三話
「センパイ、僕と一緒に暮らしませんか?」
記憶の検索に一秒、思考の組み立てにもう一秒。
締めて二秒。
それが結論を下すのに要した時間だった。
「何言ってんだ、お前」
好きです、付き合ってください。
そこまでは分かる。
俺が断ったら、このままでいいんですか、と感情ではなく理屈で攻めてきた。俺の職業欄の空白がアサギの恋路にどう関係してくるのか分からないが、心理戦には持ち込める。
あくまでそこまでなら、理解できた。
その先が分からない。
一、好きだから付き合ってほしい。
二、いつまでもニートなんかやっていられない。
三、だから一緒に暮らしましょう。
そんな三段論法があってたまるか。
「お前は何か? いい歳して親のスネ齧るくらいなら自分のヒモになれとでも言うのか?」
そうだ。
親は俺より先に死ぬが、アサギは年齢だけ見れば俺より長生きする。齧るなら親のスネよりアサギのスネの方が安心だろう。……勿論、理屈の上では。
「それでセンパイが僕のものになってくれるんだったら、喜んで養いますよ」
言外に、というかほとんど直球で、それは無理ですよね、と言われていた。
まぁ、その通りだ。
「お前のヒモになるくらいなら首を吊る」
「で、首を吊るくらいなら親のスネを齧るわけですか」
「…………自殺は最悪の親不孝だ」
アサギは何も言わなかった。
自覚はある。俺の言動は矛盾だらけだ。
そもそもニートが矛盾の塊だろう。
ネットのニートどもは往々にして社会を悪いと言うが、そのニートたちが社会の癌だ。働かず、経済を回さず、誰の役にも立たない。社会が悪だというのなら、その足を引っ張っている癌を先に取り除くべきだ。
でも俺は悪くない、がニートの常套句である。
いや、俺は俺が悪いことを知っているが。
だとしても、同じことだろう。
自分が悪いと分かっているなら、どうして改善しようとしない。どうしてニートよりフリーターの方がマシだと言いながら、フリーターの悪いところ探しをしている。
要は、そういうことだ。
「センパイって、プライド高いですよね」
「嫌味か?」
「いえ、直接的に悪口言ったつもりです」
ため息もわかなかった。
どっと疲れが出る。俺はプライドが高いだろうか。まぁアサギが言うなら、そうなんだろうな。というか実際、あの企業に受かると思い込んでいた時点で自己評価は過剰だった。
「そんなプライド高いセンパイが僕のヒモになってくれるわけないじゃないですか」
平然と言われ、変な声が出そうになった。
「あー……、怖くて聞けなかったんだが、お前的にはヒモになるのは歓迎なのか」
聞くのも怖いが、聞かない方がもっと怖い。
恐る恐る訊ねれば、アサギはにこりと満面の笑みを向けてきた。
「勿論ですよ! でも、そうですね……。一つ一つ、矯正はしなくちゃいけないですよね。いくら僕でも、僕のことを金づるとしか思わない人と営みもなく何十年もは暮らせないですから」
聞かなければよかったと思っても、時既に遅し、だ。
「まず最初は、僕のことを名前で呼んでくれるように教えましょうか?」
「もう勘弁してください」
「でもこれ、人として割と最低限の部分だと思いますけど……」
言われないと気付かないもので、そういえばアサギのことを名前で呼んだことは少ないかもしれない。
「あー、アサギ?」
「なんですか、センパイっ?」
吐き気がするくらいに嬉しそうな笑顔だった。
「やっぱいいや、話戻してくれ」
そういうアサギも俺のことを『センパイ』としか呼ばないが、とは言ってはいけない。これで名前で呼ばれ続けていたら、俺の理性はとっくに崩壊していたかもしれないのだ。
「まぁ、でだ。プライドが高いってんなら尚更お前と一緒には暮らさないだろうが」
ヒモになると思っていなかったのなら、なんでわざわざ暮らすなどと言い出した。
……いや、まさか。
そのまさかなのだと、アサギの表情から嫌というほど分かる。
「勿論、家賃も生活費も折半ですよ? 僕は全然養ってもいいんですけど」
大学生がニートを養うとか、どんな地獄絵図だよ。
割と優秀で、なおかつ世渡り上手っぽいアサギならやりかねないが、そうじゃない。
「ニートに家賃払えとか、どう考えても無茶だろ。この部屋でも貯金が消し飛ぶぞ」
バイトした端から飲み会だとかプレゼントだとかで使い、貯金してこなかった俺が悪いのだが、今はそんなことを言っている場合ではない。
飲み会には度々顔を出していたアサギだ。わざわざ言い触らすことでもないと表立ってデートこそしていなかったものの、俺が貯金などしていなかったことくらいは想像していただろう。
にもかかわらず、家賃を払えと言う。
またしても、『まさか』だ。
「だからニートやめてください。バイトでもいいから働いて、一緒に家賃払ってください」
なんで、俺が?
勿論、自立した大人ならば、自分が住んでいる部屋の家賃くらい自分で払うべきだ。べき、というか、払っていて当然だろう。学生気分で親に払ってもらっている俺がおかしい。
だから、分かる。
家賃を払わなければいけない。
百歩譲って、この部屋の家賃を払うためならば分かる。
百歩譲るまでもなく人間として当たり前な気がするが、それは脇にやろう。
「どうして俺がお前とどうせ……二人暮らしして、わざわざ出費を増やさなくちゃいけないんだ? そのために働かなくちゃいけないんだ?」
この部屋での二人暮らしは契約的にアウトだ。学生向けといっても、恋人を連れ込んで事実上の同棲を始めたり、学生の溜まり場にされたりしたら困るから仕方ない。
そのくらいの事情は言わなくても想像できるだろうから、アサギが言っているのは、どこか別のところで一緒に暮らしましょう、ということだ。
なんで、俺が。
何度となく繰り返しそうになる。
「でもセンパイ、このままじゃいけないって分かってるんですよね? この部屋に居座り続けるのも難しいって分かってるんですよね? まさか引っ越した先の家賃もご両親に払ってもらうつもりですか? まだ家賃払ってくださいって頼むんですか?」
言いたくはない。
言いたくはないが、今だけは心を鬼にしよう。
「お前、本当に俺のこと好きなの?」
「愛しています」
「の割には、なんか辛辣すぎない……?」
今は何時だろう。
今日は金曜日だ。そろそろアサギも大学に行かなくちゃいけないはずだ。
せめて時刻だけでも確かめようとスマホに手を伸ばし、空を切る。布団に投げられたんだった。
どうしようもなくて、また天井を見上げる。雨漏りしていた。頬が冷たい。
「プライド、ずったずたですね」
「お前のせいでな」
俺はこんなに涙脆かっただろうか。
しとしと、という擬音は儚げな少女にこそ似合うものだが、同時にニートほどその涙を流す生き物もいないだろう。しとしとと枕を濡らすこと。それはニートの日課ですらある。
気付かぬうちに、慣れてしまったのかもしれない。
「そういう表情はあまり見なかったですけど、僕は好きですよ」
前言撤回。
こんなものに慣れてはいない。慣れるべきでもない。俺は平気だ。泣いてない。
まぁ、こういうところがプライドが高いと言われる所以なんだろうが。
とはいえ実際問題、泣いている場合でもないだろう。
「こんな言い方はしたくないが、俺になんの得がある?」
人間関係は損得ではないと言うが、どう足掻こうと、人間という社会的生物は社会の潤滑油たる金銭から逃れられない。金銭とは最も分かりやすい損得の形だ。
人間は、人間である以上、損得抜きには生きられない。
「お前の言う通り、いずれは出ていかなくちゃいけない。その時に親に頭を下げるのが嫌なら、頭を下げても断られるなら、自分で稼いで家賃を払わなくちゃいけない。生活費も、だ」
当たり前だ。
当たり前だが、少なくとも今の俺はそうしていない。
何故か? 親のスネを齧っているからだ。親がそれを黙認してくれているからだ。
「だが、今はまだ、払わずにいられる。仮にバイトをしても、このまま家賃を払わなくていいなら他のことに金を使える。お前と暮らすために家賃払って、それがなんの得になるんだ」
クソ野郎だという自覚はある。
だが、そもそもニートだ。社会の癌だ。親不孝者だ。生きている意味も存在している価値もない、いっそ死んだ方がマシな生き物だ。
クソ野郎なんて今更すぎる。
今となっては、どうでもいい。どうせお先真っ暗なら、今この時だけを謳歌して何が悪い。いずれ誰からも見放されるんだ、体裁なんか気にして何になる。
クソ野郎、上等だとも。
これで愛想を尽かして、さっさと他の女を……じゃなくて男を見つければいい。
そうだ。それが自分のためになる。俺なんか構っている場合じゃない。
だというのに、アサギは静かに笑って俺を見ていた。
「センパイに得なんてありませんよ?」
笑顔とは裏腹の、毒に満ちた言葉を吐きながら。
「自分の立場、分かってます? ねぇセンパイ? センパイはニートなんですよ? 誰からも必要とされなくて、誰からも見下されて、誰からも気にされることなく社会のド底辺の隅っこにいるんですよ? なんで今更、誰かから恵んでもらえると思ってるんですか?」
綺麗な花には棘があると言うが、この棘だらけの言葉は綺麗でもなんでもない。
ただの棘。あるいは棘だらけの、毒草。
「だから、センパイ」
それでもアサギは、笑みを湛えていた。
いっそ慈しみさえも抱いているかのような、優しげな笑み。
「これはセンパイのために言ってるんじゃないんです。僕のために言ってるんです。僕と一緒に暮らしてくれませんか? 僕と一緒に暮らすために、働いてくれませんか?」
それを図々しいと言える立場に、俺はない。
「俺に得がない」
「だから言ってるじゃないですか。センパイのためなんかじゃないって」
「なら――ッ」
「でも」
アサギの間合いは絶妙だった。
いや、全てが計算尽くなのだろう。
ほんの一瞬でも隙があれば見逃さず、割り込んでは俺を黙らせる。アサギは優秀だ。大抵のことをそつなくこなす。ずっと見ていた相手の息を読むことくらい、造作もないだろう。
「でも、センパイ? センパイに得はなくても、僕にはあるんです。センパイと一緒に暮らせたら、それだけで僕は幸せです。恋人になってくれなんて言ってるわけじゃないんですよ? 別に関係を持ってくれって言ってるわけでもないんです。あ、勿論、夜這いは大歓迎ですけど」
アサギが喋る。
俺は何も言えない。
言いたいことは山ほどあるのに、何故だか口は挟めなかった。アサギとて早口ではなく、むしろゆっくりと、贅沢すぎる時間の使い方をしているのに。
「もう一度言いますね、センパイ」
アサギが俺の目を見た。
俺は、目を逸らせない。
「僕のために働いてください。僕のために、ニートをやめてください」
そんな我儘があるかと、どうして言えなかったんだろう。
布団に投げた俺のものではなく、自分のスマホを手に取ったアサギが「そろそろ時間なので」と腰を上げた。
まだ話は終わっていない。
そう呼び止めようとして、できなかった。
そもそも、話は始まってすらいなかったはずだ。
――好きです、付き合ってください。
――断る。
それで話は終わって、俺とアサギの関係も終わっていた。
そう決めていたはずなのに、どうしてアサギが去るその時だけ、まだ終わっていないと言いたくなってしまったのか。
「……めんどくせ」
してやられた、と気付いてしまった。
リンリンリリン、と耳慣れない音楽が鳴って意識が浮上した。
なんだ、と咄嗟に時計を探す。いや、真っ先に壁掛け時計を探そうとする癖はどうにかした方がいい。もう四年半だ。四年半も壁掛け時計がないこの部屋で過ごしているのに。
……と、そうこう考えている間にもリンリンとリズムが奏でられていた。
外からか?
いや、外じゃない。部屋の中だ。
二十秒近くも音の発生源を辿っていって、挙げ句に首を傾げる。
音楽を鳴らしていたのは、布団の上に落ちている俺のスマホだった。
しかし、聞いたことのない音楽だ。
椅子に座っていたはずなのに痺れかけていた足に鞭を打って、布団の上のスマホを拾う。
画面に表示されていたのは、まさかの着信。
『ハニー』
そして発信者の登録名を見た瞬間、着信を拒否。
音が鳴り止む。
リンリンリリンと再度鳴り始める。
「俺に彼女はいない」
「そうですね、彼氏ならいました」
「黙れ」
以上、通話終了。
まぁ言うまでもなく、リンリンリリンと三度スマホが鳴った。
十数秒、俺からスマホを奪って布団に投げる間に、登録名と着信音の変更をしたのか。その技術をもっと他に使うべきじゃないか、あの馬鹿は。
「用件は?」
スマホを耳元にやり、無駄口を叩かれる前に先手を打つ。
「言い忘れてたんですけど」
「なら未来永劫忘れてろ」
電話口で、アサギが黙り込んだ。
どうしたのかと思ったら、どうやらまた切られると思っていたらしい。どうせかけ直されると分かっていて切る方が手間なのだが、少し疑り深すぎやしないか。
まぁ、俺のせいだな。
何事か恥ずかしそうに取り繕ったアサギが咳払いして、話を再開させる。
「今日は友達と飲む約束があるので、遅くなります」
「は?」
「……いえ、あの、ですから遅くなるんです。いくら僕でも、誕生日のお祝いしてくれるっていうのに断れないですよ。昨日だって、大切な約束があるからってズラしてもらったんですから」
何言ってんだ、こいつ。
まさか昨日転んだせいで脳に障害を負ったか。後頭部を打ちそうになったのは俺で、抹消したい黒歴史を押し付けられたのも俺だったはずだが、やはり酔った勢いで混乱していたのか。
「すまない、アサギ。お前にそんな傷を負わせていたなんて」
「あ、茶番に付き合っている時間はないので、すみませんが切りますね」
ニートほど暇じゃないと言いたいのか?
いやまぁ実際、ニートより暇な人間もそういないだろうが。
てか、そんな話じゃない。
遅くなるってなんだ、遅くなるって。お前が帰る家はここじゃないだろ、自分の部屋に帰れよ。
それを声に出さなかった理由は、単純至極。
ツーツー、と無機質な音が耳元で鳴っていたからである。
電話機としての機能を終えたスマホを布団に投げる前に、時刻を確認。
十時半。
一度家に寄ってから大学に行くとすれば、午前中の講義は全滅だ。進級はできるだろうが、実りのない不毛な会話に費やす対価としては勿体ない気がする。
「……ん?」
何か引っ掛かっていることに、今になって気付いた。
なんだろう。
スマホを拾って、あぁそうだと思い出す。ゲームを起動。溢れる寸前だったスタミナを消化しようと曜日クエストを開始しかけた瞬間、脳内で最大限の警鐘が鳴り響いた。
「おい、おいおい、待て」
アサギが帰った?
いや、そんなはずがない。最後に見たあいつの姿を思い描く。
若干伸びた膝下丈のTシャツ。
それだけだ。
あとは近くで見れば当然男に見えるが、遠くから目を細めて見れば女に見えなくもない容姿。腕も足も細く、かといって棒のようではなく、ある程度の柔らかさもありそう。
というか、実際あった。
反射的に洗面所に走りかけ、自制する。
いくら本人がいないとはいえ、思い出しただけで歯磨きをしたくなるのは流石に申し訳ない……のだろうか? 冷静に考えると、あれは俺相手ではなく女相手にやっていたら通報、即お縄案件である。別に口をゆすぐくらい、許されるんじゃないか。
……いや待て、そんなことを考えている場合じゃない。
どうした、俺。
なんでこんなに取り乱している。
そうだ、冷静になろう、落ち着こう。
まずアサギがあの格好のまま部屋を出ていった可能性だが、限りなく低いと言わざるを得ない。
しかし、確かに帰ったはずだ。
話は終わっていないと呼び止めかけ、我に返って追うのはやめた。
だがその後、戸が開いて閉まる音を聞いた、はずだ。あれは思い込みか? 違うだろう。さっきの電話だって、いくらなんでも部屋の中からかけていたら電話越しじゃない声が聞こえる。
だから、アサギは帰ったのだ。
さて、ここからが難問である。
風呂に入る時、脱衣所で脱いだはずの服は、今もそこにあるのか、ないのか。
何もアサギが脱いだ(そしてまだ洗ってない)服をどうこうしたいわけではない。
要は有名な猫の問題だ。
果たして、これは確かめてしまっていいのか?
脱衣所を確かめ、そこに服がなければ問題はない。俺が見落としただけで、アサギは脱衣所に寄り、着替えるなりズボンを穿くなりして帰った。何も問題はない。
だが一方で、そこに依然として服があったら、どうなる?
アサギはあの痴女……ではなく露出魔のごとき格好で平日の街中を歩いたことになる。それどころか、その性犯罪者は俺の部屋から出ていった。もし通報されたら、そこにいるのは俺だ。二十代無職男性の、俺。
まずい。
まぁ、それは考えすぎだろう。荒唐無稽もいいところだ。日本の警察は、そんな杜撰じゃない。
とはいえ、俺に冤罪がかからなくても、アサギがあんな格好で外に出たのだとしたら大問題だ。
社会的に、法律的にではなく……、
「ん?」
社会的かつ法律的に問題がないのなら、何が問題なんだろう。
いや社会的にも法律的にも大問題は大問題だが、誰かに見咎められなければいいのだ。
これは下半身を露出しているのではなくワンピースという立派なファッションですよ、と平然とした顔で歩いていれば、まぁ通報はされまい。事なかれ主義、万歳。
じゃあ、何が問題なんだ?
しばらく、考えていた。
例えば街中でミニスカートの女子高生を見かけ、最高のタイミングで風が吹いたとしよう。
倒錯した性癖を持っていない限り、喜ばない男はいまい。
しかしその女子高生と付き合っている男ならどう思うか。例外的に、その男だけは風を恨むだろう。
なるほど、却下だ。
考えてはみたが、アサギがどんな目で世の男どもから、あるいは女たちから見られようと知ったことではない。
猫は猫、アサギはアサギだ。
理論上は二つの可能性が重なって存在しているのかもしれないが、現実としてはたった一つの真実だけが厳然とそこにある。
脱衣所に、アサギの服はなかった。
安堵する自分に気付き、苛立ちそうになったが、代わりにため息をつく。
ポチポチしていなかったせいでスタミナが溢れてしまったゲームを一旦閉じて、メッセージアプリを起動。こちらは流石にハニーにはなっていなかったアサギにメッセージを送る。
『来るなら来るでいいが、着替えを持ってこい』
それだけ書いて、アプリを閉じる。
曜日クエストを周回しながら布団に横になろうとしたところで、昨夜そこにアサギが寝ていたことを思い出す。思い出さなければ、気にせず寝られたのに。
メッセージアプリを、また起動。
一度気になると、さっきのメッセージも嫌になってきた。消そうと思ったのだが、早くも既読が付いている。
『あと昨日の飲み代を返せ。電車賃はいらないがタクシー代は高かった。土産の一つも買ってこい』
これじゃあ本格的にヒモだな、と自嘲し、布団に寝転がる。
どうとでもなれ。
不愉快だった。
ただただ、不愉快だった。
「くそ……」
昨日までの俺は、もっと苛立っていたはずだ。
それから半日が過ぎた。
二十三時、つまりは日付が変わる一時間前。
インターホンは鳴らされず、代わりに「ただいま帰りましたぁ」と嬉しそうな声が届く。
玄関の方からやってきたのは、果たしてほろ酔い気味のアサギだ。
「ここはお前の帰ってくる家じゃない。帰れ」
「えぇ~、でもお土産買ってきたんですよぅ?」
不満げに頬を膨らませながら、アサギが二つの袋をテーブルに置く。片方は近所のコンビニのもの、もう片方は名前だけは薄っすら聞いた覚えのある飲み屋のものだった。
態度にも仕草にもイラッとさせられたが、これは水に流すしかあるまい。
コンビニの袋からは缶ビールが透けて見え、そうでなくとも焼き鳥の美味そうな匂いが漂ってくる。
「お酒、いつぶりです?」
「んな飲んでねえわけじゃねえよ」
とは言いつつも、かなり久しぶりだ。
何より金欠で朝昼夕飯を抜いた身としては、焼き鳥の香りに抗い難い。
いや待て。
手渡された缶ビールを無意識のうちに開けかけ、すんでのところで我に返る。土産だというなら喜んでご馳走になるが、だとしても買ってきたアサギより先に開けるのはどうなんだ。
少しは待つかと居住まいを正してみるが、あの妙に積極的になったアサギが急に大人しくなっている。何があったのか。もうしばらく待って、答えが眼前に示された。
一枚の茶封筒だ。
受け取り、中を確かめる。
「なんだ、これ」
「昨日立て替えてもらった分です」
「お前は一人で、その細身でこれだけ飲み食いしたと?」
封筒の中から出てきたのは、三枚の福沢諭吉。
詰まるところ、三万円。今の俺にとっては目が眩む大金だ。
「その、僕だって悪いとは思うんですよ? いきなり、しかも一方的にするのは」
なるほど、慰謝料か。
もしくは、示談金?
まぁどっちにしても同じだな。一枚だけ貰って、あとの二枚は封筒ごと突き返す。
「何も言わずに返されたら、事後承諾があったとみなします」
「わざわざ理由を言えと?」
「言ってくれなくちゃ分かりません」
馬鹿馬鹿しい。
昼間あれだけ言ったのに聞く耳を持たなかったのは誰だ。『言わなければ分からない』とは、しかし『言えば分かる』の裏返しではない。睨んで、缶ビールを開ける。
久しぶりのアルコールと炭酸が喉を焼くのを感じながら、それでも半分は一息に呷った。
「なら言うがな、その二万は昨日俺が立て替えた以上の金だ。そうと分かった上で渡すなら、お前こそ理由を言え。まさか慰謝料のつもりじゃないだろう? お前は好きでもない男にしたくもないことさせられて、二万で手打ちにすんのか? しねえだろうが」
顔が……全身が熱い。
たった百数十ミリリットルのビールで頭の先まで酔ったような気がした。
だが、だからこそ言い切らなければいけない。俺は酒に酔った。酔っている。それでいい。
「けどな、男と男じゃなくて、大人と大人じゃなくて、先輩と後輩って立場から頭下げるつもりなら、金なんか出すんじゃねえ。代わりに飯でも奢れ。それ以上は、受け取れない」
二万だ。
二万あれば、何ができる。
無償石をかき集めても月に一度しか引けない十連ガチャを三回は引けるだろう。朝から夕方までバイトすれば土日だけで稼げる額でも、今の俺にとっては三ヶ月分だ。
正直に言って、欲しくないわけがない。
それこそ道端に財布が落ちていたら、かなり悩むだろう。結局はどこぞに届けるなり見て見ぬ振りするなりしても、悩むことは悩むはずだ。
勿論、道端で困っていた婆さんに手を貸して、そのお礼にと渡されたなら喜んで受け取る。
けれど、しかし。
「俺が喜ぶとでも思ったか? ニートなら飛び付くとでも思ったか? そう思ったんなら、今すぐ帰れ。二度と顔を見せるな。いくらニートでもな、そんなクソ野郎の相手するほど暇じゃねえんだぞ!」
怒鳴る。
怒鳴りながら呷る酒が、怒鳴っている相手が買ってきたもので。
怒りとは裏腹に胃を刺激する焼き鳥も、アサギが買ってきたもので。
なんとも情けないと我ながら思う。思ったところで仕方ないとも、思ってしまった。
情けないくらいで嫌になるのなら、ニートなんかやっていられない。
「じゃあ、センパイ」
言うだけ言った俺に、アサギもそれまで引き結んでいた口を開く。
「夕食ご馳走するので、明日の夜付き合ってください」
「嫌だね! 誰がお前なんかと一緒に飯食うか!」
当たり前だろう。
アサギは鳩が豆鉄砲を食ったように目を丸くしているが、どこに驚く要素があった?
「話が違うじゃないですか! 後輩なら飯奢れって言ったの、センパイですよ!?」
馬鹿か。
こいつは馬鹿なのか。
「あぁ言ったとも。確かに言ったけどな、俺がそれを呑んで許してやるなんて一言も言ってねえんだよ! 俺が言ったのはあくまで心構えの話だ。お前が中途半端なことするからムカついて道理を教えてやっただけで、俺が許すかどうかは別問題だろうが!」
「なっ……!? ニートに道理なんて教えられるまでもないですよ! ていうか、なんです、大学まで出たセンパイは文脈って言葉知らないんですか? 今の会話、どう考えてもご飯奢れば許してくれる流れでしたよね? 小学校からやり直したらどうですかッ!?」
「てめぇに文脈説かれる道理もねえんだよ、変態! つうかお前、なんか便乗して夕食とか言いやがったじゃねえか。下心の謝罪で下心丸出しとか、どういう下半身してんだよ!」
「いや、だって、それは――」
とうとうアサギが言い淀み、俺が勝ちを確信した、次の瞬間だ。
ドンドンドンッ、と何かを叩く大きな音が玄関の方から響いてきた。
なんだ、何があった、と咄嗟に顔を見合わせ、二人揃って我に返る。
「今何時だと思ってやがる! 喧嘩するなら余所でやれ!」
……現在の時刻は、二十三時を回ったところ。
学生向けにしても安く設定された家賃の代償として、このアパートの壁は薄い。
そりゃあ、これだけの大声で喧嘩されたら、隣の住人もブチ切れて当然だろう。
「お前のせいだぞ」
「センパイのせいですよ」
一転声を潜め、それでも互いに責任を押し付けながら、そっとビールを飲み干す。
「ほら、帰れ」
顎で玄関を示すが、アサギは平然と片眉を上げて笑ってみせた。
「じゃあ、一件落着ってことで?」
「んなわけねえだろ」
いけしゃあしゃあと何を言いやがる。
だが、反射的に答えてしまってから、自分の失敗に気付いた。
「じゃあ二回戦ですね。口喧嘩するにはもってこいのところ知ってますけど、どうします?」
断ったら解決したことにされ、断らなければ断らないでまた面倒なことになるのだろう。
面倒臭い。
面倒臭いが、他に道はなかった。
「明日からも会うのに、どんな顔すりゃいいんだよ」
「ニートは部屋から出ないんで問題ないんじゃないんですか?」
「ニートと引きこもりは断じて別物だ!」
声を潜めながらも抗議を叫び、ため息をつく。
「じゃあ引っ越しましょう、やっぱり」
「そう返されんのが分かってたから言いたくなかったんだよ、くそ」
俺は学生向けアパートに居座っているニートである。
今後の生活のためにも、ご近所様には大人しく従うしかないのだ。
うるさい、余所に行け、と言われたら、黙るか余所に行くしかない。そして現状、黙ることは事実上の和解と同義だ。選択肢なんて、あるはずがない。
美味そうな焼き鳥は一旦諦め、腰を上げる。
アサギが満足げに笑っているのが、癪だった。
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