第26話

「そう言えばあのスケッチブック、朝から持ってたよね?澤村さんの私物だったんだ」

「ああ、うん。大切なスケッチブックなの。お気に入りのものだけ描くのに使ってるんだ」

「ふーん……じゃあ、俺って澤村さんのお気に入りなんだ?」

 彼は悪戯っ子みたいに笑って、私の顔を覗き込む。私は急に恥ずかしくなって「別にたまたまだよ!」と誤魔化した。一ノ瀬はつまらなそうに口を尖らせる。

「でも大事なスケッチブックなんだね。さっき、帰る時に急いでても丁寧に扱ってたから」

「ああ、うん、そう見えたのね……あのスケッチブック、離婚したお父さんが最後に買ってくれたんだ。だから、何となく大事にしちゃってて。だから、あれにはお気に入りばっかり描いちゃうの」

「え……澤村さんって親、離婚してるんだ?」

「高三の時にね。そんな歳に母の旧姓に変わったから、まだ澤村香ってちょっと他人みたいな感じがしちゃう」

 私が自嘲気味に笑うと、一ノ瀬はそっかと言いながらしゅんと眉を下げる。

「そんな顔しないで。四年も前のことなんだから。それに大学行くのに上京したから、離婚したって実感湧かないまま親と離れたし、そんなに悲しい思いもしなかったよ」

 少しだけ強がって言った。でも本心でもあった。離婚当時はもちろん哀しかったけれど、実際進学で上京すると親と接する機会はほとんどなくなった。入学してからは課題が山のようにあったので、悲しむ暇はあまりなかった。

「それに、実習に来てから一ノ瀬くんが澤村さんっていっぱい呼んでくれるから澤村香にも慣れてきたよ。あ!そう言えば今日、会ったよ!」

「会った?誰に?」

「一ノ瀬くんの妹さん!」

「え⁉凛と話したの⁉」

 一ノ瀬は驚いて、普段から大きな目をさらにまん丸にして見開いていた。

「うん。妹さん、美術室の清掃当番だったの。一ノ瀬律の妹ですって挨拶されたよ。在校生に妹さんがいたんだね」

「あいつ、目立ちたくないから兄妹だって秘密にしてって俺に言ってたのに。澤村さんには話したのか」

「お兄ちゃんが家で私の話をするから、話してみたかったんだって」

「そんなこと言ってたの⁉そんなに話してるつもりないんだけど……えー?そんなに話してたのかな、俺。待って、恥ずかしい……他に何言われたの⁉変なこと言ってなかった⁉家で携帯持ちながら携帯探してたとか、そういうの!」

「自爆してるよ……結構おっちょこちょいなんだね、一ノ瀬くん。普通の話しかしてないよ」

 でも、と私は迷いながら言葉を続けた。彼女の暗い顔が頭に過った。

「妹さん、ちょっと不安があるみたい。学校が少し怖いって」

「そう……凜が、そう言ってたんだ」

 一ノ瀬の表情が翳る。急に一ノ瀬は静かになった。視線を落として、彼は少し考えこむように口元に手を当てる。そして、彼は静かに話し始めた。

「妹は……凛は小学生の頃いじめに遭って、不登校になったんだ。いじめられた理由もなんだそれってくらい曖昧で中身が無くて、今思い出しても腹が立つよ」

 吐き捨てるように、一ノ瀬は冷たく言う。いつもの明るくて、人懐こくて、優しい彼とは別人みたいに見えた。

「学校に近づくだけで吐いてしまうくらいトラウマになってさ。中学はフリースクールや家庭教師で、本人も頑張ってたけど学校には数えるくらいしか行けなかった。でも高校から普通に学校に行きたいって言ってね。頑張って勉強して、今年の春から久しぶりに学校に通ってるんだ」

 一ノ瀬はふーっと深く息を吐いて、視線を落としたまま話し続ける。

「友達もできて楽しいって言ってた。だけど、やっぱり不安だよな。俺、本当にいつも心配くらいしかできなくて……何もしてやれない。卒業まで、何事もなく、ただ楽しく過ごしてほしいだけなんだ」

 一ノ瀬が妹を想う気持ちが痛いくらい伝わってきて、私は何と声をかけていいか分からなかった。

「……何でいじめなんてするんだろうね」

 絞り出すように言った彼の言葉は悲しみの色が滲んでいた。

「だから一ノ瀬くんは、私のいじめを知った時にあんなに怒ってくれたんだね……」

 初対面の時からずっと、どうして彼がここまで親身になってくれるのか、不思議でならなかった。でも、今やっと腑に落ちた。彼は、私に妹の姿を重ねていたのだ。彼があまりに優しくて、油断すると勘違いしてしまいそうになるけれど。彼はただ、私に妹を重ねて優しくしてくれていただけだったのだ。

 勘違いしてはいけない。ただただ、彼は優しいだけ。私を救ってくれたその優しさに少しでも報いたい。

「妹さん、過去のこともあって不安なだけで学校は辛くはないって言ってたよ。もしこれから学校で何かあっても、こんなに優しい家族がいるなら困ったときはきっと相談してくれるんじゃないかな」

 だから大丈夫だよ、と彼の肩にそっと手を置いた。一ノ瀬はそうだよね、と少しだけ明るい声に戻った。

「ごめん、妹のことになると、当時を思い出してちょっと心配性になっちゃって……まだ何かあったわけでもないのに。情けないな」

「そんなことないよ。あ、でも、妹さんが言ってた。お兄ちゃんってすごく泣き虫だって」

「え⁉そんなことも言ってたの?もう、凛のやつ、余計なこと言って……」

 一ノ瀬はむっとして顔をしかめる。私はからかうように「泣き虫なの?」と尋ねると、彼は少し躊躇って恥ずかしそうに目を逸らして言った。

「ちょっと涙腺が弱いだけだよ」

 恥ずかしがっている彼はどうしようもなく可愛く見えた。私より背もずっと高くて、手だってこんなに大きいのに可愛いだなんて不思議だ。可愛いなんて言ったら彼は怒るだろうか。

 ちら、と彼を盗み見ると夜風でふわふわの髪が揺れていた。見通しの良いバス通りは遮蔽物もないので、吹き込む風はいっそう強く感じる。

「少し冷えてきたね、寒くない?」

「平気だよ」

 そう言うのに、彼は上着を脱いで「どうぞ」と私の足にかけてくれる。こういう優しさをもらう度に、何故だか胸の内がぎゅっと痛む。このままバスが来なかったらいいのに。彼とバスを待つとき、いつしかそう思うようになっていた。

 他愛のない話ばかりした。教育実習のこと、彼の作っている曲のことや、私の卒制のこと。長いはずのバスの待ち時間はすぐに過ぎていく。

「あ、そろそろバスが来るみたい」

 バス停の屋根を見上げると、頭上に設置された機械のランプが光っている。二つ前のバス停にバスが来たことを知らせるランプだ。

「いつも一緒に待っててくれてありがとう」

「心配だから勝手に一緒にいただけだよ」

 膝にかけていた上着を彼に返すと、彼はそれをさっと羽織った。バス停のランプは一つ前のバス停まで来ていることを知らせていた。バスが来る方向に目を凝らすと、遠くにバスらしき影が見える。

「ていうか、俺ね、今日は澤村さんを待ってる間に寝ちゃってたんだよね」

「私のこと、待ってたの?」

「うん、一緒に帰りたかったから待ってた」

 一ノ瀬は恥ずかしげもなくさらりと言って、爽やかに笑った。

 こんなの、勘違いしてしまう。

 騒ぎ立てる心を静めながら、彼の無邪気な笑顔を恨めしく思った。

 電灯に照らされた彼の笑顔は優しくて、綺麗で、美しかった。眉毛が少し下がって、くしゃっと目尻に皺が寄り、男の人なのに少年みたいに見えるのは顔立ちと笑窪のせいだろうか。その一瞬の造形のどれもが私には心惹かれて目が離せない。

「澤村さん?どうかした?」

「あ、ごめん。今の顔すごくいいなって……」

 言いながら、不躾にも彼の顔をじっと見つめた。やっぱり描きたい。こんなに誰かを描きたいと思ったのは初めてかもしれない。

「ねえ、一ノ瀬くん。また、描かせてくれない?」

「へ?俺を描くの?」

「うん。実習が終わったら、あなたのことじっくり描きたいの」

「まあ、別にいいけど。同じ東京に住んでるんだしね」

「本当⁉ありがとう!ちゃんとモデル代払うからね!」

 彼の手を両手で握って深々と感謝すると、彼はぽかんとした顔で「え、モデル代?」と不思議そうに呟いていた。困惑する彼の向こうから、時刻通りにバスがやって来た。



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