DとEの葬送
河嶋和真
1
僕たちは、その襲撃を大したものと認識していなかった。
例えていうなら、昼下がりに急に雨が降ってきたくらいのもの。多少雹が混じっているぐらい。所詮それくらいと、雑談の話題にするような出来事の一つだと。
その時、僕とドクター・リィはお茶会——までいかずとも、簡単な休憩というか、コーヒーを淹れて近況を報告しあっていたところだった。とはいっても、僕は彼女の助手、彼女は僕の上司であるので、話すほどのことは殆どない。あの資料をまとめましたよ、とか。そういえばあの備品を補充しておいてくれ、とか。
四方を壁に、その中には本という本が並ぶ彼女の
他と比べて、窓が無いのもあって閉塞的な雰囲気が漂う。その上、整頓されていて物一つ落ちていない。整然として、あるべきところにあるべきものが収まっている。あまりにもまっさらな秩序で、他の
強いていうなら、彼女は人間より機械に似ている。
「わたしは人間の感情らしいところが、人よりいくらか欠落している」
彼女は付け加えるように言った。「——と、言われている」
まあ、そんなものを自分で判断するのは難しいことだ。彼女に限らず、自分を客観視するのはやろうと思ってできることではない。
「けれど別に、わたしだって恋をしたことがないわけでもない、愛を知らないわけでもない。それに関しては、人並みに持っていると自覚はあるのだ」
勿論、それを誰かと比較は出来ない。横に並べてリンゴを見て、色合いの違いは分かるが中の糖度までは目視できないように。職人などその道の人ならまだしも、素人目には困難だ。
だから、彼女の言う感情に関して、僕たちにとってどれくらいの話のものなのか、それは分からない。あるいは、まるっきり機械で作られた彼女が居て、生身の本人と比較したら分かることもあるかもしれないが。
でも、彼女は、とにかく。思うところがあったらしい。その恋や愛について——彼について。
「Eの死は、わたしにとって非常に大きな損失だった」
そう言って、向かいに座ってコーヒーを一口飲むと、研究者は1人の女のようにさめざめと泣き始めた。
襲撃は、そんな最中に突如やってきたのである。
「侵入者が現れました。職員は直ちに所属する
繰り返します——アナウンスは延々と続いた。
部屋持ちであるリィは、僕とそのまま籠城することになった。隔壁のスイッチを押そうと、僕が立ち上がるより先に、彼女はスタスタと歩いている。何事もなかったかのようにタスクをクリアし、廊下の先で重い音と衝撃がした。その間、僕は中腰のまま硬直して、成り行きを無言で見守った。
彼女の頬には勿論、さっきまで流した涙がそのまま付いている。
うちに侵入者が現れるのは、頻繁ではないにせよ珍しい話ではない。年に2、3回くらいで、データのハッカーだったり何かしらのテロリストだったりがやってくる。今の時代、もっと楽な方法もあろうに、と思いながら、いつもこうやって障壁を下ろして、嵐が過ぎ去っていくのを待つのである。
だから、今日も僕たちはさして動揺していなかった。この部屋には、水回りも手洗いも付いていたし、食糧も何日分かは保管してあった。籠城をキメるには十分な備えだった。
「さて、どこまで話したかな」
リィは席に戻り、ふわっと白衣をひらめかせて座る。彼女は、僕と同じ服と着ている以外は、普通の人間とは一線を画したような貌をしていた。もし、彼女が宇宙人だと言っても驚かないくらいには。
「一応、わたしは天文学を専門としているけれど、それ自体は別に関係はない。星を見ていたら人間性を失うだとか、そんな馬鹿な原因はない」
まるで、人間以外の何かが人間性を持っているような言い方だが、僕は何も言わなかった。ミドリムシが人間性を持っていたらどうしようか、とは一瞬考えはしたが。
「けれど、宇宙を観測しているうちに、人間なんて生き物はどれだけちっぽけなのかを思い知った。この広い世界の中で、わたしたちはなんて矮小で、弱っちい存在なんだろうと」
その考え自体は、彼女に限ったことではない。天文学者に同じ感覚の人は居るだろうし、もっといえば職種に限らない。宇宙を知っているならば、その広さを想像して、自分たちの大きさと比較してみるなんてことは難しくない。少なくはない人数で、その発想に至った筈だ。
リィは向かいに再び腰掛け、足を組んだ。膝の辺りからストッキングが透けて、内側の肌色がぼんやりと見える。そこに頬杖を突いて、彼女は大きくため息をつく。
「だから、ローレンスはわたしにとって偉大だったんだよ。あるいは宇宙より大きな存在として」
天文学者にとって宇宙とはなんだろうか。
研究対象に他ならないとは思う。大事には違いないが、恋人という回答はどうだろうか。
仮に同意者がいたとして、「では自分の、人間の恋人を宇宙と同等と考えられるか」と聞いたら、素直にはいと答えるだろうか。
リィは、間違いなく「その通り」と言い切れる。
彼女はまた泣き出した。目から大粒の涙が溢れ出す。それなのに、表情に感情はなく、真顔のまま涙だけが意識を持つように流れる。声色も淡々として抑揚がない。電子音声が読み上げるような滑らかさだった。
「ローレンスは特別な人間だったんだ。他の誰とも違うものを持っている」
彼女は一呼吸置いた。
「言葉が通じるならば、彼のことを好きにならざるを得ないような力を持っていた」
言葉が通じるならば。僕はその言葉を反芻した。
その様子を見て、リィは大きく頷いた。
「言葉が通じるなら、分からないことは殆ど無くなる」
彼女のいう言葉は——今となってはだが——僕が思っているような「言葉」とは違っているようだった。ただの意思疎通の手段としか捉えていない僕に、この時の彼女の思惑が分かる由も無く。
「ドクターは、万物に共通の言語があると考えているのですか」
「そうだ」
彼女の声は、その日一番ハッキリしていたかもしれない。
「それが、ローレンスの持つ愛だったんだ」
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