14. ベタ塗りの記憶



 ボク、神瀬勇真は現在17歳。今も高校に通っていたら三年生の歳になる。

 バディである朝霧漣とのファーストコンタクトは、中学に入ってすぐに起こった――本当に、ちょっとした出来事である。


「なぁ神瀬……それ、ひょっとしてベースか?」


「――え? 朝霧くん、わかるの?」


「ハーメルンの冥法王ヘル・キングだろ? 右手におっさんの生首を載せた美少年なんて、他に知らねぇよ」


 授業の合間の休み時間、ボクがノートの隅っこに適当に描いていたラクガキ。30年も前のとあるマイナー漫画のキャラだったのだが、それを後ろからチラッと見ただけで言い当てて来たのが、レンだった。

 髪はまだ黒髪のままだったが、目が赤くて背が高いのは同じだったので、当時から十分威圧的な見た目をしており、クラスの中で若干浮いた存在だった。ボクも第一印象で「なんだ、このおっかないのは」と思った記憶がある。隣の席にはいたものの、それまでの数日間ろくに会話もしたことがなかったぐらいだ。


「へぇ……。じゃあ、これは?」


「トショイインだろ? 月光条例の」


「うそ、マジで?」


「うしとらより先に入ったのがコレだからな。一発でわかった」


 話を聞くと、レンの方もお絵描きが好きらしくて、専用のメモ帳に鉛筆書きした絵を見せてくれた。趣味が合う私たちはたちまち仲良くなり、日課のようにお互いが描いた絵を見せあって、少しマイナーな漫画やアニメの出典がわかるかどうかをクイズにした。


「なっ、なにこれ……?」


「ブラボのエーブリエタース」


「いや、知らないし。こんなゲトゲトしたのよく描いたね……?」


「殺されまくった恨みも込めた。やりたかったらソフト貸すぞ」


「いや、いいよ……ボクんち、ゲーム機ないし」


「……そうだったな。ごめん」


 ボクが育ったのは、ありていにいって過干渉の毒親家庭だ。中学生になってもなお、毎日のように習い事と通信教育をさせられ、さらに学校での成績も90点以上取らないと、ご飯さえ出ないという有様。

 部活すらできないギチギチのスケジュールを組まれて、将来身になるのかどうかわからないタスクを延々とこなし続ける。ろくに友達すらできないまま、徒労感と疎外感だけが募り続ける――そんな毎日の中、レンと過ごす間だけ、ボクは落ち着くことができた。


「お前んとこほどじゃないけど……俺も、家には居場所がねえんだよな」


「レンも習い事とかやらされるの?」


「いや、そういうのはない。でも、親父はいつも家にいないし、母さんは弟二人ばっかり贔屓してんだ。昔、この目の色のせいで、浮気でできた子じゃないかってモメたらしくてな……俺は弟に比べると体もでかいし、家の中じゃ軽く腫れ物みたいな感じなんだよ」


「――たったそれだけで、そんな風に扱われるの?」


「無視されるぐらいならなんてことないよ。もう慣れたしな。四六時中監視されてるお前よりマシだ」


「……そうかな」


 ボクとレンの関係は、恋人同士のそれではなかった。しかし、ただの友達ともまた違う。近づきすぎないように意識して、つかず離れずの距離を保ちながら、おそるおそる互いの傷を舐めあうような――それが歪であることは、自覚していた。でも自分たちには、少し危ういぐらいの関係性がふさわしいような気もしていたのだ。だって、同じ傷を持つ者同士が近づいたら、その関係は大抵しっとりするものだろう。

 別にぼっちだったわけじゃない。レンにもボクにも他の話し相手ぐらいはいたし、それぞれ別の友達グループに入っていた。ただ、二人きりで絵を描いて過ごした時間は、そういう日常風景とは違う色合いをしていた――というだけ。


「つーかそれなんだよ? 荒木先生の短編かなんかか」


「今期アニメのとあるキャラを、ジョジョの絵柄に寄せてみました。誰かわかるかな~?」


「いや、筋肉盛りすぎて原型とどめてないんだが……」


 日を追うごとに、お絵描きクイズの遊びはどんどん高度になっていった。絵柄を変え、キャラを変え、相手が分からないような仕掛けを凝らし――そんなことを続けている間に、ボクらは知らず知らずのうちに絵が上達していった。問題を作るためにいろんな作品の絵柄を真似ていたから、作画のスキルが上がるのは必然ともいえた。


「ねぇ、レンって部活とかやらないの? 背高いし足も速いし、勧誘とか来るでしょ?」


「……あんまり興味持てないんだよな、そういうの。体動かすのは嫌いじゃないんだが、集団行動はどうしても気乗りしねぇんだよ。特にうちの中学の運動部って、別にプロを目指してるわけでもないのに、やたら暑苦しいヤツが多いだろ。青春ごっこするのは構わねぇが、それを自覚してない頭の悪さにイライラするんだ」


「相変わらずひねてるね~……」


「お前に言われたかないわ。とにかく、体を動かしたいなら一人でやるさ。――今は、お前とこうやって絵描いてるのが一番楽しいよ」


「……そっか」


 「今は」――その言葉が、チクリと胸を指す。

 なぜならボクの人生の選択肢は、両親によって極度に狭められていたのだ。中学・高校は市立の公立、大学は国立の看護大学に行って、看護師として一生働く――それが、両親がボクに与えた狭いレールだった。娘が幼稚園の時点で、進学先を名前まで全部具体的に決めていたというから恐ろしいものだ。

 ボクの両親はコントロール欲求の塊だった。自分たちが決めた道の上を、娘に一歩違わず進ませることに命をかけていた。あの偏執性ときたら、ゲームの厳選作業の感覚で子育てをやっていたとしか思えない。


「看護師になってほしいのは、手に職をつければ食うのに困らないからだ」「お前の為を思って厳しくしているんだ」


 そんな聞き飽きた言い訳を吐き散らかす、歯をむき出しにした汚らしい口が、ボクが両親を思い出す時の最初のイメージ。

 ボクは意見を言う事さえ許されなかった。父親はことあるごとにボクを殴って言う事を聞かせようとしたし、母親は、ボクがなにか口答えしようものなら包丁を持ち出して自殺を図るヒステリー持ちだった。そんな母の「悲しむ姿」を見て、父親はさらにボクを責める――それが、お決まりのパターンだった。


 まるで、バフ掛け役の取り巻きと一緒に出て来るボスキャラ。自分の身体の中に、あんな醜い奴らの血が流れているなんて、それこそ包丁で手首を切り裂きたくなる不快さだ。

 ――子供のことを思っている親が、それを口に出して言うわけがない。4、50年後にこいつらが死んで操り糸が腐り落ちるまで、ボクは両親の人形として生きていかねばならないのだ。看護師になったところで結局、老いたこいつらの介護で使い潰されるだけだろう――小学校の時点で、ボクはそんな風に自分の未来を見限っていた。その諦観は年を重ねるごとに強まった。


「――おい、なんだこいつ? 見たことあるようで見たことないような――やべぇ、マジでわからねぇ」


「へー、わかんないの? じゃあ……降参する?」


「くっ……はい」


「ふふーん。そっかぁ。――正解は『ボクがきのう考えて来たオリキャラ』でしたっ。レンの負け~♡」


「お前ふざけんなよ!」


 レンと友達以上の関係になろうとしなかったのは、いつか失うとわかり切っていたからだ。

 「将来辛くなったら、今みたいにレンと一緒にいた時のことを思い出して頑張ろう」――そんな決意さえ抱きながら、ボクは青春時代を過ごしていたのである。


「ん、なにこれ? ……ははーん。さては昨日の仕返しで、レンもオリキャラ考えて来たね?」


「半分当たりで半分外れだ。正解は『ユウマが考えたキャラの兄……のつもりで、俺が考えて来たキャラ』だ。これで昨日の負けはチャラな」


「そんな設定知らないよっ!? てか、いくらでも後出しできるよねそんなの!?」


 教室の片隅でレンと一緒に、あるいは自分の部屋で両親の目を盗んで、ノートや画用紙に向き合っていた時間。それだけが、将来への重圧と両親という不快感に塗りつぶされたボクの過去の中で、透明感に包まれていた。レンといる時だけは、ボクは純粋になれたのだ。

 ――しかし、このころから、レンとのお絵描きの意味は少しずつ変わり始めたのである。


「ほらよ。『ランがローズをおんぶしている』場面だ」


「うわ、カンペキじゃん! 背中がどうなってるかなんて、ボクも設定してなかったのに」


「俺からのリクエストは『聡一が銃のリロードをしてる所』。アングルはめいっぱい下からで頼む」


「えー!? む、難しいなぁ……たまにはちょっと手加減してよ」


「勝負だからな。お前も次はムズいのにすればいいだろ」


「ほほーう、言ったねえ?」


 絵の題材は漫画やアニメのキャラではなく『自分たちで考えたキャラ』になり、ゲームの勝敗もキャラの名前がわかるかではなく、『相手が出したお題の絵を描けるかどうか』に変わっていった。


「このキャラはアップで見ると目の中に星があるのか。なら名前は『天の川』とかかな……?」


「えー? 『綺羅星』の方がよくない?」


「それはヒネリがなさすぎないか。あと画数が多いのも気になるな。覚えやすいっちゃ覚えやすいけど」


「なんでそんな編集さんみたいな配慮を……」


 描いた絵の枚数が積み重なるごとに設定が固まっていき、キャラ同士の関係性も生まれていく。それは自然と、ボクとレンの間で共通のストーリーとして形づくられていった。二人の密かな遊びは、少しずつ共同の創作活動へと昇華していく。

 そしてある日、レンはぽつりとボクに言った。


「なあユウマ。俺たち、漫画家コンビやってみないか」

 

「――へっ?」


「気づいたらキャラも十人以上できてるし、世界観の設定もかなり具体的なところまで定まってるだろ。いっそのこと、作品に仕上げて賞に応募してみようかと思うんだよ。お前の親御さんにバレたら、めんどくさいことになるかもしれねぇけど――どうだ?」


「……やっ、やる! ……やってみたい……!!」


 レンにとっては、ちょっとした思い付きだったかもしれない。だがこの提案を聞いた時、ボクは目の前の暗闇が開けたように感じたのだ。

 親に支配されるだけの未来とは違う――漫画家という道が、自分にはあるのかもしれない。将来も彼と一緒に、この時間を続けることができるかもしれない。人生を半ば諦めていたせいで、そんな期待が一気に膨らみ、ボクは思わず立ち上がってレンの手を握った。予想以上の食いつきにレンの方が驚いていた。


 その時は高校受験の直前だったが、過剰なぐらい勉強漬けだったボクはもちろん、レンの方も学力には問題なかったので、さっそく作品にとりかかることにした。

 ただボクの場合、毎晩寝る前に両親による一日の勉強量のチェックが入る(これも今考えれば異常だが、昔から当然のようにあったことなので、これに関しては疑問を抱いていなかった)。いつも以上に神経質になっていたあいつらの手前、勉強に手を抜くことはできなかったが、生まれてはじめて自分の意志で行動するという興奮から、ボクの創作意欲は極限にまで高まっていた。


『読み切り形式だからあんま強い敵は出せねぇぞ。聡一あたりを悪役にするのはどうだ? 殺すのはかわいそうだし、最終的に改心して仲間になる感じにしようぜ』


「……なるほど。となると、銃VS近距離戦の構図でまとめるか……。銃弾をパンチではじくシーンとか、いいかもしれないな」


 睡眠時間を削ってレンと連絡を取り合いながら、漫画の構想に取り組んだ。スマホのLINEは監視されているので、レンにSNSの壁打ちアカウントを作ってもらい、翌日に顔を合わせた時にそれに返事する、という回りくどいやり方である。

 幸い、リレー小説でお絵描きした経験があったからそんなにやりづらくはなかったし、その頃授業は自習ばかりなので、学校でいくらでも寝れた。この漫画の出来は、場合によっては、受験なんかよりよっぽど人生を左右することになる。


 ボクは全エネルギーを創作につぎ込んだ――それが、いけなかったのかもしれない。

 15年近くもの間、噛みつかれないように神経を尖らせて、両親のご機嫌を窺っていたのに――最悪のタイミングで、ボクは油断してしまったのだ。






 ――高校受験の四日後――



 


 入試は大過なく終わった。自己採点はほぼ満点であり、まず受験者のうちトップ5には入っているだろう手ごたえがあった。

 しかし、そんなことはあの時のボクにとってどうでもよかった。ついにこの日、レンに預けていた最後の1ページが完成し、応募作品が出来上がったのだ。早くポストに投函しようと駆け足で帰った家で、B4サイズの封筒を手にした両親が待っていた。


「なぜこんなものが家にある? お前が描いたものか」


(――ボクらの漫画。机の中に入れてたはずだ)


 書かれた宛名は出版社のマンガ賞の担当者で、差出人は自分。言い逃れできるはずもなかったが――それを父が持っているということは。


「勝手に見たの? の引き出し」


「最近やたら眠そうだったし、様子がおかしいと思っていたからな。そんなことはどうでもいいだろう? なぜ親に隠してこんなことしたんだ?」


 もうすぐ15歳になろうとする娘のプライバシーに土足で入り込んだ厚かましさは棚に上げ、父はボクをそう責めた。「ボク」という一人称を使い出したもともとの理由は、家庭内で抑圧される自分と別の自分を作るため。親の前では「私」という一人称を使い続けていた。

 居丈高な父親と、見るからに不安定な母親。父の汚い手がボクらの漫画に一秒触れるごとに、聖域おもいでが穢される思いがした。

 

「お前は看護師になるんだぞ! こんなものを描いている時間があるのか!?」


(あったから描いた)


「私たちがマンガなんて大嫌いなのは知っているでしょ!? どうしてこんなものを作ったの!?」


(探らなきゃ見ないで済んだだろ……)


「現実を見てないからこんなものを描いて逃避するんだ! 絵なんかで食っていけると思っているのか!? お前のために安定した職業を勧めてやったのに!!」


(専業作家になるなんて一言も言ってない。それこそ妄想で責められても困る)


 いつものように、表面上だけ「はいはい」とうなずいておいて、内心で舌を出してやりすごす。それで、済むはずだった。

 だが、自分でも気づかないうちに、受験勉強と創作の二重生活に疲れていたのかもしれない。パターン通り包丁を持ち出して、自殺するポーズで私を脅す母が、次に放った言葉に――ボクはとうとう、我慢の限界を迎えたのだ。




「私たちがこんなに心配してあげてるのに! そんなに親が嫌いなの!?」




「――ッ!! ああ、大嫌いさ! そのまま死んでくれたって、かまやしない……!」




 どこまでも幼稚な母親に、ボクは腹の底からの本音を叩きつける。ろくな子育てもできないくせに、重症にならないギリギリのラインで、手首から出血させる術だけは知っている――母親が包丁の力加減をミスってうっかり死なないかと、今までに何十回思ったことか。

 ずっと抱え込んできた分、決壊したらもう止まらない。驚愕する両親もおかまいなしで、ボクは目を怒らせて言った。


「『現実見ろー』とか、『立派な大人ぁー』とか……同じ事しか言えないのかな。そもそも何さ『現実見る』って? 『自分なんかどうせなにしたって無駄だ』って思うことがそうかい? そうやって育ったヤツのことを、『立派な大人』って言うの? だったら、さぞご立派になるさ。たとえば、自分の子供のささやかな夢を、頭からバカにする親とかにね。

――そんな人生、冗談じゃないね。ネズミみたいにドブ啜った方がマシさ」


 ――ガンッ!

 ボクの視界が揺らぎ、体が横転する。狂乱した母が、ボクの頭めがけて椅子をぶん投げて来たのだ。包丁で刺されなかっただけマシではあるが――大して老けてもいないくせに、しわだらけ体液まみれの顔が、90度回った視界でも実に醜い。殺され役のモブとして配置したら、少しは背景が映えるかもしれなかった。

 血がべっとりと頬を伝うが、それでもボクの怒りは収まりはしない。体罰なんてなれっこなのだ。


「ほらね……それがあんたの正体さ。気にくわなけりゃ暴れるだけの、2歳児同然の知能さ。自分を傷つけて脅すのだって、結局はその延長に過ぎない」


「それ以上生意気を言うなら、もう飯は出さないぞ! お前を今まで喰わせてやったのは誰だ!?」


「強いて言うなら、ボクの両手と口だよ。にしても、親が子供に対してそれを言うとはね……」


 とうとう落ちる所まで落ちた感じだな――両親の醜態を見て、ボクは思った。話すことさえバカバカしくなっていた。

 こんな奴らから、ボクみたいな利発で可愛くて、才能にあふれた女の子が生まれてくるのだ。つくづく人間の可能性というものには、正の方向にも負の方向にも限界がない。こいつらの存在がマイナスの方向に振り切っている分、埋め合わせとして生まれてきたのがボクなのかもしれないが、できれば家庭は別々にしてほしかったものだ。


「ボクを生んだ時点で両親あんたらの役目は終わってた。それから十四年以上も、この陰気な家庭おりにボクを閉じ込めた罪、虐待で痛めつけた分の代金……たかが養育費を払ったぐらいで、償い切れると思っているの? 

これ以上、ボクの人生を好きにされてたまるか! ボクは漫画家になるんだッ!!」


「……はぁ……。なるほど、反抗期が来たのは成長の証だな」


 馬の耳に念仏だ。娘の訴えをため息ひとつで流した父は、机の上に置いていた封筒を再び持ち上げる。

 ――気のせい、だろうか? 全50ページの作品のうち、49ページの完成原稿がきれいに揃った状態で入っているはずなのに、中身が妙に下膨れになっているような……。




「なら、これであきらめてくれるか?」




 ――バラバラバラ。




「――――!!??」




 父が封筒を無造作にひっくり返すと――中からは、乱暴に切り刻まれた紙の破片が、大量に落ちて来た。

 それらの全てに、見覚えのある絵が描かれている。ボクが考えたセリフ、レンが貼ってくれたトーン、二人で練りに練ったコマ割り――心血を注ぎ、たくさんの思い出が詰まった、ボクらの最初の原稿だった。





「っ……あ……あ゛ぁぁぁぁ……!!」





 それが今、フローリングの床に散乱して、父の靴下に足蹴にされている。

 蘇ってくるのは、レンのいろんな表情が刻印された、キラキラした記憶の数々――ああ、そうだった。あいついつも仏頂面だったのに、これを一緒に描いてるときは笑ってたっけ。出版社からどんな反応が返って来るかなって、毎日楽しみにしてたなぁ。二人で漫画家になれるかもって、すごく期待してくれて――






 あ ダメだ


 レンがこれを見て 許してくれるわけがない







 ――そう思った瞬間、全てが黒一色ベタぬりに染まった。



















「……!? なんだ……!?」


 俺、朝霧漣は、驚きのあまり自転車を止めた。

 ついさっき、描きあがった最後の原稿をパートナーであるユウマに預けた俺は、エナドリで祝杯でもあげようかと近場のコンビニに走ったのだが――パトカーと救急車がユウマの住むマンションに何台も止まり、担架がてんてこまいしている。野次馬がたかっており、明らかに尋常な事態ではないのがわかった。


「マジかよおい、ユウマが住んでる階じゃねぇか……!」


 お邪魔したことこそ無いが、家まで送ったことがあるのでどの部屋に住んでいるかは知っている(友達を呼んだせいでクソ親に責められたことがあるそうだ)。俺は夕焼けに背を向けて、立ちこぎでぶっ飛ばした。交通マナーを考えていられるような事態ではなかった。

 漫画賞の締め切りまでにはまだ時間があるし、そもそも毎月開催なので遅れたら次に出せばいいだけのことなので、その点は心配ないのだが――


「救助に当たっていた隊員が昏倒した!?」


『はい! まだ奥の部屋には意識不明の住人が――』


(意識不明……!?)


「くそっ! ガス中毒でも食中毒でもないのになぜ……!?」


 たどりついたマンションの下は、大変な騒動になっていた。警官や救急隊員の怒号からは、不穏な単語しか聞き取れない。しかしその喧騒をかき消すほどに――ギィィ……! という耳鳴りが強く響く。


(なんだ? この『呼ばれている』ような感じ……お前なのか? ユウマ)


「――!? おい君、何をしている!?」


 いてもたってもいられず俺は走り出す。パトカーが野次馬を遮るようにマンションの入り口前に停められているが、俺はひとっとびでその上に乗り、そのまま死角を突いて中へ突入した。


「なっ……!?」「はぁっ!?」


「失礼!」


 いつもは天井に頭を打ってばかりのガタイの良さが、意外なところで役に立った。

 二階、三階、四階と駆け足で上がっていくうちに耳鳴りはどんどん強くなる。ユウマがいる五階の廊下へ出ると、確かにそこには、バッグ状の担架の下敷きになってぶっ倒れている、二人の救急隊員の姿があった。その位置はまさに――ユウマの部屋の直前。

 これはいよいよまずい。俺は彼らの上をまたぐと、「508号室」のドアノブをひねった。鍵はかかっていなかった。


(――!!)


 部屋の中は、異様な状態だった。――「真っ黒」だったのだ。

 開けたドアの裏側も、床も、壁も、天井も、全てがムラ一つない漆黒に塗りつぶされている。開けた玄関から太陽の光が差し込んでいるが、それでもまったく変わらないあたり、単なる「暗闇」でないのは明らかだ。物理的に黒インクをぶちまけでもしない限り、こうはならないはずだが――あっけにとられる俺の足元へ、ドロドロと「黒」が侵食し、廊下の方へゆっくり流れだしてくる。


(俺の靴は触れていても黒くならないぞ……? ……まさかこれが、この騒ぎの元凶か?)


 あまりにも不気味だった。人の家ではあるが、靴を脱いで入ったらどうなるかわからないので、俺は土足で部屋の中に踏み入る。

 奥のリビングらしき場所にユウマはいた。顔は見えない。俺が来ているのに気づかず床に這いつくばり、散乱した紙の破片をせっせとかきあつめている。彼女のかたわらには、これまた真っ黒に塗りつぶされた大人サイズの人影が、二体転がっているが、ユウマはそれに目もくれない。この場所で黒く染まっていないのは、どうやらユウマと俺と、床に散らばった変な紙ゴミだけだった。


「ユウマ……?」


「え……。――ひぃっ!? う、うあ゛ああああ……!!」


「!? おい、どうしたその顔……!?」


「だめ、こないで……きちゃだめ、これみたらだめ……!!」 


(ぐっ……! 耳が……!?)


 ユウマが怯え切った表情で、必死に俺を拒絶すると、耳鳴りがさらに強烈になった。

 光を失ったユウマの両目から、真っ黒なインクのような涙が大量に溢れて、ボタボタと床に落ちていく。そのうち何滴かが紙ゴミの上に落ちるが、染まるどころか濡れもしなかった。――待てよ、あれは……まさか?


「あ、ああああ……!!」(見られた……! 見られた……!! きらわれる、レンにまで……!!)


(『見られた』? 『嫌われる』? なんだこの感じ、頭の中に声が流れるような――)


 ここで起こっている怪現象の意味はいまだわからないものの、ユウマが錯乱している理由と、床の「ゴミ」がなんであるかは少しずつわかってきた。もし今、俺が聞いているこの「声」が彼女のものであるとするならば――俺がやることは、ひとつしかない。


「大丈夫だ、ユウマ……!!」


「――え」


 真っ黒になった床に膝を突き、へたりこんだユウマに目線を合わせて、はっきりとそう言う。俺を拒むために突き出されていた手を握り、包んだ。絶望の表情が晴れた時、俺の頭の中から耳鳴りも消えた。


。漫画を破かれたなら、また描けばいい。お前が何も悪くないことぐらい、俺にだって分かる。絶対、嫌いになんてならない……!」


「~~~~~~~!! う、うううううう……っ!!」


 ユウマの瞳に光が戻る。インクのようだった涙も途中から透明に戻って、差し込む光できらめいた。俺の手に縋りつき、全身を震わせて「ごめん、ごめん……!!」と泣く彼女の背中を、「大丈夫だ」「大丈夫だからな」とあやすようにさすった。

 いつも飄々としているユウマをこんな風にしてしまったのは、間違いなく床の上で転がっているこの二体の黒い影だ。きっと「これ」が、ユウマに理不尽を強い続けてきた両親の、因果応報の末路なのだろう。 


 おそらくわずか数十分前、「神瀬一家の歪み」が限界点を迎え、爆発したのだ。

 今マンションで起こっている全ての状況は、単なる余波に過ぎないのだ。一人の女の子が、十五年近くも溜め込んだ苦しみが解放されたにしては、それほど大した被害でもないだろう――そんなことさえ、俺は思った。

 



「――驚いたな。騒ぎになっていたから立ち寄ってみれば、思わぬ逸材を見つけたものだ」


「え……?」


「!? 誰だッ!?」


「……その問いには、話すよりも見てもらった方が早いだろう。愚民が神秘を理解するためには、啓蒙の光が要る」




 戸口の方から声がした。いつの間にか太陽の光を背にして、黒い服を着て顔を隠した怪しい男が立っていた。

 不審がる俺たちに対し、そいつは懐から木の棒きれを取り出して空で一振りする。光の粒子が集まるようにして、火の玉のようなものが現れて、真っ黒な部屋は真っ黒なまま照らし出された。


「――『魔法の力』。そこにいる彼女が使ったものと、同じ力だ」


「……魔、法……?」


「そう。彼女の能力の本質は、『他者の精神に介入する念波』だ。この部屋に満ちている黒いドロドロは、強いショックによって引き出された破壊的な念の具現化。状況から見て、恐らく両親に虐待されたことで潜在能力が発現したのだろうが――無意識に、しかも杖なしでこれほどのことをやってのけるとは、我々も稀に見る才能だ」


「そ、それはわかったが……あんたは何者だ? なぜそんなことが分かる?」


「魔法使いたちの住む世界――『教国』から来た使者だ。ここに生まれた新たなる魔人を、同胞として迎えたいと思っている」


 ユウマの反応は鈍い。あまりにもいろいろな事が起きすぎて理解が追い付いていなかった。相手の顔はよく見えないが、頭が天井に届くほど高く、しゃべりのイントネーションもところどころおかしい。日本人には見えなかった。


「少なくとも、そこで倒れている二人の精神は帰らない。巻き込まれた他の者も、しばらくは復帰できない。故意ではなかったにしても、これほどのことをしでかしてしまった以上、この町には君の生き場所はもはやないだろう。つまり君には、私と共に来る以外の選択肢はない」


「…………」(これは、現実なんだろうか? でも、どっちみち、こんな家に未練なんかない……。ずっと思ってたことじゃないか。『ここじゃないどこかに行きたい』って……)


 ふらり、と身を乗り出しかけたユウマだが、俺の顔を見て「ハッ」と正気に戻る。

 ――彼女の気持ちは、この謎の男の誘いに乗りたがっている。だが――


(……でも、そしたら、レンとは――)


「……!」


 怯え、迷ったユウマの表情で、俺は全てを察した。

 こんな状況で俺に、遣わなくてもいい気を遣っているのだと。


「俺も一緒に連れて行け」


「――なに?」


「ユウマが行くなら、俺もついていくよ。こいつを独りにしたくない」


「っ……そんな!」


「……」(右目に共通の紋章が浮かんでいる……なるほど、こいつらはバディか。もっとも魔法の力を知ってしまった以上、この男も連れて行かざるをえないが……)


 覆いの隙間から、見定めるような視線が俺を見据える。茶髪と碧眼がそこから垣間見えた。もしや『教国』とは、ヨーロッパのグレゴリオ教国のことか? だとすれば、この感じも納得ではあるが……。

 ユウマは青ざめるが、既に俺の心は定まっていた。今更蚊帳の外なんぞごめんである。


「味方だなんだと言っておいて、一番つらい時は力になってやれなかったしな。本当は、お前の両親とも一緒にケンカしてやるつもりだったんだが」


「だっ、ダメだよ……! 友達だからって、そこまで気を遣わせられないよ!?」


「うるせぇ。気を遣ってやってるんなら、こんな無理やり押すわけねぇだろ。――俺が好きでやってんだ、気にすんな」


「……! うっ、う゛ううう……!!」


 自分でもこっぱずかしい台詞だったが、そんな言葉でもユウマの心には届いたようだ。一瞬目を見開いて、そのまま大粒の涙を流し始める。

 ――本来は、ナイーブで傷つきやすい女の子だ。飄々とした態度を演じているのは、そうしないと苦しみを受け流せなかったからに過ぎない。俺が支えてやれるものなら、いくらでも苦労してやりたかった。


「いいのか? 彼女はいざ知らず、お前の場合は、自分の意志で家族と生活を捨てることになるぞ。教国は決して甘い世界ではない」


「構わねぇよ。俺の居場所なんてものは、最初からこの町にはなかった。危ない世界だっていうなら、なおさらユウマ一人じゃ不安だしな」


「……なるほど、承知した」


 ――この日、俺たちの運命は変わった。

 お絵描き好きな二人の中学生は消え、新たなる魔法使いのバディがこの世に生まれたのだ。





















 洗面所の鏡に、赤い瞳が映っている。

 わしゃわしゃと塗り込むヘアカラー剤によって、見慣れた黒髪は派手な銀髪に染められていった。シャワールームでシャンプーとトリートメントを済ませれば、新たな自分の完成である。


「ふああ~~……」(ガチャッ)


「げっ」


「――んえっ!? なにしてんのレン!?」


 寝起きのユウマがうがいしにやってきて、風呂から上がったところを見つかった。

 髪の色が違う姓で一瞬不審者と間違えたのか、懐から杖を取り出しかけている。――危ねえ危ねえ、こいつがもうちょっと寝ぼけてたら撃たれてたとこだ。


「おはようユウマ。コーヒー飲むか?」


「いやいやいや、まずその格好を説明しなよ。急に何してんのさ」


「いや、ちょっとな……どうだ、似合ってるか」


「まあ、カッコよくはあるけどね」


 困惑しながらも、てきぱきとハムエッグを作るユウマ。食堂に行けばいつでも飯は出るが、今日は部屋で食いたい気分だった。

 ここは、グレゴリオ教国の魔法使い養成施設。俺たちは1LDKの部屋を住まいとして割り当てられ、なかなか快適に暮らしていた。


「しかし、俺のバスタオル巻き見ても全然驚かなくなったなお前」


「そりゃあ、もうこの暮らしも一か月になるしね。レンだってボクのお風呂上りぐらい見慣れてるでしょ?」


「……ノーコメントで」


「で? どうしたの、急にそんなことして」


「――なんというのかな。ナメられないように、と思ってな」


 通常、魔法を覚えて間もない者は、世界各地にあるマナ教団の支部施設で修道生活がてら魔法を学ぶことになる。

 だが俺たちは、日本では行方不明者の身であることと、ユウマに暗示魔法の才能があったおかげで、いきなり本国の養成施設で高等教育を受けられることになったのだ。組織を牛耳るトップたちの目にも止まりやすく、見込み有りと判断されれば一気に出世も可能という、いわばエリートコースである。

 ――だが、やはり地球の真裏ということもあって、施設には同じアジア人がほとんどおらず、他の訓練生や教官から差別的な扱いを受けることも多かった。また、アジアの中でも日本は、特に『機関』が幅を利かせている教国にとっての敵地である。そういった意味でも、俺たちへの風当たりは強かった。


「一人前のエージェントに取り立ててもらうには、もっと成績を上げなきゃダメだ。俺はガタイしか取り柄ないし、なおさら気持ちで負けられないだろ」


「大丈夫だよ。ボクがレンの分までカバーしてあげるから」


 最近は訓練漬けの毎日だ。結局、両親に習い事や自習を強いられていた頃から忙しさは変わらない。

 それでもユウマの表情は、前までとは比べ物にならないほど晴れやかで、積極的だ。魔法の戦闘という、完全実力主義の物差し。努力すれば報われるという事実が、彼女の意識を変えていたのだ。


「お前な……」


 俺は何か言い返そうとしたが、まさにその時スピーカーからサイレンが鳴った。ユウマと俺の顔つきが変わる。

 訓練開始15分前である。すぐに集合しなくてはならない。部活も通ってこなかったのがいきなり自衛隊みたいな管理生活になったので困惑したが、今ではすっかり順応してしまった。


「よし、行こうレン」

 

「ああ、今日も頑張るか」


 機関と教国の戦争などは、興味はない。俺が教国に感謝しているのは、ユウマを地獄から救ってくれたからだ。

 教国にいることでユウマが笑えるのなら、俺もこの国のために働こう――それが、俺の忠誠の理由だった。






◆あとがき






 ・神瀬こうのせ勇真ユウマ


 茶髪ボブカットの小柄な美少女。美乳。

 毒親に散々習い事をやらされていたので、水泳・そろばん・ピアノ・体操と一通りこなせる。生徒会副会長を務めたこともあり、弁論大会や作文など各種コンクールでも賞をとりまくっていた。周囲からは完璧超人と思われていたが、それも全部親に強いられてイヤイヤこなしていた。本性は根っからのオタクであり、優等生を演じねばならない日々が苦痛で仕方なかった。

 当時は疑問に思わなかったが、よく考えると「看護師になる」という親の願望にも関係ないので、なんのためにやらされていたのかいよいよ分からない。結局自分を使って「育児トロフィーコンプ」をしたかっただけではないかと思っている。


 教国に拾われてからも漫画を描くのはやめていないものの、訓練に任務とずっと過密スケジュールなせいで、あまりはかどっていない。それでも、地獄の日々から救い出してくれたと感謝している。

 




 ・朝霧あさぎりレン


 銀髪赤目の美少年。若干強面でガタイがいい。

 銀髪はヘアカラーだが、赤目は生まれつき。ユウマはかなり鮮やかなコーヒー色の髪をしており、中学では生活指導の教師から頻繁に「染めてるだろ!」と難癖をつけられていた。ユウマの個性を抑圧した大人たちへの反発心も、髪染めに踏み切った要因の一つである。


 なお、卒業式の前にユウマ共々失踪したので、実は中卒労働者ですらない。そういう事情もあって、より教国へ依存している。

 そのためユウマから時々「本当にボクと一緒に来てよかったの?」と不安そうに聞かれることがあるが、本人は一切気に留めていない。そういう人生こそ彼の望むものである。利口なだけの男ほどくだらないものはないのだ。




 ・ユウマとレンを拾った教国エージェント


 一見ネームドっぽく見えるかもしれませんが、多分この先出番はありません。

 教国に連れ帰る途中で、二人をファミレスに連れて行ってあげたぐらいにはいい人です。


 なお、機関は機関で、何もしていなかったわけではありません。ユウマが事件を起こした段階で、いち早く彼女が魔法使いであることに気づきましたが、念波があまりにも強すぎてうかつに近寄れず、その間に近場にいた教国の者に先を越されてしまった、という経緯です。

 (後に来た機関の魔法使いが事件の後始末にあたり、マンションの住人を治療しましたが、ユウマの両親だけは回復しませんでした)






 ・水鏡みかがみ律季りつき



「あー炎夏さんのおっぱい揉みてぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ……

 揉みてぇよおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお……」



 今回出番がなかった主人公。シリアスが続いたせいで禁断症状を起こしている。

 炎夏「ううっ、後が怖いわ……」 







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