最終章 クラシックロード編
第41話 再始動
2021年1月上旬。
空港牧場へ移動した航は心機一転、春のレースに向け、騎乗運動を開始。
朝と晩にウォーキングマシンでの常歩運動と人を跨がせた軽めの運動に加えて、アエロホースを使った水中歩行運動を行いながら、増えすぎた馬体重を脚元に負担をかけることなく着実に減らしていった。
ウォーキングマシンとウォータートレッドミルで調整を続けること約一ヶ月。
ようやく周回コースと坂路コースを織り交ぜながら乗り込みを進められる段階になり、あと2ヶ月もすれば大体レースに向かえる状態に戻る目処が立った。
「しばらく見ないうちに、だいぶ様になってきたじゃないか」
航が空港牧場に滞在していると聞き。
乗馬の仕事を終えたばかりのマルシェがいても立ってもいられず厩舎に顔を出す。
「マルシェさん!? どうしてここへ……」
「教え子の一大事に黙ってられるかよ。聞いたぜ。次が正念場だってな」
何か力になれないかとマルシェ。
マルシェの男気ある行動に、航は胸がつまり、涙が出そうになる。
「次走、どこを使うかまだ決まってないのか?」
哲弥は幹久と密に連絡を取り合っているようだが、馬の状態に関することが主で、具体的な話が出た気配はない。
「この一ヶ月は、調教メニューから食事に至るまで、厩舎長からの指示で馬体重の管理を徹底してたんだ。しっかり乗り込めるよう土台を作ること優先で、相手関係を見てって考えは端からねえと思うんだけどな」
代わりに八肋が答える。
「進捗からして弥生賞までに十分な乗り込み量を消化できるか微妙。となると、若葉ステークス、スプリングステークス、毎日杯あたりか……」
「皐月賞に出走して、そこで5着以内に入ってダービーの権利を取る。現状これしかねえだろう。皐月はパスしてダービーでいいなんて悠長に構えていられるほど、どんべえは賞金を持っちゃいねえんだから」
トライアルレースを使ってくる実績馬が少なくなったために、近年のクラシックは出走ボーダーラインが読みにくくなっている。
1勝馬のドングラスでは。
皐月賞の優先出走権を取っただけではダービー出走は難しく、
毎日杯2着で賞金を加算しても、皐月賞を収得賞金が足らずに弾かれてしまう可能性がある。
クラシック皆勤を成し遂げるには、いくつもの壁を乗り越えなくてはならない。
「小回りで直線が短いコースはどんべえにプラスに働くはずだ。ただ――」
「毎日杯を選択した場合だな。直線が長い阪神外回りコースだとスタミナや持続力よりも瞬発力が問われる展開になりやすい」
そのとおりだ、と八肋は首肯する。
阪神競馬場は小回りの競馬場のイメージがあるが。
芝外回りコースは府中や京都外回りと同様に、紛れが少なく、馬の実力が出しやすい大箱コース。最後の直線は474mと府中に次ぐ長さで、3、4コーナーのカーブもゆったりしている。
「……」
府中、京都(外回り)と速い上りが求められるコースで負け続きの航。
キレないモーリス産駒だと酷評された記憶がよみがえってくる。
「言いたい奴には言わせておけ。それよりもだ」
マルシェはグイッと航に顔を近づけて、
「お前自身が、決め手がないと思い込んでること。こっちの方がよっぽど問題だ」
「俺が? え、え!?」
思いがけない言葉に、航は一瞬思考が停止する。
本格化したらキレる脚も使えると言われたことはあっても、今の航でもキレる脚を使えると言い切ったのはマルシェが初めてだ。八肋ですらも目を丸くしていた。
「以前お前といっしょにゲート練習をしていた時、俺に怒鳴られたのを覚えているか?」
「はい、よく覚えています」
あの時航はマルシェに追いつくために長々と負担のかかる回転襲歩で走り続けてこっぴどく怒られた。
回転襲歩はエネルギーの消費が激しいので、長い距離を走るのに向いていない走法だ。
レースではどの馬もゲートを出て数歩で交叉襲歩に切り替える。
「大幅に体力を使ってしまう反面、一気に加速することができる回転襲歩だが。スタートの時にしか回転襲歩を使っちゃいけないというルールはない。スピードとスタミナの両方に秀でた体力のある馬ならスパート時にあれをやっても最後まで持つはずだ」
あくまで理屈の上ではとマルシェは言葉を継ぎ足し、
「キレがないと評される馬ってのは、最高速度に達するまで時間がかかるか、最高速度そのものの上限が低いかのどっちかだ。前走前々走の内容を見る限り、スピード能力に問題があるようには見えない――なら答えは一つだ」
「一線級とやりあうには足りない瞬発力を、どんべえの底なしの体力でどうにかしちまおうって寸法か……こいつは盲点だった!」
「手前を変える際、一度回転襲歩をはさむことになる。だから手順としては最後の直線、手前替えのタイミングを利用して回転襲歩で加速。スピードに乗ったら、ただちに交叉襲歩に切り替え、速度を維持したままゴールするんだ」
マルシェが見出した方法とは。
多大なエネルギーと引き換えに、トップスピードに到達するまでの時間短縮が実現できる、諸刃の剣と言えるものであった。
「だれでもってわけじゃない。馬体の柔軟性、器用さ、無尽蔵のスタミナ、そしてなによりラスト100m、一番苦しいところを粘り切る底力。これらすべてあって初めて成立する。俺の見立てが正しければドングラス、お前にならきっと使いこなせるはずだ」
「鋭くキレる脚を俺でも……」
ゴール前で回転襲歩を使って加速力を得ることができれば、スローペースだとキレ負けしやすい馬でも、ギアチェンジ戦に十分対応することができる。
しかし当然リスクはある。
「通常よりも消耗が激しい走り方をするぶん、どうしてもレース後のダメージは大きくなる。一回やれば、放牧休養をはさまない限りは、疲労が抜け切らないままでの出走を強いられることになるだろう。シーズン中に使えるのはおそらく一度きり。あとはお前次第だ」
静かにそう決断を促すマルシェに。
航は――
「1%でも可能性があるのなら、やらない理由はありませんよ!」
即断決。
自分だけの武器を手に入れるために、マルシェと特訓を開始した。
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