血暴走 ―蘇る百鬼夜行―

Introduction

prologue

　もう少しだ――そう言い聞かせ、少年は重い足を前へ前へと運んた。口から歩調に合わせ、苦しそうな息が漏れる。

　見据える先では、華奢な少女が急かすように手を振っていた。しかし、ペースを上げる余力は残っていない。

　少しずつ、少しずつ。少女との距離が縮んでいく。

　そして。

「到着！　おめでとう、山頂だよ」

草刈（くさかり）葵（あおい）の声がはっきりと耳に届いた。

　それを合図に、周囲の自然音が鮮明になり、ブラックアウトし掛けていた視界に色がつく。隅で遠慮がちに首を振って歓迎する緑と、奥に連なって構える深緑。広大な青。その中心で、黄色いフリースを着た葵がくるりと背中を向ける。長い後ろ髪が幻想的に風に靡いた。

「やっほー！」

その声は空と山々の構える空間に響き渡り、何度もこだました。

　葵の声は、次第に小さくなっていった。そして完全に聞こえなくなったとき、夕凪凉（ゆうなぎりょう）は地面に倒れた。

「ええ……嘘でしょ」

音に気づいて振り向いた葵が、幻滅したように呟き、再び前方の山岳へと向き直る。

「凉のクソザコなめくじー」

からかい口調の罵声は、地上へ知らしめるかのように反響を繰り返した。先程より余韻が長く続き、落ち着いたところで、凉が地面に両手を突き身体を起こした。

「そもそもお前がおかしいんだって。今まで運動禁止されてた人の体力じゃねえよ」

皮肉を込めたつもりだったが、褒め言葉として受け取ったらしい。葵は得意げに鼻で笑った。

「そりゃあ、毎日トレーニング頑張ったからね！　そうだ、今度から凉も一緒にやる？」

「嫌だよ、毎日1キロ走るなんて」

「明日からは2キロだよ？」

「……うわ、考えただけでも吐きそう。10分の1でも無理だわ」

凉は四肢を地面に投げ出し、ぐったりしたままだった。

　そこに、右手が差し出された。一緒に眩しい笑顔が添えられる。

「まだ特等席から見れてないでしょ？　立ちなよ。絶景見たら、疲れなんて吹っ飛ぶって」

「わかったから、急かすなよ」

不満を零しながら、凉は手を取った。

　色白の細い腕が、予想外の力で少年の体を引き上げた。2人は横に並び、同じ方角を向く。

　下方に広がる細々とした街。その正体は横浜の市街地だ。行くたびに高層ビル群と人混みに圧倒される大都市が、今やジオラマにも満たないサイズで眼下に収まっている。

「小さすぎて何が何だかわからない。踏み潰せちゃいそう」

葵は嬉しそうにはしゃぎながら、まじまじと景色を見下ろした。

　その隣で、凉はぼんやりと足元を見つめていた。一面に生い茂る木々の群れが、その高さを物語る。もし柵がなければ、簡単に踏み違えてしまいそうだ。

　人生を一転させ得る境界。凉は思わず唾を飲んだ。

「凉？」

突然名前を呼ばれ、凉は我に返った。葵が瞬きしながら、不思議そうに様子を窺っていた。

「話聞いてた？」

「え……ごめん、聞いてなかった。もう1度言って？」

　葵はわずかに顔を紅潮させると、しばらくの間悩むように沈黙した。そして、

「絶対に言わない！」

意地悪な笑みと被せて舌を出した。

「えー」

「言わない」

「なんでだよー」

「言わないったら言わない！」

葵は頑なに一点張りを続ける。しかし、その顔はどこか嬉しそうだった。