると、上がり框に男が座っている。
「あら、蔵之介さん⁉」
覚えているだろうか。いつぞやの動物殺しの疑惑をかけられた浮浪者の蔵之介である。
「蔵之介。久しぶりじゃないか。今日はどうしたんだ? 僕たちは夫婦になったばかりで引っ越しをしていたところなんだ。夫婦になったからな」
珍しくデレデレとした顔の雪平が見られた。
「それはよろしい事で。いや実は俺は今、反物屋で働いてるんだ。凄いだろう? ちゃんと仕事を始めたんだぜ?」
「なんだ。事件じゃないのか」
雪平は急に興味をなくして隣に座った。
「いや、事件だぜ。金の置物が無くなっちまったんだ。それだけじゃない。反物もちょこちょこと無くなっているんだ」
「ほぅ。それは大変じゃないか」
雪平は体をそちらに向け、仕事の顔になっている。まだ金になるかも分からないのに気の早い事だと思ったが、私も座って話を聞く。
「そうなんだよ。もう店主が真っ青でさぁ」
「それなのに、お前はこんな所で何をしているんだ?」
「俺は休みさ。だからこうして仕事の種を伝えに来れたって訳さ」
「そりゃありがたいね。金の置物とは店主が作らせたのか? 無くなったのはいつだ? 反物がちょくちょくなくなっていると言ったが、これはいつだ?」
「ちょ、ちょっと待ってくれ。そんなにいっぺんに聞かれちゃ答えられねぇよ」
身を乗り出す雪平を押し返して、蔵之介が慌てる。
「えっと、なんだっけか、金の置物は店主が作らせた。形は干支の辰で、無くなったのは昨日の夜だ。反物が無くなるのはいつも一つずつで、十日に一つくらいだ」
雪平は「なるほど」と顎を撫でる。
「そんでなんだが、うちにおくのって蛇の化け者が務めてるんだが」
「え? おくの?」
私は思わず声を出してしまった。おくのは姉の名だ。
「おう。なんだい、知り合いかい?」
「姉よ。それで、姉がどうしたの?」
私が答えると、蔵之介は急に言葉に詰まってしまう。
「どうしたのよ?」
「いや、姉だと言われると言い難いんだが、疑われてるんだ。蛇は強欲だからってよ」
「そんな! 姉は確かに性格は悪いけれど、そんな失敗はしないわ。あの人そういうところ上手だもの。盗みなんて絶対にありえない」
よく言えば、姉は要領が良いのだ。母の前でだけは真面目に勉強をしたり、手伝いをして株を上げたりなど、昔からそうだった。
鼬が働いている反物屋といえば、間違いなくそこは鼬の化け者たちがやっている店なのだろう。そんな仲間のいない場所で働くのだから、姉は細心の注意を払ったはずである。
姉にとって他人に良く思われる事こそ大事な事であり、そのためには妹だって貶したり八つ当たりしたりするのだ。
「でも、店主はもう決めてかかってるぜ。証拠がないのか役人には届けていないみたいだが」
「金の置物って相当な値がするはずだろう? それなのに役人に届けていないって? なんか怪しいな。どうする? おさくちゃん」
「え?」
「いや、お姉さんの事。助けに行くかい?」
「なんで私が……」
そんな筋合いは全くない。私は『行くものか』とただただ土間を睨みつける。
いい気味だと思った。せいぜい私をいじめた報いを受けろと罵ってやりたかった。
けれど、とも思う。姉がやっていない事を知っているのは私だけかもしれない。良い子な姉と、意地悪な姉の両面を見ている私だけかもしれないのだ。
そう考えると、仕方ないようにも思える。
「仕方ないから行ってやるわよ……」
「そうかい。良かった。なら今すぐに行こう。いいかい?」
「いいけれど、洗濯物だけ取り込んでくるわ。ちょっと待っていて」
私は路地に出て洗濯物を取り込もうと井戸のそばまで行った。すると、見慣れた烏が止まっていたのだ。
「あんた、安次郎! もう私の事は馬鹿にしに来ないんじゃなかったの?」
「誰がそんな事を言ったよ。やっぱりあんたは馬鹿だね」
「今度は何だって言うのよ」
私はうんざりした気持ちで聞いた。
「あんな意地悪な姉なんか濡れ衣でも着せられてればいい気味だろうに。どうして助けに行くんだ? そんなの馬鹿のする事だろうが」
「あぁ、確かにね。今回は何も言えないわ。確かに私、馬鹿だもの」
「なんだ、つまんないな。馬鹿にし甲斐がないじゃないか」
そう言うと、安次郎は飛び去ってしまった。
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