第2話 ディープだと思った? 残念、モーリスでした!
「え、……いや、あの、ええぇぇっ」
「モーリスだ。モーリス」
「……」
突き付けられた端末の画面には、父モーリス、母サンリヨンとしっかり記されていた。
「モーリス……モーリスて……」
なんかもう名前を聞いただけでやばい。駄馬臭がする。
最強馬ディープの子供というたっての願いが、まさかこんな聞いたこともない馬の手によって、木っ端みじんに打ち砕かれてしまうとは……
まったく予想していなかった展開に、航は立ちくらみを覚えてしまう。
(もしかして、俺の知る歴史とは違うのか?)
ディープインパクトがないものとされているなら諦めもつく。
ここが航が生きていた時代の延長線上にある世界なのか訊いてみる。
「ディープ。無敗の3冠馬・ディープインパクトって今どうしてます?」
「2006年に現役を引退してからは、種牡馬として今も元気にやってるだろ?」
なぜそんな当たり前のことを聞くのかと、八肋は不思議そうに答えた。
(やはりここは俺が死んでから10年後の世界)
ならば、自分が持ってるいささか古い知識も役に立つ場面もあるだろう。
「牝馬三冠馬のジェンティルドンナ、日本ダービー・ニエル賞を制したキズナなどGⅠを獲得した産駒の数は数えきれない。6年連続リーディングサイヤーの大種牡馬だよディープインパクトは」
「ディープぅ……ディープぅうう」
種牡馬としても大活躍のディープにうれしく思う反面、自分の父親でないことが悔しくてたまらない。どうやら転生した時にすべての運を使い果たしてしまったようだ。
「気持ちはわからねえでもねえけど、サンリヨンにディープインパクトを付けるのは無理だ。サンデーの血が濃すぎて危険な配合になっちまう」
八肋はサンリヨンの血統欄をよく見るよう航に言う。
「母の父がスペシャルウィーク」
「ま、そういうこった。牧場のやつらを責めないでやれ」
極端な近親交配をすれば死産や不受胎が起きやすく、子供が生まれても虚弱体質だったり生殖能力に問題があったりする。
航の健康を考えての措置なのだからこれはもうどうしようもない。それよりも自分の中にあのスペシャルの血が流れていることに注目する。
スペシャルウィーク。エルコンドルパサー。グラスワンダーと、三冠馬クラスの能力を持った馬が3頭同時にターフに現れ、覇を競った98年の日本競馬界。
最強世代と名高い98年クラシック世代の一角を成したスペシャルウィークは、天才滝豊を背に日本ダービー、春秋の天皇賞制覇を成し遂げ、ジャパンカップでは日本の総大将として欧州最強馬モンジューを迎え撃ち勝利。凱旋門賞2着に終わったエルコンドルパサーの雪辱を果たした。
少年漫画の主人公みたいなポジションでターフを駆け抜けたスペシャルウィーク。
記憶にも記録にも残る名馬はサンデーサイレンスの後継種牡馬として名牝シーザリオを輩出している。
(スペの血を引いてるなら母系は期待できる)
が、問題はモーリスとかいう父系の血だ。こいつ次第でどうとでもなる。
もどかしさを感じながら、2代前までしか載ってない血統表画面を睨みつけていると、
「まあ新種牡馬ってのは未知数なところあるからな。現役時代の成績がそのまま繁殖成績に直結しない以上、お前さんが不安に思うのも無理はねえ」
そう含みをもたせた後、八肋がモーリスのデータベースページを見せてきた。
「感想は?」
「すげえ……」
香港GⅠ3勝を含む、計6つのタイトルが航の目を引く。
マイル王とでも言うべき傑出した成績に舌を巻くしかない。
そこからさらにモーリスの二代血統表に目を移すと、グラスワンダーの文字が……
(グラスの血、繋がっていたのか!?)
航が存命していた頃ですら、サンデーだらけだと言われていたのに、父系の血を繋げるとはさすがグラス。2015年度代表馬が父親なら期待が持てる。
かつてはライバル関係であったグラスワンダーとスペシャルウィーク。
その両方の血を受け継いでいるのだから何か運命めいたものを感じる。
「よっし決めた! クラシックに出れなかったグラスのためにもクラシック勝利だ!」
「そういうことなら手を貸してやるぜ。グラスぺの子がクラシックで活躍するとこ、俺も純粋に見てみてえからな」
馴致から入厩までの流れを一通り知っている八肋は協力を申し出た。
「いいんですか!?」
「おう。男に二言はねえ。つきっきりで見てやるよ」
「よろしくお願いします八肋さん、いえ八肋師匠!」
自分が何のために産まれてきたのかわからぬまま命を落とした青年――海藤航は前世では得ることのできなかった生きがいを見出しはつらつとした声を上げた。
「まず最初に、千場スタッドでどんなことをするか。生産牧場の役割を話しておこうと思うんだが。その前にお前さん、牧場の連中になんて呼ばれてんだ?」
「どんべえです」
「なんつーへんてこな愛称だ。こんな呼び方するってこたあ、さては何かやらかしたな?」
「それは――」
航は幾度となくスタッフが食事用に持ち込んでいた即席カップ麺を食べようとしたことを明かした。
「だっはっはっ! それでか! おっ母さんの乳より、カップ麺ってか? こりゃいい。傑作だ!」
藁の上を転げまわって大笑いする八肋。
食い意地を張ってる航にふさわしい愛称だと絶賛した。
「んじゃあ、これからは『どんべえ』と呼ばせてもらうぜ」
そのように断ってから八肋が牧場に関する説明を始める。
「牧場にはサラブレッドの繁殖を目的とした生産牧場と、仔馬の育成を行う育成牧場がある。ここ千場スタッドは競走馬の生産と中期育成を行い、しつけた仔馬を育成牧場へ送り出す役割を担っているんだ」
「そのしつけってのは、いつ頃からやるんです?」
素朴に思ったことを訊くと、なんとも意外な答えが返ってくる。
「生まれた時からだ」
「え? 生まれた時から……?」
「放牧地へ行く時と戻ってくる時、牧場のあんちゃんが左側に立って歩行の補助をしてたろ? ありゃあ引き馬っつって、人間の指示に従って歩くことを教えるためのものなんだわ」
「あー確かに、右の肩や腰の辺りに手を置いて歩いてましたね。リードをつけてからはしなくなりましたけど」
あれが人に慣れさせるための訓練だと言われて納得する航。
いまいち反応が薄かったのは、普通の仔馬が時間をかけて理解することを、ものの数秒で理解してしまうため、スタッフが横にいるだけの状態となっていたからだ。
「生後2ヶ月を過ぎてからは体力向上のための運動や放牧と並行して馴致を段階的に始めていくわけだが、生産者が何を第一目標にしているかわかるか?」
「海外レースを勝てる強い馬づくりですか?」
航は華台で掲げられてる目標をそのまま口に出す。
「夢を壊しちまうようで申しわけねえが、運動と飼養管理で見栄えを良くするのも、手がかからないように仔馬をしつけるのも、すべてはセリ市で高く仔馬を買ってもらうためだ。牧場を維持管理するにはとにかく金を稼がなきゃならねえ」
あまりに純粋すぎる言葉だと八肋がばっさり否定した。
理想と現実、本音と建前の区別ができなければ、必ずいつか痛い目にあう。
航の成功を願っているからこそ、八肋はあえて厳しい現実を突きつける。
「利益第一主義ってことですか……」
「まあそう言いなさんな。セリを目標にするのは、どんべえにとっても決して悪いことじゃない。利害は一致してるんだ」
「そりゃ誰かに買ってもらわないと、走るどころじゃないですし」
それでもまだ何か言いたげな様子の航。
すると、その心情を見透かしたかのように八肋の言葉が飛んでくる。
「俺が言いてえのは、セリってのは人間側だけじゃなく、馬にとってもどういう人間に買って欲しいかアピールできる場だってことよ。どんべえ、お前は無名だったり評判が悪い馬主に買ってもらいたいか?」
「……」
そう言われると返す言葉がない。有力馬主や名門クラブに買われることが勝利への近道だと、それくらいのこと航だって心得ている。
「いい馬主に買われりゃあ、実績のある調教師に預けられ、うまい騎手が優先して乗ってくれる。もちろん合う合わないってのはあるが」
環境が最も重要だと八肋は改めて説く。
事実、GⅠを獲得するのは、年間リーディング上位に名を連ねる厩舎でほぼ占められている。
「どんな人間にめぐり合うか。それで明暗が分かれる」
「わかったみてえだな。馬の実力がありゃ厩舎も騎手も関係ねえってのは間違いだ。周りに恵まれて初めて栄光を掴むことができる」
「つまり今のうちからコツコツ評価を上げておけと。有力どころの目に止まるように」
地元で評判になれば、自然とその手の話は人づてに広まる。落札されればいいなんて受け身な考え方は捨てて、積極的に自分を売り込まなきゃいけない。
「一歩先二歩先で動け。普段から人の目を意識するんだ。そうすりゃ道が開けてくるぜ」
航がその気になるよう、八肋が親指をぐっと立て白い歯をこぼす。
具体的かつ現実的な計画に異論はない。
当面の目標はセリ市ということで航と八肋の意見は一致した。
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