第25話 明日に向かって
夜。屈辱的な敗戦を受けて。
「どんべえ。大事な話がある」
意気消沈中の航と向かい合うと、八肋は慎重に言葉を選びながら語りかける。
「いまさらこんなこと、俺が言わなくてもわかってるだろうが、現段階ではクラシックは厳しいと言わざるを得ねえ」
「……」
航にとって初めての挫折。
模擬レースをしてみて、サウザーのクラシック候補との実力差が浮き彫りになってしまった。
「俺は――どうしたら……」
航がすがるような目で八肋を見つめる。
「考えられる方法は二つ。一つは脚質など諸々無視してでも、キレ味勝負の展開にならないように自分でペースを作る。もう一つは時計のかかる傾向のレースを選んで走る。瞬時にスピードのギアを上げる競馬はお前には向いてない」
航のように一瞬の脚に欠ける馬がスローからのヨーイドンの競馬に付き合っていては万に一つも勝ち目はない。
「度重なる馬場改良によってスピードに偏った競走馬が台頭する時代になった。高速馬場化の恩恵を最も受けたのは、ディープインパクト産駒ではなくキングカメハメハ産駒だ。シャルルやヴィエリだけだと思っていたら痛い目に遭うぜ」
航を負かす可能性のある馬は他にもたくさんいると。
現状を正しく認識させてから本題に入った。
「コーナーや急坂でもスピードが落ちないのが、お前のセールスポイントだ。ことこれに関しては他のやつらに比べて群を抜いている。だからそれを最大限に活かせる中山阪神コースに絞って対策を講じなきゃ、クラシックは夢のまた夢だ」
「でもそれは……」
八肋の言っていることは至極正論だが、そうなると中山、東京、京都競馬場で行われるクラシック競走のうち、該当するレースは中山開催の皐月賞だけとなる。
ダービー、菊花賞を捨てろと言われて、「はいわかりました」とは、とてもじゃないが言えなかった。
「ところがそうでもねえんだ」
ことありげに、八肋が口角を吊り上げる。
「2020年11月から2023年3月末まで京都競馬場は改築のために開催が休止。この間、春の天皇賞や菊花賞は阪神競馬場で行われることになる。つまり、お前がクラシックを走る2021年の菊花賞は阪神開催なんだ」
さらにつけ加えるなら、2022年の古馬王道路線も秋の天皇賞とジャパンカップを除けばGⅠは中山と阪神に集中している。
八肋の提案は航に希望を与えるものであると同時に、ダービーを目指した馬づくりを否定するものでもあった。
「今のストライドの大きい走り方をやめ。スタートから前に行って粘る競馬をした方がいい結果が出るだろうよ」
「俺に、小回りコースに特化した馬になれって、そう言いたいんですか? 師匠は」
航が怒りで震えた声で問いかける。
「――そうだ。お前はディープインパクトじゃない。ディープのように走ったところで条件戦でくすぶるのが関の山だ」
「そんなの! やってみなくちゃ――」
「シャルルと同じことをやって、やつに勝てると思っているのか? あの切り裂くような末脚をお前に出せるのか?」
「っ!」
八肋に言われずとも。
本当は自分自身が一番よくわかっていた。あんな上がりの脚を使われたら、自分ではどうにもならないと。
「美浦の名伯楽・
3歳春までがピークだと根強く言われているディープインパクト産駒だが。
無理に春のクラシックに合わせる必要のない牝馬や、遅咲きの牡馬は古馬になってからも問題なく活躍している。
「シャルルが故障や使い詰めと無縁ならば、ずっとついてくる問題だ。だからよく考えろ。トレセン入厩前に、自分の強みと弱みを知れたことは、むしろ幸運なことなんだから」
「……少し考える時間をください」
そう言葉短めに返し、航は厩舎を出て行った。
☆ ☆
ディープインパクトに憧れ、
ディープインパクトのようになりたいと思っていた。
でも現実は残酷で。
先行してしぶとく粘るのが自分の勝ち筋。
華やかな競馬をしていたディープとは似ても似つかない、泥臭く勝ちを拾いにいく競馬をやるしか道はなかった。
「お前はディープインパクトじゃない。か……」
八肋にきっぱり言われたのを思い出すと、身が引き裂かれそうになる。
「なんで、なんでシャルルで俺じゃないんだよ!」
誰よりもディープインパクトに思い入れがあるというのに。
その血は流れておらず、夢を見ることすらも奪われてしまった。
諦めたくても諦めきれない。
そんなどうしようもない気持ちを抱えた航の背後から脚音が近づいてくる。
「!? お前はたしか……」
航は何事かと眉を寄せる。
サンデーサイレンスを彷彿とさせる黒く煌めく馬体。
月明りで浮かび上がった漆黒の毛並みは光彩を帯び、神秘的にすら見えた。
「あはは、そりゃあそういう反応になるよね」
依然として警戒の目を向けてくる航に、ぎこちなく笑い。
やがて意を決したように口を開くと。
「その――昼間は本当にごめんなさい!」
模擬レースでスタートを妨害したマンハッタンカフェ産駒の青鹿毛馬『
「ああ、あれ。別に気にしてないから大丈夫だ」
「怒らないのかい? 君にひどいことしたのに」
「大方ヴィエリに脅されたんだろ? それに、あいつがあんな過激な行動に出たのは、元はと言えば俺のせいだし」
と、あっさり言って、景虎が負い目を感じないようにする。
「本当はレースの後すぐに謝りたかったんだけど。話せそうな雰囲気じゃなかったから……」
「……」
シャルルに負けたことが、未だ尾を引いている航。
話を蒸し返される形になり、再び暗い気持ちになってしまう。
「ショックじゃないのか? あそこまでこてんぱんにやられて」
航の問いかけに、少し驚いたような様子の景虎だったが。
一拍置いて、
「悔しいさ。悔しいけど――」
景虎は揺らぐことない信念を持ってこう答えた。
「勝負はあの一回だけじゃない。たとえ今日がダメでも。負け続けたって。やり返す機会はいくらでもある」
「どうして……そこまで前向きなことが言えるんだ」
今までやってきたことを否定され。
心の支えを失ってしまった航にはもう何もかも信じられない。
「それは知っているからさ。もう終わった馬だって周囲に言われても、それらすべて覆せると、兄さんが証明してみせた」
尊敬する兄の背中を追いかける弟。
兄のようになりたいと無邪気に語る景虎を、航は直視することができなかった。
「お前は兄貴とは違う。同じになんてなれっこないんだよ! どれだけ望んでも!」
言わなくても言いことだとわかっているのに、言葉がとめどなく溢れてしまう。
「俺だってディープのようになりたかった。なれるもんならな! でも無理なんだ。無理なんだよォォォ」
恥も外聞もなく。
航は胸の内にしまっていたわだかまりを景虎にぶつける。
「……君の言うように、兄さんは兄さん。僕は僕だ」
同一の血を持つ全兄弟だろうと、性格や適性は違って当然。同じ競争能力を持っているわけではない。
「だけど――最後まで気高く、不屈の闘志でターフを駆け抜けた兄さんの生き方を見て、同じ道を歩むと決めたのは他の誰でもない、僕の意志だ」
あどけなさが残る愛嬌ある顔が凛としたものに変わり。
越後の龍・長尾景虎にあやかり、景虎と名付けられた同馬はなおもこう続けた。
「兄さんが命をかけて伝えてくれたことを僕は忘れない。痛みも苦しみも悲しみも、全部背負って走ってみせる」
脚元があまり強くなく、常に怪我との戦いだった馬生。
それに比べたら、一度や二度の挫折なんて、ちっぽけなものだと。
景虎は天を見上げ、誓いを立てるように高らかに謳う。
「こんなことくらいでへこたれていたんじゃ、兄さんに笑われちゃうよ」
「……」
凱旋門賞3着入線後、禁止薬物が検出され、失格処分となったディープインパクト。
帰国後は薬がなけれ勝てないことを否定するために治療行為を一切せず。
国内復帰戦として挑んだジャパンカップでは、日本中から疑惑の目が向けられる中、国内で唯一先着を許したハーツクライにリベンジを果たし、
ラストランとなった有馬記念も、直線半ばで先頭に立つと、最後は流しながら3馬身差の圧勝。
種牡馬入りしてからも、13年連続でリーディングサイヤーとなった父サンデーサイレンスに肉迫する金字塔を打ち立て、ディープインパクトの競走成績はドーピングによるものだという声を結果で黙らせた。
地に落ちた英雄は憂き目を見ようとも、自らの力で自身の名誉を守ったのだ。
(そうだ……忘れていた……。ディープだって決して楽な戦いばかりじゃなかった。俺がディープインパクトにこだわる理由、それは――)
常勝という重荷を背負いながら、逆境を跳ね返し続ける姿に。
勝ち負けを超えた走りに胸を打たれたからだ。
ディープのようになりたいのに、ベストを尽くさずしてどうするのか?
「俺すんげえかっこ悪いな。何も見えていなかった」
自分の追い求める理想像が間違っていたことにようやく気がついた航。
それならまだ自分にやれることは残っている。また立ち上がれる。
すべては勝つために――
航は新たな可能性を求めて、ストライド走法からピッチ走法へとフォームの改造を受け入れた。
☆ ☆
翌日から。
打倒シャルルを掲げ、ピッチ走法習得の特訓が始まった。
「頭は高く、前脚で地面を掻き込むようにして走るんだ!」
指南役のマルシェの走りを、航は見よう見まねで体を動かす。
だが、ローマは一日にして成らず。
これまでやっていた頭の位置を低くして、四肢を目いっぱいに伸ばすストライド走法とは大きく異なり、なかなか思うようにいかない。
「ピッチ走法は回転の速さが命。極めれば、完歩を小さくせずとも、大股で回転の速い走りだってできる。こんな風にな!」
言うや。
マルシェが首をグイグイと下げ、地を這うようなフォームで加速してみせる。
(すごい……それにタイキブリザードみたいで、むちゃくちゃかっこいい!!)
頭を低く低く沈み込ませるようにして。
しなやかに首を使い、ストライドを広めに取ることで、加速と速度の維持を両立させていた。
控えめに見ても、スパート時にこの走りをやられたら、いかに末脚自慢だろうと、そうやすやすとはいかない。
跳びが大きな馬が有利なコースでも、対等に渡り合えると、航は確信を持つ。
「まずはリズムを徹底的に体に叩き込め。基本ができているなら、後で色々応用が利く」
「今からやって、デビューまでには間に合いそうですか?」
「なに、半年もやってれば嫌でも覚える」
それを聞き、安堵する航。
「まさか調教相手役として借り出されることになるとはな……」
「迷惑、でしたか?」
「使えるものは使っておけ。現役なんて終わってみればあっという間なんだからよ。それよりも――」
と、マルシェは一度崩した表情を引き締め直し。
「長めのコース追い主体に切り替えたのは、どういう了見だろうな?」
航だけ調教パターンが大きく変わったことに言及する。
「あの厩舎長のこった。どんべえの特性を見抜いたのかもしれねえな」
八肋が睨んだ通り、模擬レースの結果を踏まえて、哲弥はすぐに調教メニューの変更を指示していた。
エイシンフラッシュに代表されるように、キレる脚を使える馬というのは、得てして使える脚が短く、反対に一瞬の脚が使えない馬は長くいい脚が使える。
キレて長くいい脚を使える馬はほぼないに等しい。たいていどちらかに該当する。
模擬レースでは。
スローで脚が溜まる展開であったにもかかわらず、短い最後の直線でいとも簡単に交わされてしまった。
航に余力が十分残っていた以上、
これはバテたのではなく、シャルルに「キレ負け」したと表現するのが正しい。
このことから、哲弥はサンリヨンの2018は持続的な脚が使えるロングスパートタイプだと類推。
キレへの対応は古馬になってからだと割り切り、
筋持久力と心肺機能の向上および基礎スピードの底上げを最優先事項にした。
「長所をとことん伸ばして、どこかで一発って寸法か」
「嵌まればえれえ強えが、展開が向かなきゃ、格下相手でもあっさり負けちまう、予想屋泣かせの穴馬になりそうだな、こりゃあ」
ピンかパーか。
それでこそロベルト持ちらしいと、両者は大いに納得した。
「どんべえ、これは好位イン溜めから抜け出して勝つ現代競馬に対する挑戦だぜ」
航が勝とうとしたら、サンデー登場以前のキレよりもスタミナと底力で押し切る競馬をするしかない。
さながらお前は「メジロの亡霊」だと。
八肋が皮肉っぽく笑う。
JRAが推し進める安全で走りやすい馬場づくり。
その副産物こそ馬場の高速化であり、
とりわけ、クッション性に優れ、従来の芝よりもほふく茎の密度が高いエクイターフ導入後から、年々ハイペース耐性のないスタミナに乏しい馬の活躍が目立つようになってきた。
これはグリップがよく効く時計の出る馬場では、タフさを求める必要がなく、そのためスピードに特化した馬づくりに拍車がかかったためだと考えられる。
天皇賞(春)が現役最強馬決定戦だったのは過去のこと。
長距離軽視の風潮でステイヤーの価値は低下する一方。
豊富なスタミナが売りの種牡馬はことごとく敬遠され、
メルボルンカップを優勝した菊花賞馬デルタブルースにいたっては、種牡馬になることすら許されず、ダンスインザダークのサイアーラインは途絶えた。
航の中には――
時代に必要ないと打ち捨てられた馬たちの血が、
スタミナ血統に重きを置き続けた生産者の想いが脈々と流れている。
――彼らの無念を晴らすために。
――自分に期待をかけてくれる人達のために。
――そしてなにより、母との約束を果たすために。
デビューを控えたサンリヨンの2018は、ここサウザーファーム空港の地にて、静かにその時を待つ。
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