第29話 無名の小説家③

 悪樓は、華姫の乗る船に胡座をかいて座った。吉備の穴海にいる神は、伝えられていたような恐ろしい異形の神ではなく、その姿は麗しく、穏やかな表情をしていて、贄にされた華姫を見ている。

 

『ど、どうか悪樓様。妾を喰らうのでしたら、体の一部を供養のために弔って下さい』

『私は、貴女を食べないよ。船の上では体が冷えてしまうだろう。小嶌に向かおう。そこには私の元に集った服わぬ民や、貴女の臣下のように流れ着いた者がいる』


 悪樓は優しく華姫に、そう伝えた。

 贄として食べられてしまうかもしれない、という恐怖はいつの間にか消え、華姫は彼の澄んだ銀の瞳に惹きつけられた。

 夜の海に霧のようなものが立ち込め、気づけば、見知らぬ島にたどり着いていた。浜には何人かの臣下が打ち上げられていて、命は助かったようだ。そして、華姫は小嶌に移住することになる。

 悪樓が言うように、この小嶌には海難事故で流れ着いた者や、悪樓の臣下が、村を形成して独自の文化を作っていた。ここの時間は外の世界よりも、非常にゆっくりと流れており、彼らはとても長い時間を生きている。華姫と年齢は変わらない娘も、生き字引のようで、古代から受け継いだ知識を持っていた。

 悪樓と華姫は、ゆっくりとお互いの心を通わせ、文をやり取りし、まるで夫婦のように慕い合う関係になっていく。その様子を追体験するように、美雨は悪樓に対する想いを募らせていった。

 悪樓は時に、荒い海のように威厳があり、恐ろしくもあるが、それでいて民や自分に優しく頼れる存在だ。普段の穏やかな人柄や、ちょっとした気遣い、美しい容姿はまるでお伽話とぎばなしに出てくる皇子のようで、華姫は恋の病にでもかかるように、彼に夢中になっていった。


『悪樓様。どうか、妾を片時も離れぬよう、妻として貴方様のお側に置いて下さい。心よりお慕いしております』


 華姫は夜の逢瀬にそう言うと、悪樓に寄り添った。まだ嫁入り前だった華姫は、男を知らず、恋というものを経験したことがなかったが、心に宿る、この穏やかで愛しい気持ちは紛れもなく『恋』なのだろうと思う。満月の下、悪樓の銀の髪がぼんやりと光り、夜光虫のような幻想的な光がふわりと彼の周りに浮かび上がる。彼の周囲はまるで海の中にいるようで、気泡と月光の中で泳ぐ、美しい魚が見えた。


『華姫。服わぬ神である私と夫婦になるということは、貴女の寿命が短くなるやもしれぬぞ。私は、貴女を愛しく思っているから……。健やかに過ごして、長く生きて欲しい』

『悪樓様。それでも良いのです。例えこの身が滅びても、妾は生まれ変わり、貴方様の元へ戻るでしょう』


 悪樓は少しばかり動揺した様子だった。

 華姫は、神様の花嫁になるということは、寿命を縮めるということも、ずっと以前から知っているような素振りだった。それでも、この人と傍にいたいという気持ちが美雨の中にも溢れて、ポロポロと涙が流れる。

 満月の下で交わした約束は、悪樓を苦しめることになるかもしれない。なぜなら彼は存在を消された神様で、流刑の地で永遠に一人で生き続け、一人変わらず誰かを受け入れては、死んだ者を見送る。

 最愛の妻を娶っても、過ごす時間は短い。いつ、生まれ変わってくるのか分からない想い人を、待ち続ける時間は辛いものだ。そして悪樓もまた、愛する人の寿命を削り、転生する華姫の魂を、永遠に自分の元に縛り付けてしまうことになる。

 けれど、お互い愛さずにはいられない業の深さ。


『華姫。愛している……永遠に』

『――――どうか、待っていて。妾は必ず貴方様の元へと帰ります』

『私も必ず、何百年先でも生まれ変わった貴女を見つけだす……。それまで、お別れだ』


 華姫の最期の記憶は、悪樓の悲痛な微笑み、彼の銀色の瞳から零れ落ちる涙。そして弱々しく握り返した華姫の指を、愛しそうに撫でていた。ほとんど、感情の起伏の少ない悪樓が見せた表情は、美雨の心を酷く締め付ける。

 華姫は息を引き取る直前、人より長く生きられなくとも、愛する人と、充実した生を歩めたことに感謝していた。

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