いなくなった弟が帰ってきた

梅崎あめの

伯爵令嬢シェリアの帰宅

 馬車の外を流れる景色が、見慣れたものに変わってくると、シェリアは安堵から小さく息をついた。


 見渡す限りの緑色。なだらかな丘陵が続き、点在する民家と、たくさんの羊たち。

 人間よりも羊の数の方が多いらしい、この小さな領地にシェリアの生家はある。


 更にその羊よりも多いとされる存在があるのだが、残念ながらシェリアはお目にかかったことがない。




 シェリアは、伯爵家の娘である。


 亜麻色の髪にエメラルドグリーンの瞳を持つ彼女は、この度の社交期シーズンでデビュタントを迎えるべく、先日まで王都に滞在していた。


 この国の多くの貴族令嬢は、おおむね十六歳から十八歳の間になると、女王陛下に拝謁することで、社交界の仲間入りを果たす。


 シェリアは、現在十六歳。

 ちょうど、デビューの年齢である。


 貴族令嬢にとって、御披露目は避けて通れぬものではあるけれど、生まれてからずっと領地で暮らしてきたシェリアは、貴族令嬢としての付き合いをしたこともなければ、マナーの知識も乏しかった。


 その為、先立って王都に滞在し、貴族令嬢としての立ち居振舞いを徹底的に学ぶことになった。


 社交の期間は、春先から初夏にかけて。

 本来であれば数ヶ月で済むところを、一年の滞在となった。


 領地暮らしだったシェリアにとっては、王都の目に映るもの全てが新鮮だった。

 街並みも賑やかさも口にするものも。


 けれど、その効力は一週間も経つ頃にはすっかり薄れてしまい、シェリアはホームシックになってしまった。


 その後は、帰郷出来る日を指折り数えて待つ日々。


 滞在先であった伯母は、今回の社交期シーズンでシェリアの結婚相手を見つけたかったようだったけれど、残念ながら、シェリア本人にはその気はなかった。


 最後の舞踏会が終わった夜に、シェリアは役目は終えたとばかりに荷物をまとめると、翌朝出立したのだった。




 馬車が領地内に入ってから、シェリアは羊を数えていた。一匹、二匹……と数えていたのだが、途中で群れに遭遇する度に数え直す。その繰り返し。


 何度も繰り返しながら、ふとぼんやりとシェリアは考えた。


 ───羊たちには、かれら・・・が見えているのだろうか、と。


 もしもそうであるなら、羨ましかった。

 シェリアにとって、かれらは恋い焦がれた存在だから。




 馬車の揺れは心地良く、規則的に聞こえる蹄の鳴る音は眠りへといざなう。


 シェリアは、いつしか身体を傾けていた。


 そうして暫くうとうととしていると、やがて揺れが止まり、蹄の音が鳴りやんだ。


 目的地に着いたようだ。


 外の景色を確かめ、シェリアが手元に鞄を引き寄せて抱え待っていると、御者が扉が開き、光が射し込んだ。


 その先へとゆっくりと降りていけば、目の前には、領地内で一際大きな邸宅。


 懐かしの我が家。一年振りだ。


 胸に込み上げてくるものをぐっと堪え、門の前まで歩いていくと、白髪交じりの燕尾服姿の男性が出迎えてくれた。


「おかえりなさいませ、お嬢様」


 出迎えてくれた男性はこの家の執事であり、シェリアが幼い頃から姿が変わらない不思議なひとだ。

 

「ただいま帰りました。……ジェームズ、久し振り」


 再会の喜びから、シェリアは思わず顔をほころばせた。

 それは、満面の笑みだったに違いない。


「お疲れでしょう。お荷物お持ちいたします。さあ、中へどうぞ」


 ジェームズがシェリアの鞄をさりげなく受けとり手で示すと、門はひとりでに開いた。

 それは、幼い頃から見慣れた光景だった。


「ありがとう」


 ジェームズに導かれて、シェリアは門をくぐって歩く。

 途中でちらりとジェームズの手元に視線をやると、預けたはずの鞄がそこにはない。 


「ご心配なく。ただいま他の者がお部屋まで運んでおります」


 シェリアの視線に気付いたジェームズが、安心させるように微笑んだ。


「ええ。ジェームズの仕事ぶりは信用しているわ。……ありがとう」


 シェリアはジェームズに、にこりと微笑み返した。

 他者の気配など微塵もなかったけれど、鞄は間違いなくシェリアの部屋にあるだろう。


 一年前までは気付かなかったけれど、王都そとから帰ってきた今なら分かる。


 ───この屋敷にはかれら・・・がいる。


 それは間違いなく、お伽噺や空想上の存在なんかじゃない、と。


「この後はどうされますか」

「今夜の分のクッキーを焼くわ」


 ジェームズの問いかけに、シェリアは当然のように告げた。


 シェリアには、習慣にしていることがある。

 毎晩、就寝前に窓辺にクッキーとミルクを置くのだ。


 これは、“かれら”に会う為の、人間の間で伝わる儀式のひとつである。


「それはそれは。お疲れでしょうに。“かれら”もきっと喜びますよ」


「……だといいな」


 シェリアの切実な、焦がれるような声が響いた。

 

 

 ◆


 

  シェリアは自室に戻り着替えると、厨房へと向かう。

 一年ぶりのクッキーづくりに、心が躍らずにはいられない。


 なにせ、王都滞在中は“貴族令嬢が厨房に立つものではない”と、一切立ち入らせて貰えなかったのだ。


 陛下に拝謁する時に火傷をしているのが見えたら失礼にあたるとか、舞踏会で手に傷があるのが見えたら令嬢らしくないと敬遠され、結婚相手が見つからないだとか。


 伯母はとにかく、シェリアに料理をさせたがらなかった。


 一度、手袋をしていたら見えないのではないかと伯母に話してみたけれど、一蹴されてしまった。


 “そういう問題ではない”らしい。


 そんなわけで、久し振りのお菓子づくりである。

 シェリアは、王都で食べた異国のクッキーを作ってみたかった。



 外出用のドレスから汚れても構わない家着に着替え、シェリアが弾む気持ちで階段を降りていると、シェリアと同じ亜麻色の髪の少年と遭遇した。


「おかえり、ねえさん」


 アンディ・シーリティ。十歳。

 シェリアの六歳下の弟である。

 

「ただいま、アンディ」

「帰ってくるの、早かったね」

 

 アンディの言葉に、シェリアは首を傾げた。

 社交期シーズン最後の舞踏会を終えて、翌朝出立したから、アンディが思っていたより早かったのだろうか。

 

「ここから王都までどんなに急いでも、三日はかかるらしいよ。舞踏会は一昨日。今日帰ってくるのは随分早いね」


 ……これはもしかしたら最後まで参加せず帰ってきたのだと疑われているのかもしれない。

 だとしたなら、最後まで頑張って参加したのに悲しすぎる。

 アンディが何故誤解したのかは分からないけれど、誤解は解かねばなるまい。


 そう思ったシェリアはきちんと役目を果たしてきたのだと、弟に説明を試みることにした。


「アンディ、一昨日の舞踏会は参加したわ。……それと、ここから王都に出発した時も一日半で着いたの。馬が優秀だったのかもしれないわ」


「……別に舞踏会に参加したことは疑ってないよ。ただ、ここでは随分と不思議なことがあるなって」

 

 どうやらアンディは、シェリアの不参加を疑っていたわけではなかったらしく、シェリアはほっと胸を撫で下ろした。


 確かに、アンディの言う通り、ここでは不思議なことばかりが起こるかもしれない。


 シェリアは、この領地では日常だったあらゆる現象が、領地の外では滅多にないことを王都に行って初めて知った。


「……鈍いねえさんは気付かなかったかもしれないけど」


 その通りだった。

 弟のアンディは随分と聡かったらしい。


 自分と同じエメラルドグリーンの瞳に見透かすように見つめられて、シェリアはふと思った。


 ───弟は、こんなことを考えていたのかと。


 今までは姉弟きょうだいと言っても、一日に二~三回ほど言葉を交わす程度だったから、知らなくても当然だ。


 別に、仲が悪いわけではない。

 ただなんとなく、お互いの世界が噛み合わなかっただけ。


「……確かにね」


 シェリアがそう返すと、アンディは意外そうに目を丸くしたあと、「じゃあ」と去っていった。


 ───これが、シェリアが、失踪前の本物のアンディと交わした最後の会話だった。

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