Ⅱ章 限界世紀

第9話 ――砂漠の街、ヴィステ――

 地球の気候変動が進んでいた。アフリカの港湾都市ヴィステの周囲も砂漠化し、内陸から吹く風は街で暮らす人々を内側から焼いて、心を腐らせた。そんな時代を〝限界世紀〟と呼んだのは数十年後の人間だ。


「腹減ったなぁ」


「俺もぉ。何か獲れるかなぁ」


 10歳の少年、イサクとモハメドは海岸を目指していた。距離にすれば200メートルほど。……貧しくて学校に行けない彼らには、地球の気候変動も社会の格差問題にも無縁だった。無知は、何事も問題だと気づかせない。ただ現実は目の前にある。空腹が切実な問題だった。


 2人はスラム街の友人で家が隣だった。どちらの家も日々食事をするのがやっとというほど貧しく、身に着けているのも半ズボンひとつ、と半裸の状態だ。幸か不幸か、そこは赤道直下の南国、寒さで凍えることはなかった。


 彼らが持つのは穴の開いたバケツと手作りのもり。それで魚が獲れたことは一度もない。


「獲らないと死ぬぞ」


「モハメドはママがいるからいいじゃないか。夜になれば、店のを持って帰ってくるんだろう?……俺は何か獲っていかないと飢え死にだ。魚が無理なら貝でも小エビでもいい。海草だって……」


 イサクの母親は貧乏に疲れて3年前に家を出ていった。今、どこで何をしているのかわからない。父親は週に一度しか返ってこない。帰ってくればいくばくかの金を置いていってくれるが、三日もたてばそれは尽きる。次に父親が帰ってくるのは明後日で、家には一握りのトウモロコシの粉さえなかった。


 数キロ先の国際空港を離陸した旅客機が、少年たちの頭上を通り過ぎる。2人の声はジェットエンジンの爆音にかき消された。彼らはそれを見上げない。見上げたところで世界は変わらないからだ。期待するだけ後が辛くなると知っている。


 少年たちはやせて棒のようになった足を運んで国際通りを横切った。焼けたコンクリートの上をねるようにして……。


 そんな彼らを木陰に座って見ている大人が数人。彼らは涼しくなるのを待っている。夕方、陽が陰ってから市場や食堂で働く者たちだ。


 少年たちは砂防用の生け垣を越える。目の前は白い砂浜で、朽ちた小舟がいくつも放置されていた。その先に広がるインド洋は広く、波も穏やかだが魚は少ない。海自体が死にかけているのだ。


 漁をする漁船の姿はなかった。多くの猟師は自分の船を捨て、スラム街の男たちと徒党を組んで海賊業に精を出している。小型の動力船で貨物船や客船を取り囲み、船員や乗客の金品、あるいは積荷を奪って生計を立てていた。


 警察は海賊を取り締まる力がなくて放置していたが、最近になって世界中の軍隊が集まって取り締まっている。そのために海賊たちの稼ぎは減っていた。


 少年たちの父親も海賊団に加わっていた。当初は荒稼ぎをしていたが、最近の稼ぎはたかが知れていて、おまけに酒やギャンブルに使ってしまうものだから、子供たちの暮らしが楽になることはなかった。


「何かあるぞ!」


 波打ち際に見たことのない白く丸い物が二つある。富裕層が遊ぶビーチボールよりは小さいが、サッカーボールほどの大きさがあった。


 少年たちは競うように波打ち際まで走った。


「なんだ?」


 ――コンコン――


 たたいて得られた感触は卵だ。ウミガメの卵に似ているが、それにしては大きすぎる。


「でかい卵だな」


 少年たちは卵を持ち上げた。ずっしりと重さがある。


「ウミガメの卵か?」


「まさか。でかすぎる」


「クジラの卵か?」


「そうかもな」


「食えるのか?」


「食えるさ、卵だもの。ゆで卵にしたら、腹いっぱいになるぞ」


 腕の中にある重みが胃袋を満たしたところを想像すると、口の中が唾液でいっぱいになった。


 見れば、波間にも同じものが三つ四つ浮き沈みしていた。それが砂浜に打ち上げられたのだろう。


「あれも欲しいな」


「一度には運べない。一旦これを家に置いて出直そう」


 2人は一つずつ卵を持ち帰り、大きな麻袋を担いで海岸に戻った。


「なんだよ!」


 モハメドが声をあげた。


 砂浜では大勢の大人たちが卵の奪い合いをしていた。木陰で休んでいた大人たちが、イサクたちが運んでいた卵を見て集まっていたのだ。


 大人たちが奪い合っている卵の数は50はあるだろう。


「俺たちが最初に見つけたんだぞ!」


 イサクが叫んだところで誰も耳を貸さない。皆、卵に夢中だ。


 少年たちは波打際に走り、卵を探した。空が赤く染まるまで探したが、卵は全て大人たちに奪われていた。2人は手ぶらで夫々それぞれの家に帰った。


 イサクの家は3メートル四方ほどの粗末な小屋だ。嵐が来ればすぐに倒れてしまうが、作り直すのも簡単だ。そこには家具らしいものは何もない。あるものといえば、寝台代わりの板に敷かれたビニールシートと古いなべ水瓶みずがめだけ。


 ひとつだけ不釣り合いな電気器具があった。天井にぶら下がった照明器具だ。電線につながっていないそれがどうして光るのか、イサクには詳しい仕組みは分からない。分かるのは、電気は宇宙から降ってくるということと、それをやっているのが日本のSETという会社で、父親がその照明器具を市長から無料でもらった、ということだけだ。なんでもそれが〝福祉〟というものらしい。


 イサクが知る限り、照明器具どころか、テレビや冷蔵庫といった家電、モーターボートも自動車も宇宙から届く電気で動いているからバッテリーを搭載していない。「電気より食べ物をくれ」と声をあげたいところだけれど、それを言ったら電気ももらえなくなりそうなので黙っている。


 イサクは巨大な卵を抱いて照明器具の下に胡坐あぎらをかいた。白い卵は光に照らされて神々しく見えた。


 これをどうやって食べよう?……卵焼きにするには大きなフライパンがない。そうするための油もない。


「そうだ!」


 閃いたのは、水を運ぶために使っている金属製の一斗缶いっとかんを使ってゆで卵にすることだった。水瓶の隣に置いてある一斗缶に目をやった。


 あれならいける!……確信に胸を躍らせた時、人間のものとは思えない叫び声がした。


 ――ギェー!――


「兄ちゃん!」


 その声は隣のモハメドの妹のものだった。


 悲鳴はモハメドのものか?……いつもの兄妹喧嘩とは思えなかった。彼女の声は、怒りではなく不安と恐怖の色を帯びていたからだ。


 様子を見に行こう。……膝から卵をおろそうとした時、それに亀裂が入っているのに気づいた。その亀裂の奥に光るものが見える。


 ――眼――だ。


 光る眼を見た瞬間、イサクの頭から隣人への関心が消えた。心が、その眼にしばられた。


 この卵がナニの卵か、それに関心が移っていた。同時に、ゆで卵への期待が消えた。


 ゆで卵はなくなったけど、焼き肉なら。……空腹が気持ちを動かした時、卵が二つに割れた。


 眼の持ち主はだった。姿形は人間なのだけれど、肌の色はキャベツのような黄緑色で、髪の色はナツメヤシの葉のような深い緑色をしていた。


「なんだ、おまえ?」


 イサクは深い失望を覚えた。産まれたのがでは焼き肉にもできないではないか……。


 ――グゥー――


 腹の鳴る音がした。イサクの腹ではなく、産まれたばかりのの胃袋の音だ。


 それの瞳がギラリと光り、ピョンと跳ねた。


「エッ?」


 それは、イサクが驚いている間に彼ののどきばを立てていた。


 ――ギェー!――


 イサクの断末魔だんまつまの声……。


 少年を仕留めたは彼の肝臓を食べ、脳みそをすすった。そうして胃袋を満たすと、仲間を求めて小屋を飛び出した。




 翌日もヴィステの海岸には卵が漂着した。前日に孵化うかした未知の生物は集団を作り、市民を捕食しつづけ、その体格は3倍ほどになっていた。


 政府はをテロ組織と位置付け、軍による排除を開始した。


 しかし、それはかなわなかった。未知の生物の肉体は強靭きょうじんで傷の回復能力に優れていた。彼らを倒すには重機関銃の攻撃を要したが、貧困国にそれは少ない。


 一方、未知の生物たちは数体が連携し、軍隊を分断して兵隊を殺した。彼らは兵隊の武器を奪って武装した。彼らは機関銃を使う程度の知能を有していた。


 海岸には、次から次と卵が漂着していた。未知の生物の数はあっという間に数倍に膨れた。彼らはヴィステの街を我が物顔で闊歩かっぽし、住民をただ殺し、時には連れ去った。連れ去られた人々は数日後、骨だけの姿になって捨てられた。時には、骨も残されなかった。


 市民はヴィステを捨て、軍は空爆で街を焼いた。しかし、それで事件が終わることはなかった。未知の生物は死滅することなく、隣の町を襲った。


 未知の生物は増殖し、四方へ散らばっていった。国境も越えた。


 周辺地危機では武器が売れた。誰もが武装を強化し、怪しいものを見かけると我先に攻撃をしかけた。そうするしか生き残る道はない、と思い込んだ。そうして政情不安定な国々は更に不安定さを増し、国民は飢え、国家は疲弊した。安全を求めて、先進国へ向かう難民が増えた。

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