第18話


 文化祭の後、美術室で片づけをしていると高岡先生が準備室から「香さん」と嬉しそうな顔でこちらに手招きしていた。準備室に入ると、先生は二つ折りになった紙を私に手渡した。

「なんですか、これ?」

「作品展の出口に、感想を書いてもらう用紙を置いておいたんですよ。何枚か入っていたんですがね、これはどう見てもあなた宛てだ。あなたが持っているといい」

 受け取った用紙を開くと、丁寧で綺麗な字で感想が認めてあった。

 その文章は「幸せな記憶を描いた人へ」という一文から始まっていた。幸せな記憶というのは、生徒玄関前に飾られている私の絵のタイトルだった。

「あなたの絵に救われました。あの絵を見て大切なことを思い出せました」

 手紙の最初にそう書かれていた。そして沢山の言葉で、私の絵を好ましく思ってくれていることが綴られていた。読み進めていくうち、ある一文を見て私は静かに息をのんだ。

「あの絵を描いてくれてありがとう」

 その一言がどうしようもなく嬉しくて、胸が熱くなった。喉の奥がぐっと熱くなって、何かが込み上げてくる。油断したらきっとそれは瞳から零れてしまう。忘れていた呼吸を思い出して、私は息を深く吸う。そして続きを読み進めた。優しい言葉が並んだ後、最後の一行は何故か黒く塗り潰されて「あなたの絵が大好きです」と書き直されていた。そう言えば、感想コーナーには消しゴムが置いてなかったなと思い返した。

 気になって、紙を裏返して天に翳した。その様子を先生は笑って見ていた。きっと先生も裏返したのだろう。透かして見ると塗り潰した下に『あなたが好きです』と書いてあるのが分かった。それを見て、くすっと笑ってしまった。書き間違えて慌てて消したのを想像すると可笑しかった。

「まるでラブレターみたいな感想ですね」

 そういうと高岡先生はうんうんと頷いて自分のことのように喜んで言った。

「ははは、僕も最初はラブレターかと思ったよ。絵を描いていてこんなうれしい感想を貰えることはそう多くない。大事にとっておきなさい」

「はい、そうします」

 私は初めてもらった作品の感想を写真に撮って、大事に仕舞った。

 その手紙は、その後も落ち込むたびに読んでは元気を取り戻す薬のような存在になった。

 何度も何度も感想を読み返した。感想をもらえることがこんなに嬉しいことだと思わなかった。読み返すたびに嬉しい気持ちが蘇り、また絵を描こうと思える。こんな嬉しいものを貰えるなんて、自分はなんと幸運なのだろうと感動した。その瞬間、ふと思いついた。私も手紙を書こう、と。

 顔も名前も知らないピアニストの彼に、私も伝えたくなった。感謝の気持ちを、彼のピアノが好きという気持ちを。

 文化祭の帰り道、早速可愛い便箋を探しに行った。駅前のビルに入っているおしゃれな雑貨屋さんで吟味して買った。家に帰ると、すぐに手紙を書き始めた。

 書き出しから苦戦した。名前も知らないから宛名すら書けないのだ。

「水曜日の放課後、ピアノを弾いている人へ……は長いかな?なんて書いたらいいのかな……」

 悩みに悩んで「水曜日のピアニストさんへ」と書いた。何を書こうと悩んで、何日もかけて手紙を書いた。言葉を連ねながら思った。

 私は多分、彼が好きだ。

 顔も、名前も知らない。彼の奏でるピアノしか知らない。それなのに、彼が好きになってしまった。どんな人だろう。どうして水曜だけピアノを弾いているんだろう。受験シーズンにピアノを弾いているんだからきっと年下かな。吹奏楽部かな、合唱部かな。そんなことを考えるだけで楽しかった。

 三年生になってから初めて心が弾んだ。

 彼のピアノに救われたこと、彼のピアノが本当に好きなこと。それをどんな言葉で綴るか、幾度も悩みながら言葉を書き連ねた。推敲を重ね、ひと月以上かけてやっと手紙を書き終えた。いつの間にかファンレターはラブレターになっていた。書き上げて読み返すと恥ずかしくなったけれど、どうしても渡したかった。その段階になってはっとする。

「どうやって渡そう……」

 声すらかけられないのに、直接渡せるはずがない。けれど、彼の名前も、学年も、クラスも知らない私には直接渡す以外の方法なんてない。頭を抱えて、とりあえず手紙を通学鞄に仕舞った。

 それからは水曜日の放課後にピアノが聞こえる度、手紙を携えて音楽室の前まで行った。けれど結局は緊張して何もできずに帰ることが続いた。

 勇気が、なかった。

 そうこうしている内に時間は過ぎ去って、二学期は終わりを迎えようとしていた。三学期になると、三年生は年明け暫くして自由登校になる。私も受験の為に卒業式まではほとんど学校には来なくなる。二学期最後の水曜日、きっと今日がピアノを聴ける最後の日になるだろう。

 今日しかない。勇気を振り絞って、階段を駆け上がった。いつもピアノが聞こえてくる時間だった。まだピアノの音はしないけれど、きっと音楽室に彼はいるはずだ。音楽室の扉の少し手前で息を整えて、ぎゅっと目を瞑る。緊張で、おかしくなりそうだった。でも、今日しかない。自分を奮い立たせて、勢いに任せて音楽室の中に入った。

「失礼します!」

 恐る恐る目を開けると、そこには誰もいなかった。

「……あれ」

 拍子抜けした。私は手紙を握りしめたまま、泥棒みたいにこそこそと音楽室の中に入った。名前は分からないけれど、ピアノの鍵盤を蓋う蓋みたいなものは開いていて、譜面台には楽譜は開かれたままだった。きっと彼のものだろう。廊下から顔を出して辺りを見回しても、人の気配はなかった。私は迷いながらラブレターを楽譜の横に置いた。そして、逃げるように音楽室から走り去った。美術室に戻って、窓の下に隠れるように座り込む。走ったのと、緊張とで、ぜえぜえと息は乱れていた。やっぱり手紙を取りに戻ろうか。でも、鉢合わせたらどうしよう。このまま置いておいて手紙を先生だとか、彼ではない人に見られたらどうしよう。いろんな考えが頭の中を巡った。

 どのくらいの時間、悩んでいただろうか。いつもより少し遅れて、ピアノの音色が響いてきた。

 彼だ。彼が来たのだ。

 顔に体中の血液が集まる。鼓動は心臓が壊れたかと思うくらいにうるさかった。彼は私の手紙を読んだのだろうか。彼のいつもと変わらないピアノの演奏を聴きながら、すっと一筋の涙が零れた。

 きっと彼は手紙を読んでくれたと思った。

 そう思えたのは、彼が弾いていた曲があの日私の命を救ってくれた優しい曲だったから。

「この曲の名前が知りたいな……」

 いつか彼と話せたら、聞いてみたい。なんて、彼の名前すら知らないのに。自分で自分を嗤った。壁に背を預けて、噛みしめるように彼のピアノを聴いていた。

 そうして二学期が終わり、三学期は親の離婚や受験で多忙を極め、あっという間に時間は過ぎていた。結局、彼と顔を合わせることすらないまま、私は高校を卒業した。それも致し方ないことだった。


 勇気のない私が書いたのは、名無しのラブレターだったから。


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