第27話 ようこそしがらきへ
「あんちきしょめええええ」
大衆の面前で大恥をかかされたと、航は荒れに荒れる。
公開調教で見どころのある走りをして、各所に取り上げてもらうつもりが、別の意味で有名になってしまった。
それもこれも全部ハヤテのせいだ。
「次会ったら、ただじゃおかねえからな」
一服盛ったドゥラメンテ産駒への復讐を固く誓う航。
空港牧場に戻ってからも、その怒りはおさまらず、毎日ヤケ食いとふて寝で気を紛らわせていた。
「食い過ぎだ。まったく何やってんだ、明日には出立だってのに……」
千場スタッドに一時里帰りしていた八肋が呆れたように言う。
「え? 出立? ええーー!?」
そんなの初耳だと、航はバクバク食べていた敷き藁を口から全部吐き出した。
「トレーニングセールはもう終わったんだ。いつまでもここにいられるわけねーだろ」
「……」
よりにもよって正巳の目の前で失態を演じてしまったために。
サウザー追放の文字が頭に浮かぶ。
「終わっちまったことを、うじうじ言ったところでなんの得にもなりゃしねえ。悔しかったら見返すこった」
結局あの後、サンリヨンの2018はまたしても主取り。
対するメタスの2018はフォースヒルズが1億を超える過去最高額で落札した。
「サウザーが所有する話は流れちまったが、お情けで外厩を使わせてもらえるんだ。それでよしとしようや」
「じゃあまだ完全には見捨てられてないって考えていいんですよね」
航はひとまずほっと胸を撫で下ろした。
「おやっさんの話によると、公開調教のダメージがないなら、すぐにでも栗東トレーニングセンター
「今、松岡幹久って言いました? ミッキー? 松岡ミッキー!?」
牝馬、逃げ先行と言えばこの人。
キョウエイマーチでお馴染みの松岡幹久の名前が出て。
騎手時代の活躍をよく知る航のテンションが上がる。
「ミッキーが調教師やってるんだもんな……。そっかぁ。ミッキーがんばってるんだな」
松岡厩舎所属とは色々と感慨深い。
「あ、それならもう競走馬名決まってるんじゃないです?」
競走馬の名前には、名付け親である馬主の「こんな馬になってほしい」という想いや願いが込められている。
カッコいい馬名から語感の良い馬名、ユニークな珍名までさまざまあるが、不思議なことに、ふざけた名前の競走馬がGⅠウィナーになったりはしない。
クソ漏らしの汚名を被ってしまったが、腐っても自分は千場スタッドの看板肌馬サンリヨンの息子だ。さぞかしとっておきの名前をつけてくれたに違いない。
と、そう信じていたのに――
「ドングラスだとよ」
「ドン・グラス……」
おやっさんが命名した馬名発表を受けて。
「なんです、そのヒールレスラーみたいな名前」
「シンプルで覚えやすいのがいいってんで、どんべえの『ドン』と、グラスワンダーの『グラス』をかけたらしいぜ」
「もっといいのあるでしょう! 安直すぎだって! 誰も反対しなかったんです?!」
「大正義サウザーに鉄槌をくだす悪役馬だって、みんなこぞってノリノリだったぞ」
「ええ……」
恩を仇で返す気満々の千場スタッドのスタッフたちに、航は引いてしまう。
「本気かよ……。こういうのって血統背景をセンスよく絡めてさあ……」
航は頭を抱える。
これは思っていたのとだいぶ違うと。
「何言ってんだ。おめえの注文どおりに。おやっさん、いい仕事してるぜ?」
「どこがです!」
ならばと八肋がモーリスの血統表を突きつけて、
「ダイナアクトレス(女優)、ランニングヒロイン(女主人公)、スクリーンヒーロー(俳優)、ドングラス(悪役レスラー)と役者繋がりになってるじゃねーか」
「……んなアホな」
ここまで一分の隙もないと反論の余地もない。
航は観念したように天を仰ぎながら、しょっぱい涙を流した。
翌明朝。
苦楽を共にしてきた八肋に見送られながら、ドングラス号を乗せた馬運車が、競走生活を送ることとなる滋賀県栗東トレーニングセンターへと出発した。
☆ ☆
松岡厩舎に入厩してから6日。
7月デビューを目標に、早くも栗東・ダートEコースでゲート試験を受けているドングラス号の姿があった。
発走調教審査は枠入りから発進までを2回。
発走役が枠入り、駐立、発進、加速の4項目について審査し、競走馬としてレースに出しても問題ないか合否を判断する。
2コーナーポケットに設置されたゲート付近で鞍上からの指示をじっと待つ航。
なぜなら「騎乗者の扶助」によって――
スムーズにゲートに入れることができるか、
狭いゲート内でも暴れず静止していることができるか、
そしてゲートが開いたら、すみやかにゲートを出て、加速と。
これら一連のスタート動作を厳しく審査されるため、航が自分からゲートに入って発馬してしまっては、スタートがどれだけ素晴らしかろうが合格にならない。
実際のレースと同じく、整馬係に引かれてゲートインすると、ゲート裏の係員の手によって後扉が閉められる。
(一発で受かって、過保護なミッキーを安心させてやらないとな)
芝2400mの世界レコードを持つ最強牝馬さえ同期にいなければ、幹久の管理馬がクラシックを手にしていただけに。
誰を乗せても折り合い良くまっすぐ走る航は、夢の続き見せてくれる宝物のような存在。幹久がつきっきりになるのは仕方ないと言えた。
すんなり3番ゲートに入った航は、隣でそわそわしている2歳馬の影響を受けることもなく、実に落ち着いた様子で駐立する。
スターターが後扉が全て閉まったことと前に人がいないことを確認し、発馬機を操作すると、1~4枠の試験用の前扉が同時に開いた。
ゲートが開いた瞬間――
航はわざと軽めにスタートする。
ゲート試験1本目は「ゲートへの寄り付きと駐立」に重点が置かれるため、鞍上の指示通り発馬を決めて馬なりでさっと流す程度に控えた。
続いて2本目。
スタート練習はマルシェと腐るほどやって、もはや体に染みついている。
扉が開くや、1本目以上にすばやく反応して、飛び出すようにゲートを出る航。
老練かつ力強い脚さばきでスタートダッシュを決め、一瞬のうちにパートナーを置き去りにした。
「あれは走るぞ」
ゲート試験の合格率は8割近いが。
同じ試験を突破した馬でも、その内容には雲泥の差がある。
立ち止まった状態から、しっかり踏み込み、スムーズに加速したドングラス号を間近に見て。
栗東トレセンの職員が誰ともなく呟いた。
☆ ☆
翌週。
栗東ではドングラスを含む2歳馬50頭がゲート試験に合格。デビューへの第一関門をみごと突破した。
ドングラス号の今後については。
サウザーファームとの話し合いの結果、ゲート試験合格後は、一旦放牧に出して乗り込みを進めることとなった。
調教師である幹久にしてみれば、このまま在厩調整でデビューを目指したいところだったが、サウザーの方針に逆らうわけにはいかない。
溺愛する管理馬が乗る馬運車に同乗すると、栗東トレセンから25kmほど離れたサウザーファームしがらきへ車を走らせた。
陶芸とたぬきの町として知られている信楽町。
町の中心部から馬運車で約20分。のどかな田園風景が広がる山あいを進んでいくと、トレセンに勝るとも劣らない調教コースが見えてくる。
2010年開場以来、オルフェーヴルやジェンティルドンナなど数多くの有力馬が、レース間の調整場所として利用してきたサウザーファーム西の拠点、サウザーファームしがらき。
サウザーの躍進を支える日本トップクラスの外厩で、航はデビュー戦に向けた調整を行うことになった。
15- 15をまっすぐ走らせて。
調教で引っかかるようなら、じっくり乗ってくれと。
幹久は調教主任に細かくリクエストを伝えると、ドングラスを担当する厩舎スタッフ一人一人に頭を下げて回った。
外厩は調教師を補佐する立場で、鍛えることよりも、レース後のリフレッシュに重点を置き、トレーニングに耐えられる状態にして栗東に送り届けるスタンスのしがらきと、
美浦トレセンでは設備面で栗東トレセンに劣るために、外厩主体で馬を仕上げるスタンスの天栄。
同じ社内であっても、両者はライバル関係。
「天栄に勝ちたい」
「しがらきの馬にだけは負けたくない」
そう互いが互いに対抗意識を燃やしている。
「いっぱい食べていっぱい寝て。体調を崩さないようにな」
およそ一ヶ月間。愛馬と離れ離れになることに、幹久は心配しきり。
別れを惜しみながら航の首筋をなでると、後ろ髪を引かれる思いで、自分の仕事場へ帰っていった。
ドングラスの引き渡しが無事済み。
さっそく航はスクーリングをかねて主な調教施設に向かう。
「あっ! おウマさん、新しいおウマさんだ~~」
厩舎周りの下見の途中に。
ふいに黄色い声があがり、女児がパタパタと駆け寄ってくる。
「おウマさん。お名前なんていうの?」
「ドングラスだよ智代ちゃん」
仕事仲間の娘から尋ねられて、担当スタッフは手綱を持ったままにっこり答えた。
「ドン? ドング……? ぐらちゃん! ぐらちゃんだ!」
と、うれしそうに飛び跳ねる智代。
(微笑ましいなぁ)
小さい子供から好意を向けられると、自然と胸が暖かくなり、こちらも好意で返したくなってくる。
航はおもむろに頭を下げ、智代と目線の高さを合わせた。
「触ってもいいみたいだよ。よかったね」
「ほんとーーっ!?」
目をいっぱいに見開き、智代は声を弾ませる。
しばしの間、智代を背中に乗せたりして遊んでやった後は下見を再開。
まずは厩舎近くにある、一度に8頭が使用可能な馬用ウォーキングマシンを見て。
それから角馬場へ。
空港牧場滞在中、いつも準備運動のために使っていた場所も、周りにいるのが育成馬から現役馬に変わっただけで、景色が全く違って見える。
初めて目にする施設に、胸をときめかせながら、ゆったりと砂馬場を歩いていると、軽めの調整を行っていた栗毛馬がこちらに気づき。
「お~~いこっちや! こっちきいや!!」
「……」
公開調教であんなことがあったばかりだというのに。
航は不信感マックスで無遠慮にかけられた声を無視する。
すると、シカトされていることなど気に留めず、相手の方から小走りで近づいてきた。
「なんや遅かったやないかい? え? ドングラス」
「!? なんで……名前……」
馴れ馴れしさ以上に、関西弁をしゃべるこの栗毛の牡馬が自分のことを知っていることに、航は大変驚く。
「そんくらいのことは調べるで。あんさんはごっつ大事な仲間なんやから」
当然航には仲間呼ばわりされる理由などない。
共通点があったとしても同じ栗毛というくらいだ。
「モーリス産駒やろ?」
「そう、だけど……」
航が言うと、栗毛馬は口元を綻ばせた。
モーリス産駒だからどうだと言うのだ。
ちらりと相手の様子を見ると目が合った。
淀みのない瞳。一本筋の通った性格なのが垣間見える。
「ブエナベントゥーヤや。よろしゅうたのむで」
航の思考を遮って。
サウザーファームの期待の新星が自らの正体を明かした。
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