第17話 大航海時代、真田登場!🦅
🦅鷹山トシキは排泄介助や入浴介助をこなし、新しく来た教育係、真田達也(宇梶剛士似)に褒められた。「君は出来る子だ」
トシキのストレスが下がった。ウージーからベレッタM92に格下げになり、警護員が現れた。
「久しぶりだな?」
「警護員さんの名前を教えて」と、鷹山。
「中田だよ」
春野マキって老婆が突然、ゾンビ化した。
中田の協力もありマキを倒した。
シェリーと彼女の仲間たちは、大佐の提案について議論しました。部屋の中には緊張感が漂い、各人が自分の信念と固執を抱えていました。
シェリーは深く考え込んだ後、「大佐の提案は考慮に値するものだ。私たちは協力することで、ルウシェの支配権をより迅速に確立することができる。しかし、我々の計画には妥協できない部分もある」
彼女の言葉に、仲間たちは静かにうなずきました。それぞれが自分の信念を持ちながらも、現実を受け入れる覚悟を持っていたのです。
リーマンショック後の混乱を利用してシェリーに接近した新たな仲間、アンソニーは静かに言葉を続けました。「シェリー、大佐の提案は我々にとって新たな可能性をもたらすかもしれない。しかし、我々の目標を見失ってはなりません。私たちはルウシェの支配権を手に入れ、我が道を突き進むべきです」
大佐は、彼らの言葉を静かに聞き入れ、考え込んだ表情を浮かべました。そして、深い呼吸を繰り返した後、「シェリー、君たちは私たちとの協力を拒否するのか?」と尋ねました。
シェリーは慎重に答えました。「私たちは協力には賛成だ。しかし、我々の条件がある。我々の計画に妥協することはできない。我々は自分たちのルールに従って行動する」
大佐とシェリーの間には、静かな緊張が漂いました。彼らの決断は、ルウシェの運命に大きな影響を与えることになるでしょう。彼らの未来は、決して確かではなく、未知の道を歩むことになるのだろうか。
深いルウシェの森の奥深く、アレックスと彼の仲間たちは驚くべき発見をしました。時空シールがそこにあったのです。彼らはその謎めいたアーティファクトに興奮し、その意味を探るために固く結束しました。
アレックスは興奮しながら言いました。「これは本当に驚きだ。時空シールがここにあるなんて。これが私たちをどこに連れて行くのか、想像するだけでワクワクするよ」
凜は興味津々の表情を浮かべながら返事しました。「確かに、これは私たちの冒険に新たな展開をもたらすものだ。私たちの目の前に広がる未知の世界に、何が待ち受けているのか、とても興味深い」
時空シールの謎について議論しながら、アレックスたちは突然の明るい光に包まれました。そして、彼らは大航海時代の風景の中に姿を現しました。
アレックスは驚きの声を上げながら言いました。「信じられない!私たちは大航海時代にタイムスリップしたのか?」
凜は少し戸惑いながらも、勇気を振り絞って言いました。「どうやらそうみたいね。でも、私たちは冒険者だ。この未知の時代で何が起こるかを見てみよう」
彼らの冒険は、新たな章を迎えました。大航海時代での彼らの旅は、驚きと挑戦に満ちたものになるでしょう。彼らは新しい時代で新たな友情を築き、謎に包まれた過去の秘密を解き明かす準備ができています。
大航海時代にタイムスリップしたアレックスと凜は、未知の世界に興奮しながらも、周囲を探索し始めました。彼らの目の前に広がる風景は、古き良き時代の船や港、そして活気ある商業活動で溢れていました。
アレックスは船が行き交う港を見ながら言いました。「これほど素晴らしい風景は久しぶりだ。大航海時代の雰囲気を感じることができるよ」
凜も興奮気味に笑いながら応えました。「本当にそうね。この時代の人々の生活や文化に触れることができるなんて、とても貴重な経験だわ」
そんな中、彼らはふと、近くの広場で集まっている人々の声が聞こえました。好奇心から、アレックスと凜は広場に向かいました。そこでは、船乗りや商人、さまざまな人々が集まっており、賑やかな雰囲気が漂っていました。
アレックスと凜は人々の会話に耳を傾け、その時代の様子をより深く理解しようとしました。すると、一人の船乗りが大声で話しているのが聞こえました。
「この船は東方への航海に出発する。勇気ある船乗りを求めている。誰が船乗りとして参加するか?」
アレックスと凜は互いに目を交わし、興奮と冒険心が彼らの胸を満たしました。彼らの冒険はまだ始まったばかりであり、新たな挑戦と発見が彼らを待ち受けていることを感じていました。
凜は大の歴史好きだ。頭の中に記憶した大航海時代を思い出しました。
🦅鷹山トシキは八代蘭って入居者から「財布盗んだでしょ?」と疑われた。
警護員が消えた。
スパスでズガーンとウミイグアナを倒した。敬語が使えなくなった。
15世紀、モンゴル帝国が衰退すると、強力な官僚機構と軍事機構をもったオスマン帝国が1453年ビザンツ帝国を滅ぼし、イタリア諸都市国家の連合艦隊にも勝利して地中海の制海権を獲得した。東西の中間に楔を打つオスマン朝は、地中海交易を支配し高い関税をかけた。旧来の経済秩序が激変し、新たな交易ルートの開拓がヨーロッパに渇望されるようになる。とはいえそのオスマン帝国の進出後もベネチアによるオスマン帝国との地中海貿易は続き、16世紀後半から17世紀にかけてまた隆盛し一時はポルトガルのインドルートをしのぐほどになるので、オスマンの進出がどの程度地中海貿易に影響を与えたかははっきりしていない。
ポルトガルやスペインはもともと地中海貿易のはずれにあったので地中海貿易による恩恵がうすかった。ベネチアは東地中海においてイスラム諸国との貿易をほぼ独占していた。イベリア諸国はベネチアと対立していたジェノヴァ商人が大きな影響力をもち彼らがベネチアの地中海貿易に対抗して両国の大西洋進出に出資した。特にポルトガルは西のはずれにあり地中海貿易、北海・バルト海貿易の恩恵も受けることができなかったので必然的に進出先は西アフリカになったのである。
一方、15世紀半ばオスマン朝が隆盛を極めつつあったころ、ポルトガルとスペイン両国では国王を中核として、イベリア半島からイスラム勢力を駆逐しようとしていた(レコンキスタ)。長い間イスラムの圧迫を受けていたポルトガルとスペインでは民族主義が沸騰し、強力な国王を中心とした中央集権制度が他のヨーロッパ諸国に先駆けて確立した。
また、このころ頑丈なキャラック船やキャラベル船が建造されるようになり、羅針盤がイスラムを介して伝わったことから外洋航海が可能になった。ポルトガルとスペインは後退するイスラム勢力を追うように北アフリカ沿岸に進出した。
新たな交易ルートの確保、イスラム勢力の駆逐、強力な権力を持つ王の出現、そして航海技術の発展、海外進出の機会が醸成されたことで、ポルトガル・スペイン両国は競い合って海に乗り出して行った。
初期の航海では遭難や難破、敵からの襲撃、壊血病や疫病感染、内部抗争などによって、乗組員の生還率は20%にも満たないほど危険極まりなかった。しかし遠征が成功して新航路が開拓され新しい領土を獲得するごとに、海外進出による利益が莫大であることが立証された。健康と不屈の精神そして才覚と幸運に恵まれれば、貧者や下層民であっても一夜にして王侯貴族に匹敵するほどの富と名声が転がり込んだ。こうした早い者勝ち の機運が貴賎を問わず人々の競争心を煽り立て、ポルトガル・スペイン両国を中心にヨーロッパに航海ブームが吹き荒れるようになった。
またローマ教皇も海外侵略を強力に後援した。16世紀初頭から宗教改革の嵐に晒されていたカトリック教会は相次いで成立したプロテスタント諸派に対抗するため、海外での新たな信者獲得を計画し、強固なカトリック教国であるポルトガル・スペイン両国の航海に使命感溢れる宣教師を連れ添わせ、両国が獲得した領土の住民への布教活動を開始した。
いち早くレコンキスタを達成したポルトガルは北アフリカへの侵略を確固とし1415年、ジョアン1世のとき命を受けた3人の王子が北西アフリカのセウタを攻略した。エンリケ王子は西アフリカにて伝説の『金の山』を見つけようと沿岸の探検と開拓を続けた。ポルトガルは1460年ごろまでにカナリア諸島・マデイラ諸島を探検しシエラレオネ付近まで進出し、さらに象牙海岸・黄金海岸を経て1482年、ガーナの地に城塞を築いて金や奴隷の交易を行った。1485年、ディオゴ・カンがジョアン2世に命じられてナミビアのクロス岬に到達した。
1488年、バルトロメウ・ディアスは船団を率いて困難の末にアフリカ南端にたどり着いた。ディアスはさらにインドを目指したが強風に行く手を阻まれた挙句に乗組員の反乱も起こったため帰路に発見した岬を『嵐の岬』と名づけて帰還した。この成果にインド航路開拓の確証を得たジョアン2世は『嵐の岬』を喜望峰と改名させた。
1497年7月8日、ヴァスコ・ダ・ガマはマヌエル1世に命じられ、船団を率いてリスボンを旅立つとインドを目指した。目的はインドとの直接交易。先人達の知識をもとに4ヶ月で一気に喜望峰に到達したガマは、アフリカ南端を回ってモザンビーク海峡に至りイスラム商人と出会うとインドへの航路に関する情報を収集した。1498年5月20日、ついにヨーロッパ人として初めてインドのカリカット(コーリコード)に到着したガマは、翌年、香辛料をポルトガルに持ち帰った。
1509年2月、フランシスコ・デ・アルメイダは国王の命で遠征艦隊を率いてイスラム勢力と戦い(ディーウ沖海戦)、インドとの直接交易を獲得するに至った。ポルトガルは順調にマレー半島・セイロン島にも侵略、1557年にはマカオに要塞を築いて極東の拠点とした。その間、1543年にジャンク船に乗ったポルトガル人が日本の種子島に漂着して鉄砲を伝えている。
このようなポルトガルの快挙は特筆されるべきものであり、その後のヨーロッパの驚異的な発展に寄与したのである。しかしイスラム商人は古くからインドや中国さらにモルッカ諸島などと盛んに交易しており、アフリカ大陸においても赤道周辺地域まで交易圏を広げていた。西アフリカに成立していたマリ王国はイスラムに金・塩・奴隷を輸出していた。また、ヨーロッパに先駆けて中国の鄭和艦隊の一部がアフリカ大陸に到達したと言われ、南アフリカのジンバブエの遺跡からはインドやペルシャのほか中国製の綿製品・絨毯・陶器などが出土している。このように14世紀から15世紀までに旧世界における世界航路は、様々な国家・地域の民族によって、開拓されほぼ完成していたことも忘れてはならない。世界規模で言うならば、ガマは世界航路のひとつにアフリカ周りの欧印航路を加えたに過ぎないのである。
同じころ、ジェノヴァ商人のクリストファー・コロンブスは西周りインド航路を開拓しようと1484年、ポルトガルに航海の援助をもちかけた。既にアフリカ航路を開拓しインドまで今一歩に迫っていたポルトガルはこれを拒否する。
ポルトガルに遅れをとっていたスペインは1486年、フェルナンド5世(アラゴン王としてはフェルナンド2世)と、その妻イサベルがコロンブスの計画を採用し1492年、旗艦サンタ・マリア号に率いられた船団がパロス港から西に出港した。1492年10月12日、西インド諸島に属するバハマ諸島に到着したコロンブスは翌年スペインに帰還して西回りインド航路を発見したと宣言した。
アメリカ航路開拓に遅れをとっていたポルトガルも、1500年、カブラルがブラジルに到達し、トルデシリャス条約によってその地をポルトガル領に加えた。
スペインのカトリック国王フェルナンドが西インド探検航海を企画し、アメリゴ・ヴェスプッチは、1497年から1498年にかけてカリブ海沿岸を探検、1499年から1500年の航海ではカリブ海から南下してブラジル北岸まで探検を行った。 ポルトガル王マヌエル1世は、カブラルが発見した土地が単なる島なのか、あるいはスペインが既にその北側を探検していた大陸の一部なのか知ることを望み、ヴェスプッチに探検を依頼、ヴェスプッチは、1501年から1502年にかけた航海で大陸東岸に沿って南下、南緯50度まで到達することができた。ヴェスプッチは、大陸がアジア最南端(マレー半島、北緯1度)とアフリカ最南端(南緯34度)の緯度をはるかに南へ越えて続くため、それが既知の大陸のどれにも属さない「新大陸」であることを、1503年頃の論文『新世界』で発表した。
1513年、バスコ・ヌーニェス・デ・バルボアは、パナマ地峡を横断し、ヨーロッパ人として初めて西回りでの太平洋に遭遇し、北アメリカ大陸と南アメリカ大陸が地続きであることを発見した。
スペインは交易品を求めてアメリカ大陸深部に進出すると豊富な金銀に目をつけた。インカやアステカを征服し原住民を牛馬のように酷使して略奪の限りを尽くした。ポルトガルも、ブラジルにおいてスペイン同様に原住民から富を収奪した。
スペインの命を受けモルッカ諸島への西回り航路開拓に出たマゼラン(マガリャンイス)はスペイン王・カルロス1世の援助を得て1519年8月、セビリャから5隻の船に265名の乗組員を乗せて出発した。1520年10月、南アメリカ大陸南端のマゼラン海峡を通過して太平洋を横断し、グァム島に立ち寄り、1521年にフィリピン諸島に到着した。マゼランはフィリピン中部のマクタン島で住民の争いに加担し、同年4月27日に酋長ラプ・ラプによって殺された。その後、部下エルカーノ率いるビクトリア号1隻が航海をつづけ、1522年にセビリャに帰港し世界周航を果たし、地球が球体であることを実証した。帰ってきたのは18名であった。
スペインはこの後もメキシコ(ノビスパン)から太平洋を横断しモルッカ諸島への航路を開こうと躍起になり、ポルトガルと摩擦を起こす。そのさなか、フィリピンは1571年メキシコを出発したミゲル・ロペス・デ・レガスピによって征服されスペイン領となった。なお、フィリピンの名は1542年、フィリピン諸島を探検したビリャロボスが、当時スペイン王子であったフェリペ(のちのフェリペ2世)にちなみ、これらの諸島を「フィリピナス諸島」と呼んだことに由来する。
ポルトガルとスペインによる新航路開拓と海外領土獲得競争が白熱化すると両国間に激しい紛争が発生した。さらに他のヨーロッパ諸国が海外進出を開始したため、独占体制崩壊に危機感を募らせた両国は仲介をローマ教皇に依頼して1494年にトルデシリャス条約、1529年にサラゴサ条約を締結した。両国はこれらの条約により各々の勢力範囲を決定し既得権を防衛しようと図った。
捕鯨の拠点となる北極海の島を多く発見したりしたが、やはり氷の海に阻まれアジアへの航路を見つけることはできず、また、北アメリカを迂回する航路も19世紀までは見つかることはなかった。
ロシアではセミョン・イワノヴィチ・デジニョフが1648年にシベリア東部への探検隊を率い、ユーラシア最東端となる岬(後にデジニョフ岬と命名された)を発見した。
イギリスやオランダやフランスはアフリカやインド洋にも航海して独自の交易地や植民地を確立し、この方面に独占的に勢力を築いていたポルトガルの地位を脅かした。ポルトガルの最も利益の大きい拠点であるゴアやマカオを、新興諸国の拠点(香港やバタヴィアなど)が包囲し、オランダがインドネシアを勢力圏として香料諸島からポルトガル勢力を駆逐すると、次第にポルトガルやスペインがアジア貿易市場に占めていたシェアは小さくなっていった。
残る未知の地域(北アメリカ西海岸や太平洋の島々など、トルデシリャス条約でスペインに与えられた地域)については、スペインより先にオランダが探検した。1606年にはウィレム・ヤンツ(Willem Jansz, Willem Janszoon)が、1642年にはアベル・タスマン(Abel Tasman)など、オランダの探検家がオーストラリアを探検している。
こうして17世紀中ごろまでに一部の不毛地帯を除いた全ての地域にヨーロッパ人が到達して大航海時代は終焉を迎える。世界中の富が集中するようになった英国をはじめとしたヨーロッパ各国は、いち早く近代化を達成し世界に覇を唱えた。
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