第21話 なかよくけんかしな
「そこまでしますか~~」
無意識にため息のような声が漏れ出る。
クラブ法人だと、なるたけ平等に出資者に稼がせようと配慮したり、場合によっては、繁殖入りした際の評価を下げないように馬柱を気にする必要が出てくる。
が、そのような事情とは無縁の航は、身の丈に合わなかろうともタイトルを狙いにいく。
一見理不尽に思えることも、裏を返せば、それだけサウザーも危機感を持っているということなのだろう。
「ディープ、キンカメがいなくなり、18歳のハーツクライも種牡馬引退が近い。セールで億越えを連発してた種牡馬の産駒が、数年後には全部姿を消すんだ。それまでに新たな生産体制を作らないと、売上総額が急落し、経営に深刻な影響を与えることになる」
「だからどうしてもモーリスを次世代の種牡馬として売っていきたいってことか……」
「新種牡馬に力を入れるのは毎年のことだ。問題は繁殖の質も数も落ちる3年目と4年目。そこから持ち直せるかどうかは、初年度産駒の活躍にかかっていると言っても過言じゃねえ」
八肋が種牡馬の生き残り競争の厳しさを語る。
これは思ってた以上に責任重大だ。
「人材、設備、血統のどれか一つでも更新が滞れば、サウザーだろうが落ちぶれるのは歴史が証明している」
シンボリ牧場とメジロ牧場の共同所有馬モガミ。
血が汚れるとまで忌み嫌われたリファール系の種牡馬は、直系でこそシリウスシンボリ、メジロラモーヌ、レガシーワールドと活躍馬を送り出したが、孫世代ではパッとせず、モガミの肌馬を大量に抱えた両牧場を資金難に追い込んだ。
若かりし頃、雲の上の存在だった牧場の繁栄と凋落をその目で見てきたからこそ、正巳は非情と言われようとも、冷徹な経営判断を下してきたのだ。
「とりあえずノルマはダービー出走。そこで見せ場があればってところだな」
「所詮は都合よく動かせる駒。駄目ならすっぱり切り捨てられるのを覚悟しとかないといけませんね」
「どうだろうな。少なくともあの厩舎長は、目先のことじゃなく、お前の将来を考えてるように見えるぜ」
坂路でのスピード調教を重要視するサウザーにしては進みが遅い。
6月デビューに合わせて早く仕上げるより、周回コースを長めやって、かなり慎重に調教を進めているのも、ひとえに哲弥の温情。
坂路ばかりでは体質が弱くなり、折り合いをつける練習にならないためだ。
この調教の目的は何なのか。
きちんと鞍上の意図するところを理解して走っているのか。
ただ指示に従うだけであった航は、自らの行動を振り返り恥ずかしくなった。
☆ ☆
調教終わりの帰り道。
今自分がどの段階にいるのか。
航がダメ元でサウザーの育成スケジュールを八肋に訊いたところ、
「周回コースで基礎体力をつけた後は坂路入りして。
年内に坂路でハロン15秒の時計を出す。
それから成長を促すために一時休みを挟んでから、デビューに向けて調教を再開」
と、拍子抜けするほど簡単に答えが返ってきた。
どうやら育成期にしっかり負荷をかけておくことで、その馬が持つポテンシャルをより引き出せると認められたため、年末までに屋内坂路で安定したタイムを出すというのが現在一般的な目標になっている。
つまりそれだけどこも育成レベルが上がっているということだ。
(こりゃ俺もうかうかしてられねえな)
日高育成牧場にいるやっちんやギンナンも今頃トレーニングに汗を流しているだろう。
サウザーであぐらをかいていたと笑われないようにしなければ。
今一度気を引き締める航。
――そこへ馬の集団が音もなく現れた。
「ヴ、ヴィエリ!?」
集団中央にいる、周りよりも大きな存在に嫌でも目がいく。
今日に限ってどういうわけか手下みたいなのを引き連れやって来たヴィエリ。
あちらさんの考えが読めず急に不安になる。
「……」
胃が痛くなるような状態が数秒続いて。
ヴィエリが満を持して指令を下す。
「やれぇええ!!!」
航はその身を翻し、一目散に走って逃げた。
遅れて育成馬たちが航を捕まえようと動き出す。
「おらッ! さっさと追い込め!」
「ひ、卑怯だぞ!」
「減らず口を。毎度毎度、ちんけなコースに逃げるてめえがどの口で言ってやがる」
もう幾度となく繰り返したやり取りも、今度ばかりは多勢に無勢。このまま逃げ切れるかどうか微妙なところだ。
(調教終わりなせいか、ついてくるのがやっとってとこか。これなら撒けるか……?)
後続の様子を気にする程度は余裕がある航。
一頭抜け出し、何の疑問も持つことなくいつものコースに進路を取る。
すると向かった先で。
新たな馬の集団が、屋内400m周回コースへの進路を妨害するように出現した。
「なっ!? そんなのありかよ……っ」
ヴィエリの配下だと気づき、すぐに方向転換。
追いかけてくる集団から必死で逃げる。
「今日と言う今日は覚悟しやがれえええ!!」
年貢の納め時だと、ヴィエリが邪悪に笑う。
「やばいやばいやばいやばい」
後ろから横から追われ、身動きが取れない。
あらかじめ用意された行き先に誘導されているのは火を見るより明らかであった。
「やばい。やばいですってこれ!」
「諦めろ。そのまま坂路へゴーだ」
「坂路!?」
航は目を大きく見開いた。
坂路入りすらまだの自分が、傾斜のある長い走路でヴィエリとやり合うなんて、そんな話聞いてない。いくらなんでも無茶苦茶だ。
「ほら悩んでる暇はねえぞ。このままやつにボコボコにされたいのなら別だがな」
「……」
肌が粟立つようなヴィエリの雄叫びが、広い空に響き渡る。
(座して死を待つくらいなら……)
選択の余地がないため、そう結論付ける。
どうしてこんなことになってしまったのか。
航は気持ちの整理がつかないまま地を蹴って、
「ちっくしょおおおおおおおおおおおおお」
荒ぶる感情をまき散らしながら、巨大な屋内施設へなだれ込んだ。
施設に駆け込むと、見たこともない長い坂道が航を出迎える。
いったいどこまで続いているのか。
ここからではゴール地点がどこにあるのか、皆目見当もつかない。
「高低差18m、全長900mの空港名物『長距離屋内坂路』だ」
「きゅ、900m……」
1km近くも延々と上り坂を走ると聞いて。
航は思わず無理無理と叫んでしまった。
「パリロンシャン競馬場で行われる凱旋門賞はスタートして400mは平坦だが、そこから3コーナーまでの600mで10mの勾配を駆け上がらねえといけねえんだぞ。このくれえで泣きを言ってどうすんだ?」
ディープの後を継ぎたければ、これくらいやってみせろ。
八肋の言うことももっともだった。
「何事もやってみなくちゃわからねえんだから、最初から出来ないと自分の可能性を否定するな。どんな時も挑戦することを恐れちゃダメだ」
競馬は勝った負けたが当たり前の世界。
だと言うのに、ふがいない結果に終われば、必ずと言ってよいほど心無いことを言う人間が現れる。
いちいち無責任な外野の声に反応して、影響を受けていたのでは、そこで進歩は止まってしまう。
「骨はちゃんと拾っておいてやる。いってこい!」
八肋が握りしめた拳に力を込める。
凱旋門賞を引き合いに出されては嫌でも気合いが入る。
航は大きく息を吸って吐き出すと、
「いきますっ!」
経験したことのない未知の領域へ足を踏み入れた。
坂路コースの路面にはクッション性の高いウッドチップが敷かれていて、芝とも砂とも違う、柔らかい感触が蹄を通して伝わってくる。
「思ってたほどじゃない……けど、走りづらいな」
クロスカントリーコースのようになっている不整地を、足下に注意しながら進む航。
周回コースで乗り込んできた甲斐あって、以前よりも力強さが増し、体のバランスが崩れることはない。
後躯を踏み込み、自分でバランスをとって、坂路をまっすぐ駆け上がる。
「体の浮き上がりを抑えるために、頭をしっかり下げて、体を前に伸ばせ。頭を上げた状態で走ると、後肢に負担がかかって怪我すんぞ」
脚部への負担が少なく、短時間で大きな運動負荷をかけることのできる坂路調教だが、傾斜がきつくなるほど平地を走行する時とは勝手が違ってくる。
「後肢の間隔を狭めて走ってみろ。そうすりゃ推進力が大きくなるから」
完歩が大きい、跳びが大きいと坂では不利になると指摘されて。
航は歩幅を調整し、走行フォームを上り坂に適したものに変えた。
「ストライド走法は坂のあるコースとは相性が悪いんだ」
「あれ? でもディープは超がつくほどのストライド走法なのに、特定の競馬場を苦にする様子もなく、ところかまわず走っていたような……」
「積んでるエンジンが違うなら、ピッチだのストライドだのこれっぽっちも気にする必要ねえよ」
強い馬は強いと八肋。
「だがな。ハイレベルなレース、実力が拮抗してる馬同士の戦いになると、適性の差が明暗を分けることになる」
競走馬にとって最も充実する4歳秋に。
前年テイエムオペラオーに引導を渡したジャングルポケットが、府中改修にともない中山開催となった第22回ジャパンカップで見せ場なく終わった過去の結果と照らし合わせると、ますます八肋の言葉に説得力が増す。
「初めて走る競馬場でも、馬場状態やコース形状を踏まえた上で、レース中、走りながら走法を変えることができりゃ言うことねえ」
エルコンドルパサーが欧州の馬場で調教を重ねるうちに、走りが現地の馬場に合ったものに変化していったというエピソートがある。
しかしこれは、フランスに長期滞在して、欧州仕様の肉体と走法を手に入れたのだ。
航には状況に応じて瞬時に走法を切り替えるなんて芸当ができる競走馬が存在するとは思えなかった。
「それがいたんだよ」
八肋がもったいぶった口ぶりで。
ディープインパクトとは別の――
日本の高速馬場、ロンシャンの不良馬場、
そのどちらにもアジャストした世界水準の走法があることを示唆した。
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