第58話 本番の日。


集中すれば、時間は早く過ぎるもので、

あっという間に年末、そして、コンサート当日。




いつものように朝から練習して、最後の確認事項を詰めていく。

学校のホールを前もって、数か月前から予約して、借りておいたので、いつもよりは大きな場所で練習している。


本番はこれとは比にならない大きさのホールだが、雰囲気は掴める。




笹塚の音を聞いていると、どうも固い。

別に下手なわけでもないし、この音で本番出たところで別に文句は出ないだろう。

だが固い。伸びがない。ビブラートが気持ちよくないし、もたつく。


「おい。」



「ひぁい!」


怯えるなよ…。

言いにくいだろ…。



「笹塚緊張してんのか?」



「いや、全然、そんな…。」

そう答える笹塚の目は世界水泳もかくやといわんばかりに

泳いでいた。

ガッチガチじゃねぇか。



「なんか違うのやろうか。」



「え?本番前よ?何考えてんの?」


こういうナチュラルに人の神経を逆撫でしてくるところは本当に治らなかった。




「音が固い。伸びがない。ビブラートが気持ちよくないし、もたつく。」



包み隠さずそのまま伝えてやった。



「ひぅっ…。」

笹塚は泣きそうな顔で私の方を見ている。

猫みたいに大きな目からは今にも涙がこぼれそうだった



「なんか、気楽にできるやつやろうや。」



「例えば?」



「エルガーの愛のあいさつとかやってみる?」




「あぁ。小さいころやったなぁ。

こういうやつだよね。」

楽譜も見ずにゆったりと華やかなメロディを奏でる笹塚。


うーん、気持ち良い。


これはこれだけ気持ちよく弾けるのになぁ。



「やっぱ、お前上手くなったよなぁ。」



「お前っていうな!癸美香って言え!」

そう、前々から笹塚には癸美香と呼べ!と

散々言われてるのだ。私は頑なに呼ばないけど。

言われれば言われるほど呼びたくなくなる。



「これに比べると、初めて合わせた時の演奏最悪だったよな。」



「うん、それはそう思う。

正直藤原のおかげだと思ってる…。

悔しいけど。」



「おう、感謝しろよな。」



「うわー、サイテー。」



「なんでだよ!!!」

うんうん。

いい感じにほぐれてきたか?




「よし、じゃあ、チャールダーシュ頭から通すか!」




「うん!」



迷いが消えたのか、そこからはいつも通りスムースでいい演奏ができた。

この分なら本番もなんとかやれそうだな。






本番の日、特に今日みたいな、

昼すぎてすぐに演奏がある時は私はご飯を食べない。


満腹になると眠くなるし、頭も働かなくなる。

サックスをやってた頃から実践してるのは金平糖をバリボリ食べることなのだが、

今回は新しい試みを実践する。




これは笹塚に教えてもらったのだが、

どうやらべっこう飴の方が糖の吸収がいいらしい。

舐めてみると確かにべっこう飴の方が甘味が強く感じる(自社調べ)。


笹塚は演奏会前には毎回、コンビニに売っている飴、

中でも金色の飴と茶褐色の飴が大量に袋に入ったものを愛用しているらしい。



確かに言われてみれば、コンビニに金平糖がない時も多々あるので、

これは新しい学びだった。

私は金平糖がない時はガムシロかスティックシュガーを愛飲していた。

これすると、のどがイガイガするから好きじゃなかったけど。


笹塚の教えに基づいて、いつも通りの金平糖と同じ量、

つまり袋で3袋を買い込んで昼飯として、本番に備える。

私は飴系はすぐに噛み砕いてしまうタイプなので消費が早い。




もう本番前のリハーサルからずっと口の中に飴がある状態でピアノを弾く。

まるでチェーンスモーカーだ。

スモーカーで思い出したが、男性ピアニストにタバコを吸う人はかなり多いような気がする。



私は管楽器をやめたつもりはない人間なので、タバコは吸わない。

昔のサックスの先生はタバコを吸っていたが、楽器が臭かった気がする。

楽器は臭いが、彼らは簡単に気分転換ができていいなぁと、

羨む気持ちは無いでもない。





曲を弾く前に、またひとつ飴を口の中に放り込む。

曲中は意識したことはないが、たぶん左の頬袋の中にあると思う。


集中して弾ききったあとに、だいたい左の頬袋にある飴を口の真ん中に戻すと甘味が脳を刺激する。


この甘みというか、

糖分が脳に染み渡っていく感覚がわかる人がいれば、

一晩でも語り明かしたいくらいだ。


なんというか、キマるのだ。

私は金平糖ないしはべっこう飴をキメて、ピアノを弾くのだ。



私のそんなヤバい話は置いといて、いよいよ本番である。





「だ、大丈夫かなぁ。」



あれだけ練習して、私のしごきにも耐えきった笹塚が、舞台袖で弱気になっている。



「何言ってんだ。

私にあれだけしごかれて、まだしごかれ足りない?」



「いや、そういうわけでは…。」




「ん?もっと練習増やした方がよかったか?

来年のお前の卒コンではもっと鬼しごきにするか?」




「いや、あのですね。

私は、緊張しませんか?っていうことを言いたいのであって…。」




「まぁ簡単に言えば、私は緊張することはない。

緊張しないから暗譜も飛ばない。手も固まらない。

注目が気持ちいい。

どーせ寝てるやつもいるんだから。


その寝てる奴を私の音で叩き起こすのが最高に気持ちがいい。」



「は、はぁ。」




「緊張するのは練習が足りないからという人もいるけど、

私はそんなことはないと思う。


きっとどれだけ練習しても、緊張する人はするし、

どれだけ練習しなくても緊張しない人はしない。


たぶん笹塚は練習すればするほど緊張するタイプでしょ。」




「だよね!!

そうなのよ、私は練習すればするほどやりたいことが多くなってきて

緊張しちゃう。

ちゃんと本番でできるかなって。」




心配性な人というのはよくいる。

悪く言えば、気が小さい神経質。

よく言えば、よく気がついてぬかりない。




「一度、私なりにその理由を考えたことがある。」



私の記憶の中で最も古い緊張した記憶はゴルフの時だ。

小学生の時に、大会で朝一番の第一打ティーショットは、まぁなんとも緊張した。

緊張しすぎて、クラブを振り上げられなくなったのだ。


どうしようと思って、助けを求めようと周りを見ると、

誰もこちらを見ていなかった。


そこで悟った。

あぁ、みんなどうでもいいんだと。誰も興味ないんだと。


その辺りから性癖が歪んだのかもしれない。


なぜか、その時思ったのは、周りの人間が興味を持たざるを得ない状況まで周りの人間を追い込むしかないということ。

多分そのころから目立ちたがり屋なところはあったんだろうね。


そういうふうに考えが切り替わるとスっとクラブを振れた。


自分のできるかぎりの速さでクラブを振り、小学生にしてはとんでもない飛距離を飛ばした。


その成功体験から緊張を味方につけたのかもしれない。


 


「ほう。どうだったの?」




「もし、私が1000人家族だったとして。」




「せんにん。」




「小さい頃から常に千人の前で喋り、歌い、踊り、喧嘩をしてきたとしたら、他の千人の前でも緊張するだろうかと。」




「あー、だとしたら確かにしないかも。」




「もしくは常に1人であったなら。

人間をただ1人自分しか認識できていなかったらどうだろうと。」




「たしかに!」




「まぁ後者はよくいう、観客じゃがいも論だね。」




「あぁ、なるほど。」




「そうやって考えた結果、慣れたら結構大丈夫ってこと。

慣れると緊張しない。

逆に慣れたのに、ミスしちゃって余計緊張するようになったら、それは慣れたせいで気が緩んだということ。

だから、結局慣れたらなんとかなる。」




まじめくさってこんなことを言っているが、緊張している人間に何を言っても無駄だと思う。

それらしいことを言って、よくわからんけど納得したという状況に落とし込むと人間落ち着くものだ。




「なるほど。」




なるほどじゃねぇよ。

わかってんのか本当に。

笹塚がいつか誰か詐欺にかけられそうで心配になる。




「笹塚、舞台に立つの何回目?」



「そんなん数え切れないよ。」



「てことは、もう慣れてるはずだから大丈夫。

気にしないでいいよ。」




自分で言ってて思うが、相変わらず詭弁と暴論がひどい。

悪く思うなよ笹塚。




「そんな無茶な!」



「だってもう緊張ほぐれたでしょ?」



「あ、ほんとだ。

肩の力抜けてる。」




よしよし。成功。

持ってるモノはいいんだから。

それを自分の手でぶち壊すようなことだけはやめるんだぞ。




「そういうこと。じゃ本番行くよ!」



「うん!」



私たちはステージを照らすライトに消えていく。

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