第5話 別れ
太田総帥が牧場訪問した日の夕方。
管理事務室にて、離乳の日取りを決めるための意見交換が行われていた。
「今日までに1.52kgの飼料を摂取。養分要求量を満たしています」
「母子間、仔馬同士の距離はどうだ?」
「個体間距離も安定しており、仔馬同士の群れで暮らしても問題ないと思われます」
担当スタッフの報告に耳を傾けるおやっさんの表情は真剣そのもの。
当歳馬の状態を一頭一頭ことこまかにチェックしていく。
「……よし。ではまず3月までに産まれた7頭のうち『ギンナン』『ねね』『やっちん』の3頭を母馬から離し、2週間後、残り4頭の母馬を別の放牧地に移動させる。わかったな?」
おやっさんは母馬がいなくなった仔馬のストレス軽減のため、2段階に分けて母馬と仔馬を引き離すようスタッフ達に指示する。
「それから久保田。どんべえの離乳時期について、お前の意見を聞きたい」
「例年通り、目安の半年でいいんじゃないでしょうか」
仔馬が母馬に甘えられるのは今だけだ。以降は強制的に自立させられ、それが母子の今生の別れとなる。どれだけ大人びて見えても仔馬は仔馬。予定よりも早く離乳させることに久保田は懸念を示した。
「どんべえには他の仔達にはない、期待させるだけの何かがある。だから、一日でも早くリーダーとしての自覚を――競走馬にとって必要なことを教えてやりたいんだ」
そこで一度言葉を切ると、おやっさんがほんの少しだけ口元を緩めた。
「たった一回の大敗だったり、何かの拍子で気持ちが切れてしまったりで、連勝を続けてきた馬が突然走らなくなってしまったのを俺はこれまで何度も見てきた。本当に強い馬ってのはどいつもハートが強い。それはもう恐ろしいくらいに」
「早生まれ組の群れの中で生活させてメンタル面を鍛える、そういうことですか?」
物怖じとは無縁の航ならば、周りを引っ張っていけるだろうという読み。
ようやく久保田は自分が思い違いをしていたことに気づく。
「俺達にはサウザーのような育成環境をどんべいに与えてやることはできん。なら、せめて気持ちの部分でだけは引けを取らないよう育ててやらないとな」
「おやっさん……」
厳しくも温かい牧場長の親心を感じ取ったスタッフの誰もが声を詰まらせる。
出来る限りのことをして航を育成牧場へ送り出そうと決めた今、時期尚早だと異を唱える者はいなかった。
☆ ☆
「それでその後は? 完全に出遅れたわけでしょ?」
「んー特になにも。『あー出遅れちゃったかー』なんて。我ながらほのぼのしてたわね」
「そこから直線一気かあ……」
サンリヨンのデビュー戦の話を夢中になって聞く航。
昨日の出来事などなかったかのように平穏な日常を取り戻していた。
「ねえ母さん、ごぼう抜きするのってどんな気分なの?」
「ガシガシ追われてつらいだけだったような」
「ははは母さんらしいや。でもそれで勝たれちゃ相手はたまったもんじゃないよ」
仲睦まじく寄り添う姿は親子にしか見えない。
サンリヨンの成績を知って以来、航の方から話しかけることが多くなり、抵抗なく母と呼べるまでになっていた。
初め頃にあったたどたどしさみたいなものは消え、もうすっかり打ち解け合っている。
「ぼくちゃんもスタートだけは失敗しないようにね。スプリントやマイル戦で出負けすると大きな不利になるから」
と、競馬場で走ることを夢見る息子にアドバイスを送っていたら、遠くから叫び散らすような馬の鳴き声が聞こえてきた。
(始まったか……)
時期的にそろそろと見越していた八肋が一早く反応する。
サンリヨンも何が起きているのか想像がついた。
「どうしたんだろう。こんな真昼間から。喧嘩かな……? ね? 母さん」
「……」
サンリヨンは返す言葉が見つからない。
思っていることが顔や態度に出ないよう必死で取り繕う。
「俺ちょっと見て来るよ」
「ぼくちゃんっ!?」
止めようとする母の声を振り切って、航は大きな音がした方向に駆けていく。
しばらくすると、視界の遥か向こうに人らしき影を発見。
いつもと違う時間にスタッフ達が放牧地に来ていることに嫌な胸騒ぎがする。
急ぎ目的の場所に到着し、鳴き声の正体を突き止めた瞬間、どこまでも体が冷たくなっていった。
「な、なんだよ、これ……」
我が子がいないと狂ったように鳴き叫ぶ母馬。
無理やり母馬から引き離される仔馬の悲痛な叫び声があちこちからあがる。
競走馬として生を受けた以上は、決して避けることのできない現実がそこにはあった。
「……」
いつか親離れする日が来ることくらいわかっていたはずだった。
でもそれが今だなんて……
母親といっしょに過ごせる時間が、いつ終わってもおかしくないのだと、航は今更のように気づく。
「そうだ……母さんは?!」
航はハッと我に返り、母子の鳴き合いから逃げるように踵を返した。
「くそっ、くそっ、ああああああくそおおおおおぉぉっ!」
走っている最中も、さきほど見た光景が脳裏から離れず、最悪の事態が目に浮かんでしまう。
ようやく仲良くなれたのに。
まだ話したいことがたくさんあるのに。
なんでなんでなんで、と頭はそればかりで埋め尽くされる。
母の身を案じながら戻ってみると、久保田の手がサンリヨンの手綱にかけられていた。
「やめろおおおっ!」
次は自分の番だとわかるや、航は久保田に向かって突進する。
「どんべえ!!」
「だめよ! ぼくちゃん!」
激高した航の前に八肋とサンリヨンが同時に立ちふさがる。
「でも……でもっ!」
子供のように駄々をこねて訴える航。
こんな突然の別れを受け入れられるわけがなかった。
「ごめんな」
激しく肩を震わせる航に対して、帽子を目深にかぶった久保田が短く呟く。
「ぼくちゃん。母さんに顔を見せてちょうだい。あなたの顔を忘れないよう、よく見ておきたいの」
少しずつ頭を上げると、もう二度と会えないというのに母はただ優しく笑っていた。
「……どんべえよぉ。おめえがそんなんじゃ、おっ母さんも心配でいつまでたっても安心できねえだろ。サンリヨンの息子なら、それらしいとこ見せてやりな」
「サンリヨンの息子」
「そうだ。母ちゃんと同じ舞台に立つんだろ?」
お前にしかできない親孝行があるだろと八肋が勇気づけるように言ってきた。
航は胸に熱いものがこみ上げてくるのを感じながら、サンリヨンと目を合わせると、
「母さん、俺――」
最後の最後まで母親を困らせるようなことはしたくなかった。
だから強がりでもありったけの思いを伝えることにしよう。
「俺っ、母さんみたいな立派な競走馬になるから。だから見てて。俺がクラシックで活躍するところを!」
「ええ楽しみに待ってるわ」
そう言って母は嬉しそうに微笑んだ。
巣立ちの時。
航もまた今日という日を忘れぬよう、サンリヨンの後ろ姿が見えなくなるまでずっと見つめていた。
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