第37話 ドリームパスポート②
10月1日。
晴天に恵まれたロンシャン競馬場に。
今年は6000人を超す日本人大応援団が、ディープインパクトの勝利を後押ししようと応援に駆けつけていた。
第7レースの時間も迫り――
パリ西部ブローニュの森の中にあるパドックに、凱旋門賞出走馬が入ってくると。
ジャンは現地入りした日本人ファンといっしょになってディープインパクトに熱いまなざしを向ける。
(あの小さな体のどこにあんな体力が潜んでいるのか)
牝馬と見間違えてしまうような華奢な体躯が、樹木の葉の隙間から漏れ入る淡い陽光に照らし出される。しなやかさを感じさせる細身の薄い馬体。茶色の毛並みはビロードのように美しく、瞳はどこまでも澄んでいた。
(関係者は体調の良さに自信を見せていたが)
馬の出来に関して。
この手の厩舎コメントというのは鵜呑みにはできない。
なぜならレース前好調だと言っておきながら、レース後、実は体に問題を抱えていたと判明することがザラにあるからだ。
フランスでは調教のタイムを計る習慣はなく、馬体重も計測したりしない。
乗った時の感触や、調教後の息遣いなどから仕上がり具合を判断しなければならず、過去の調教時計と比較することで好不調を見極める日本式調教スタイルのディープインパクト陣営が、仕上げに苦労したであろうことは想像がつく。
(日本にいた時のようには走れまい。これはかなり割り引く必要があるだろうな。コンディションの面以外にも、ペースメーカーを用意していないんじゃ)
勝負度外視でライバル馬を潰しに行ったり、道中スムーズに走れるようエスコートしたりと。
欧州競馬は同一厩舎や同一オーナーの馬をサポートするために「ラビット」と称される馬の出走が許されている。
慣れない環境に加え、個々で戦う日本馬は、チーム戦を仕掛けてくる欧州勢に対して、最初から相当のハンデキャップを背負っているといっていい。
勝てる方が異常。欧州調教馬以外勝てなくて当たり前のレース。
――それでもディープならきっと……
日本中の期待を一身に背負い。
無敗の三冠馬ディープインパクトは、デビューから手綱を取る滝豊と共に、本馬場へと移動した。
日本馬初の凱旋門賞制覇へ――
ロンシャン競馬場に集まった日本人、さらには遠い日本の地で画面越しから声援を送る大勢のファンが、祈るような思いで全8頭の枠入りを見つめる。
最後にディープインパクトが2番ゲートに収まり、運命のゲートが開いた。
あまりスタートが良くないディープインパクトであるが、今日は良すぎるくらいのスタートを見せ、押し出されるように2番手に立ってしまう。
いつもより前の位置取り。自然と先行する形になったことにジャンは不安がよぎる。
「毎年スローペースになるレースだとわかっていながら、なぜあらかじめラビットを用意しなかったんだ!」
過去2番目に少ない8頭立て。遅い流れになると予想されていた。
どの馬にも余力があるスローペースにしてしまうと、実力が劣る馬でも瞬発力にさえ秀でていれば勝てる可能性が出てくる。
それとは逆に、全体の流れが速くなれば、力のない馬から脱落していき、スピードと底力がある馬が勝つ実力通りの決着になる。
一番強い馬が勝つ展開にするために。
勝ち目の薄い馬にペースメーカーをやらせて、有力馬が力を発揮しやすい状況を作り出す。それがラビットの役目だ。
(もしディープインパクトが欧州所属馬なら、確実にラビットが逃げてペースを上げていただろうに……)
先行策を取ったことは許容できても、例年どおり超スローペースからのロングスパート決着は、ディープインパクト陣営にとって決して歓迎できる展開などではない。
エルコンドルパサーのフランス遠征の経験をもとに、万全の体制で臨んだはずの凱旋門賞が。
ペースメーカー不在による影響がここにきて露呈し始めていた。
国内では経験したことのない遅いペースに飲まれ、早めの競馬になってしまったディープインパクト。鞍上の滝豊が、持ったままハナに行こうとするのをなだめながら、何とか2番手で我慢させる。
外から上がってきたアイリッシュウェルズを先に行かして、ラチ沿い2番手を進むディープインパクトに。
すぐ後ろ3番手につけていたシロッコが向正面上り坂の終わりでスッと横に並ぶ。
シロッコが上がってくるや、豊は外めに持ち出そうと、ディープインパクトの手綱を引く。
「付け焼刃。先行は信用できないと騎手が言ってるようなものだ」
先行策に慣れている馬ならば内で動かずにいる場面だ。
タイトな競馬を避けたことで、ディープインパクトが馬込みでは力が発揮できないという自信のなさが表れていた。
一度下げて外めにつけようとする動きに対して。
ディープインパクトはリズムが崩れかけるも、シロッコと入れ替わるように、外めの3番手の位置を確保した。
(あれが最後の最後で響かなきゃいいが)
好位抜け出しが必勝パターンの凱旋門賞では、直線を向いた時に前目の位置にいなれば届かない。フォルスストレートが終わる4角カーブまでに前に取りつく必要がある。
直線一気をやろうものなら「ダンシングブレーヴにでも乗っているつもりなのか」と、皮肉を言われるだけだ。
有力馬が控えたため先行した騎手の判断が間違っていたとは一概には言い切れない。
最初からのびのび走れる好位の外を進むつもりだったのならプラン通りのレース運び。
窮屈な内を嫌い、外めに出すタイミングがあそこだっただけだ。
枠順はレース結果を左右する非常に重要な要素の一つで、有利に働くこともあれば不利に働くこともある。
逃げや先行する馬に有利なはずの内枠が、好位外めを追走したかったディープインパクトに不利に働いたにすぎない。
道中、走りが多少乱れる場面こそあったが、全体的には折り合いはまずまず。
第3コーナーを回りながら坂を下りきり、カーブの後半250mほどあるフォルスストレートに入ると、
ディープインパクトは手応え十分で脚を伸ばし、すでに手が動いている内のハリケーンランとは対照的に、馬なりのまま外から前2頭に並びかけにいく。
533mの直線入り口――
ディープインパクトは依然持ったまま。持ったままで残り350。
仕掛けを我慢していた豊がここで追い出しにかかり、ディープインパクトが先頭に立つ。
「これは! いけるか!?」
完全にディープインパクトの勝ちパターン。
いつもの形で抜け出しをはかり、半馬身までその差を広げると、場内のボルテージが最高潮に達する。
後は爆発的な末脚で突き放すだけだったが……。
日本で見せていた、飛んでいるような走りが見られない。もうひと伸びがなかった。
距離にしておよそ200m。
凱旋門賞制覇へ、あともうわずかというところで。
スタート直後からディープインパクトをずっとマークしていたレイルリンクが背後から襲い掛かってくる。
(ここまでか……)
後ろで脚を溜めていたレイルリンクと激しい叩き合い。
いったんは差し返し、残り100m地点まで食い下がったディープインパクトだったが、ゴール直前で力尽き、最後は後ろからきたプライドにも差され、勝ち馬からクビ、半馬身差の3着に終わった。
――ディープをもってしても勝てなかった。
大歓声が一瞬にして悲鳴へと変わり。
日本人観光客で埋め尽くされたロンシャン競馬場が落胆の色に染まる。
「結果的に早仕掛けになってしまったな」
強い馬であるがゆえにマークされ、相手は標的と決めた馬の仕掛けに乗るだけですむ。
前に行った3馬はディープインパクトの末脚を警戒して早めに動き、豊はシロッコ、ハリケーンランの脚色を見て、2強を抑え込めると確信し追い出した。
それが結果として、後ろで脚を溜めることができた馬に向く流れになり、差し追い込み勢が上位を占める波乱の決着を生み出した。
「これも競馬だ。力負けしたわけじゃない。枠と展開がディープインパクトに味方しなかった」
気持ちを切り替えて。
ジャンはさばさばした様子で勝ち馬を見つめる。
(レイルリンクが勝ったことに驚きはない)
凱旋門賞と同距離同コースのGⅠパリ大賞典の勝ち馬。
3歳馬筆頭で。3強以外ではこの馬だと目されていた。
(驚くべき要素があるとすれば、レイルリンクが勝ったことではなく、その血統構成だ。明らかに過去の凱旋門賞勝ち馬の傾向とは異なっている)
父:ダンシリ(デインヒル系)、母父:シアトリカル(ヌレイエフ系)と。
スピードにスピードをかけ合わせる配合。
サドラーズウェルズのような重厚なスタミナに富んだ血にスピードを足すよりもさらに一歩踏み込んだ。よりスピードとキレを意識したものになっている。
「ハリケーンランではなくレイルリンク。潮目が変わってきているのか……?」
スタミナ本位の欧州競馬にもスピード化の波が押し寄せていることを、ジャンはこの時身をもって感じていた。
☆ ☆
凱旋門賞の結果を受け。
ジャンは配合計画の練り直しを迫られていた。
「父系か母系のどちらかでスピードを補うやり方では、時代に取り残されてしまう。高速化にも対応できるようスピードを前提とした配合にしなければ……」
ディープインパクトの血統表を穴があくほど見つめるジャン。
自身が所有するリファール持ちの牝馬とどう組み合わせるべきか、ベストな配合プランを考える。
「ただ単にディープインパクトにガリレオ肌を付けるだけじゃだめだ。リファールのクロスが発生してもこれ一つじゃ条件を満たしていない」
欧州と日本。最強クラスの馬の血をかけ合わせるベスト・トゥ・ベストで強い馬が生まれる可能性は十分ある。てっとり早く結果を出すにはこれが一番と言えよう。
だがジャンが作り出したいのは競馬史に名を残す唯一無二の競走馬だ。それこそダンシングブレーヴのような。緻密に計算された配合に優るものは存在しない。
(次世代のために。次の代でディープインパクトを付けることを考えて。リファールや他の優れた血を配置しておかないと)
ジャンは競馬強豪国以外の国にも触手を伸ばし。
リファール系、さらにはそこから派生した種牡馬をしらみつぶしに調べ上げていき、そこから最も適していると思われる一頭をついに探し当てた。
「いける。いけるぞこれは! 追い求めていたものに手が届くかもしれない!」
リファールとヘイローのクロスが使える種牡馬が、ディープインパクトと同じ日本に存在するとわかり、ジャンは飛び上がって喜んだ。
モニターに浮かぶ、
父:ダンシングブレーヴ
母:グッバイヘイロー
の文字を眺めながら――
ダンシングブレーヴに囚われてしまった夢追い人は日本へ渡る一大決心をした。
12年後。
キングヘイローを父に持つデュアルホールダーが第3仔となる父ディープインパクトの牡馬を出産。
「ヘイローの3×4」「リファールの4×4×5」「ノーザンダンサーの5×5」の多重クロスを持つ――ジャンの競馬人生のすべてを賭けた集大成ともいえる競走馬は。
2012- 13シーズン、
憎たらしいほどの強さでドイツ勢初のトレブルを達成したサッカークラブ「FCバイエルン・ミュンヘン」を率いた名将に敬意を表してこう命名された。
――ハインケスと。
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