14. 涙が枯れるまで

「今だ、飛び込め!!」


 銀鏡の蜘蛛アトロネが七本ある脚の一本を持ち上げ、その脚先が微かに震えたのを感知して叫ぶ。

 直後、案の定銀鏡の蜘蛛アトロネの脚先からは断面直径五センチはあろう銀白な蜘蛛の糸が放出される。

 やはり脚からも糸を出せるのか。

 その予想はロートも出来ていたのか、糸の放出と共に地面を蹴ったようである。

 俺も足先に筋力を集中させ一気にそばを流れる激流に跳躍しようと意気を張る。

 逃亡に全身全霊をかけた跳躍は確かに地下空洞内の地面を蹴り上げて、地下水脈へ肉体を滑り込ませたかと思われた。


「んなっ!」


 予想に反して地面に勢いよく叩きつけられ、思わず情けない声が出る。

 一体何が起こった。俺は確かに地面を蹴り上げたはず。


 自分が先ほどまでいた場所を横目で見る。

 そこには銀鏡の蜘蛛アトロネが先程足先から放出したまるで運動会の綱引きで使うほどの太さの糸が張り付いていた。つまり、俺には当たっていない。

 では一体何が。

 訳もわからないまま、右足首に違和感を感じ視線をそこへと向ける。そして自らの浅はかな判断を後悔した。


 足首に先ほど地面に落下して銀鏡の蜘蛛アトロネの支配から外れたと思われた糸の一本が巻きついていた。

 それを跳躍の際に引っかけられ、俺とロートの逃亡は妨げたられたのだ。

 迂闊だった。新たな糸の脅威に集中するあまり、既存の糸の存在が意識下から外れていた。

 横で同じように転がっているロートも事態を把握したのか額には汗が滲んでいる。


「ごめん…」


 謝る、軽率な判断にロートを巻き込んでしまったことを。

 だが、ロートは仕方ないと言うように首を横に振った。


「あれを…」


 ロートが何やら銀鏡の蜘蛛アトロネの方を指差したので、そちらを見る。

 見た先で、銀鏡の蜘蛛アトロネがその何を考えているかわからない不気味な頭部をこちらに向けたかと思えば、再び脚先から俺とロート目掛けて糸を放出してきた。

 体勢の悪い中で放たれた糸は不可避の軌道で閃き、俺とロートの背中を捕らえる。


「くそ…!!」


 やはり俺の危惧していたことが当たってしまったようだ。

 そう、俺が警戒していたのは新たな蜘蛛の糸による『粘着性』だった。

 この空間に既存していた糸は、少なくとも十年前からこの空間に存在していたもの。

 その粘着性は風化し、もはやただの糸と成り下がっていた。

 しかし、新たに銀鏡の蜘蛛の脚先から放出された糸は違う。

 確実な粘着性が付与されているのだ。それは捕らえられれば確実に身動きが取れなくなってしまうほどの。

 背中にそんな凶悪な糸を貼り付けられ、そのままなす術なく操糸によって天高く逆さに吊され、足先から徐々に粘着質の糸を巻きつけられていく。

 足首、ふくらはぎ、太ももと徐々に巻きつけられていく糸と共に俺の絶望は加速していく。


「──なあ、ワタル。俺、思い出したんだ」


「…何をだ?」


 そんな絶望的な状況下で、ロートは何か策が思いついたように口を開く。


「グライトさんは、銀鏡の蜘蛛アトロネのこの糸を燃やしていたんだ」


 この状況でロートは何を言っているんだ?走馬灯というやつか?

 この場にグライトはいないのだ。そんなこと思い出しても意味は無いはずだ。

 そんなことを思ったが、口には出さずロートの次の言葉を促す。


「それで?」


「ワタル…君だけでも逃げるんだ」


「何を言ってるんだ?この状況じゃ逃げるも何も……」


 俺は徐々に蜘蛛の糸が下半身から上半身へと巻き付けられているのを感じながら、ロートの方を見た。

 ロートも俺と同じように足から吊され、苦しそうな表情を浮かべている。

 だが、ロートの手にはあの小瓶…グライトの炎が入った小瓶が握り締められていた。

 ──まさか。


「グライトさんは言ったんだ。『命をかけてでも開けたいと願えば開けられる』って。今がその時なんだ」


「おまっ!命をかけてなんて!!!」


 察した俺の叫びを振り払うように、ロートは小瓶の蓋に手をかけた。

 絶対に開かないとも思われた強固な小瓶の蓋は、嘘のようにスルスルと持ち上がっていく。


「サファによろしく……頼むよ」


 ロートが切なげに呟くその顔には───俺がギルドでロートと手を交わした時に見た笑顔と変わらない表情が滲んでいた。


「ロートォ─────っ!」


 十数年ぶりに蓋が開かれた小瓶から、まるで命を与えられたかのように業火が溢れ出していく。薄暗かった空間を鮮明にしていく。

 それはロートの全身を包み込み、やがて糸へ燃え移り、そこから銀鏡の蜘蛛アトロネ本体までをも巻き込んで燃え上がった。

 そしてその炎は俺を巻き上げていた糸にも引火したが、なんとか体に火が回る前に脱することができた。それは、薄い膜のように全身に神光支配ハロドミニオを纏わせていたから出来たことだ。

 だがそれは神光支配ハロドミニオを持たないロートには不可能な芸当だということ。

 神光支配ハロドミニオを分け与えるには直接触れる必要がある。空中では無理だった。 

 

「これは…あの男…我をこの地まで追い込んだ男の炎かぁああ!!」


 銀鏡の蜘蛛アトロネは燃え上がる全身から苦しみ…いや、憎しみに満ちた声を放った。

 そんな銀鏡の蜘蛛アトロネの様子には見向きもせず急いで燃え上がるロートの元へと駆け寄る。


「おい、しっかりしろよ!!サファに…サファに告白するんじゃ無かったのかよ!!!!」


 ぼやける視界を薙ぎ払うようして、俺は咆哮する。 

 だが、ぼやける視界は尚も広がり続けていくばかりだ。

 業火による空気の震え、陽炎のためか、はたまた朽ちゆく友への嘆きによるものか。


「それはもういいんだ。ワ…タル…逃げるんだ。君にまでこの炎が移ってしまえば…」


 絞り出すように呻くロートの声は揺らぐ空気に飲み込まれ、俺の耳では微かにしか聞き取れない。


「炎を消す方法は!?何かあるんだろ、なあ!!」


 諦められない。

 もうあんな後悔なんてしたくない。

 もう俺のせいで誰かが犠牲になるのなんてうんざりだ、うんざりなんだよ!!!


「行くんだ!!!飛び込め!逃げるんだ!!そうしないと、俺の決意は無駄になるじゃ無いか!!!!」


 これまで聞いたこともないロートの怒声で、目が覚めるような気がした。……これは俺と同じだ。


「…わかった。…ありがとう、ロート…」


 そう言う俺は悔しかった。

 そう言うことしか出来ない自分が情けなかった。申し訳なかった。……許せなかった。

 燃え落ちる友の手を握ることもできず、ただ呆然とするしかない自分自身が。

 友を殺した元凶を前にして、逃げるという選択肢しかとることができない自分自身が。

 強敵を前にして、友を犠牲にしてまで助かりたいと縋った自分自身が。

 また同じだ。

 ヴァルム、フォーミュラ、リリシアの時と…同じだ。

 弱さを変えられず、小さな世界で慢心していた自分自身が……許せない。


 最後にロートはもう一度、業火の中で笑ってみせた。

 そして業火は一層閃き、ロートの姿を包み込んで見えなくする。

 本当はこんな所で命を燃やしたくはなかったはずなのに。

 痛いほどに伝わってくる感情を、俺はただただ心の中で飲み込んでおくことしかできなかった。


 ロートの意思を無駄にするわけにはいかない。

 俺は急いで激流の中へ身を投じようと水脈までの道を確認した。

 ──とその時、空間内に予想外の声が響く。


「別れは済んだか?」 


 紛れもなく銀鏡の蜘蛛アトロネの声だった。

 銀鏡の蜘蛛アトロネは業火によって動きを止めているはず。

 それなのにこの余裕そうな声は、一体。


「なんで…」


 声が発せられた方を見ると、巨体は全く炎に苦しげな表情も見せずそこにあった。


「耐性というやつだ。一度受けた攻撃が何度も聞くと思うなよ」


「一度受けた?グライトの炎は消えないはず。なんで…」


 『不滅の炎』、グライトの炎はグライトの意思に反して消えることはないという。

 つまり、一度その炎を受けていたとしたら俺たちが会った最初から銀鏡の蜘蛛アトロネが燃えていないとおかしいのだ。


「知らないのか?我は数百年前…数千年前か?にも同じ性質の炎を見たことがあった。その時に知ったのだが…この炎は不滅などではない。何故我がこの地を選んだのだと思う?継続的に水を与え続ければこの炎は消えるのだよ」


 俺はそう語る銀鏡の蜘蛛の繭の一部が、地下水脈と触れていたことを思い出した。

 そうか。地下水脈に糸を垂らすことにより、繭全体へ水を巡らせ炎を消していたのだ。

 糸へ炎が移らないように、慎重に、何十年もかけて──。


 クソがぁぁあ!!!


 どん底に落ちた戦況を俯瞰して、心の中であらん限りの悪態をつく。

 なら早く、銀鏡の蜘蛛アトロネが体勢を立て直す前にあの激流へ…!

 焦燥と恐怖に駆られるまま、脇目もふらず激流目掛けて跳躍した。


 後数メートル…大丈夫だ、糸は周囲に無い。間に合え、間に合えぇぇぇぇええ!!!


 しかし激流に近づく視界は突如反転し、絶望と共に俺の体は地面に叩きつけられた。

 俺の決死の跳躍は間に合わなかったのだ。後数センチ、届かなかった。

 背中の防具に糸が張り付いているのが感じられる。おそらく再び脚先から粘着質の糸を放出させたのだろう。俺が飛び込むよりもコンマ数秒だけ、速く。


「残念だったな。愚かな小僧よ。冥土の土産に良いものを見せてやる。こちらを見ろ」


 絶望に沈むまま、何故か引きつけられるように言われた通り銀鏡の蜘蛛アトロネの方を見る。見るしかなかった。

 銀鏡の蜘蛛アトロネは相変わらずその肉体に炎を纏わせたままだったが、変わっていたのは──、


「な…紋章が…二つ!?」


 本来紋章は一人につき一つしかない。

 それは人間族でも魔族でも、魔物に至っても同じはずだ。

 しかし目の前の化け物には二つの紋章が浮かび上がっている。一体、なぜ。


「これは幾千の人々が求めた力だ。我はこれ故に闘い、足掻き、苦しんだのだ」


 銀鏡の蜘蛛アトロネはそう言うと、その八つの目で俺を見つめてきた。

 真紅から銀色へと色を変化させていくその目は、まるで清流のように透き通っていて──鏡のように揺らめいて美しかった。

 完全に八つの目が銀色に変化した瞬間。銀鏡の蜘蛛アトロネの二つ目の紋章が鮮やかに輝き出し、魔法が行使されたことが確認できた。

 しかし周囲の空間に何も変化は見えない。変わっているものは──、


「どんどんデカく…」


 暫く目を凝らして見て分かった。

 何故か俺に対し、どんどんと銀鏡の蜘蛛が巨大化していくのだ。

 明らかに紋章魔法アイデントスペルによるもの。が、何かがおかしい。


「俺が…小さくなってんのか?」


 声を出してみて気づく。声が異様に高くなっているのだ。

 まさか。ヤツはこの力を幾千の人々が求めたなどと言っていた。だとしたら考えられる状態はただ一つ。


「若返らせる魔法…ってことか」


 ポツリと呟いた俺の声は、完全に幼い頃を彷彿とさせるものとなってしまっている。

 体と共に精神まで幼くなってしまったのだろうか。

 恐怖による震え、動機、目眩が止まらない。

 だが、俺の呟きを聞いた銀鏡の蜘蛛アトロネは尚を冷徹に言葉を続けた。


「左様。殺す前の人間にこの力を見せてやっているのだ」


「随分と悪趣味だな」


 なんとか体を奮い立て、震えを押さえつける。

 そして混乱する頭をなんとかフル回転させ、この絶望的な状況下でなんとかこの場を打開する手段を見つけ出す。

 ──若返ったことにより生じた一つの可能性。

 若返りで体が縮んだことにより、装備していた防具が脱げかけている。

 そう、蜘蛛の粘着質の糸はその防具にしか付着していない。よってこの防具を瞬時に脱ぎ捨て、そのまま数センチ先の激流に身を投げれば良い。

 買ったばかりの防具を捨てるのは惜しいが、やむを得ない。

 銀鏡の蜘蛛アトロネも、自身の糸の粘着性を過信しているに違いない。

 しかしその作戦が成功する可能性は低い。防具を脱ぐのに思ったよりも時間がかかるかもしれないし、その隙に生身に糸を絡められれば詰む。

 と思っていたが、思い出した。この防具を買った時に楽しげな店員から聞いた、とんでもない機能のことを。


 『即時着脱機能』。──まさか…そんな馬鹿げた機能に命を救われることになるなんて。


 俺は胸にある紐を引っ張った。

 店で試した時同様、パカリと脱げる防具、一気に身軽になった体。

 呆気に取られた銀鏡の蜘蛛アトロネの間抜け面を尻目に、念のため神光支配ハロドミニオを全身に纏わせながらその身を激流に委ねる。


 沈む。沈む。沈み込んでいく。

 十歳前後の肉体まで戻ってしまった身体は激流の中では思うように動かなかった。

 ヤバイかもしれない。どんどんと体は激流にもまれて、その制御を失っていく。

 だがしかし、頭部だけでも出していると、そこを銀鏡の蜘蛛アトロネに狙われかねない。

 俺はなんとか体を完全に激流の中に完全に沈み込ませ、銀鏡の蜘蛛アトロネの視界から逃れるように祈った。


 冷たい…息ができない。

 銀鏡の蜘蛛アトロネは諦めてくれただろうか。きっともうエドナ洞窟からは離れているはずだ。

 足がつかないほどの激流の深さと、激しい流れ、そして冷え切った水は体温を奪い、完全に俺の動きを封じ込めている。

 神々封殺杖剣エクスケイオンが思ったよりも重いのだろうか。どんどんと俺の身体は光の届かない闇へと落ちていき──。

 ああ、もしかして最初から逃げ場なんて無かったのか。ごめんロート。お前に生かされたのに、俺は……


 沈んでいく身体と共に、意識もどこか薄暗闇に沈んでいくような感覚がした。



◆◇◆◇◆◇



 口から心臓を吐き出してしまいそうな程の動悸を押さえつけ、サファは依頼の為に訪れていたエドナ洞窟内の悪路を駆けていた。

 一体何が起こったと言うのか。

 ワタルとロートの二人が穴の中に飛び込んだと思えば、穴の入り口は得体の知れない糸によって塞がれた。

 それによって二人の退路は断たれ、直後聞こえたロートの叫び。非常事態であることは明らかだった。

 それに微かに穴の中で見えた巨大な蜘蛛の脚。

 それは初めて見るはずなのに、サファには何故か一度見たことがあるような気がした。

 一体どこで。サファにはわからなかった。

 ようやく洞窟を抜け、ぼんやりと空を眺めている御者の元まで駆け寄る。


「おじさん!今すぐっ、今すぐネルスまでお願い!」


「ええ、どうしたんだい!?」


 息を切らし、苦しげながらもサファが吐き出した言葉に目を丸くしながら、御者はサファが馬車に乗り込んだのを確認してすぐさま馬に鞭打った。


「他の二人は?」


「……」


 尋ねる御者に、サファは俯き気に首を横に振った。

 サファは理解していたのだ。

 あの糸を放ったのは紛れもなく銀鏡の蜘蛛アトロネ。たった二人で敵う敵ではないのだと。

 だがしかし、内には微かな希望を秘めていた。あのロートなら死ぬことはないはず。きっと戻ってくる時まで耐えているはず。

 サファは祈るように両手を胸前に組み合わせて、馬車がネルスに到着するのを待った。


 サファにとっては悠久にも感じられる時間が経過し、馬車はネルスの領主、ヘレー=ネルスの屋敷へと到着した。

 サファは急いで馬車から飛び降り、屋敷の分厚い扉が開くのを待たずして屋敷内に滑り込む。

 そのままサファただ一人のみの帰りに驚いた様子のメイドたちの合間を駆け抜け、螺旋階段を躓きながらも駆け上がって、ヘレーの部屋へと飛び込んだ。


「おや…?お一人で──」


 驚くヘレーの言葉を遮り、サファは叫ぶ。


銀鏡の蜘蛛アトロネが出たの!今…ロートとワタルの二人が戦ってる!早く増援を送って…!」


「…状況はわかりました。すぐさまライラルに私の給仕を送りましょう。サファさんも付いて行けますか?」


 ヘレーは深刻そうな顔つきで語りながらも、二人は手遅れだろうとはサファには告げなかった。

 ネルスには屈強な冒険者や、王都騎士団のような精鋭たちはいない。

 よってライラルから冒険者を派遣してもらう他ないのだが、ネルスからライラルまでは馬車で十八時間もかかる道のりなのだ。

 ヘレーは息を切らしながら首を縦に振るサファを気の毒に思いながらも、竜車・・の扱いに長けているメイドに託した。

 メイドはサファを託されると、すぐさま竜車を格納している倉庫へ向かう。


「地竜…使ってもいいんですか?」


 サファは自分が貴重な地竜が飼育されている小屋に案内されたことに驚きながらも、慣れた手つきでその背中に乗ったメイドに尋ねた。


「仲間の皆さんが危険なのでしょう?早くライラルに向かいましょう」


 メイドは淡々と語っているが、サファには同情のような感情が含まれていると感じられた。

 サファには分かっていた。ヘレーにも、メイドたちにも、あの二人は助からないと思われていることを。

 しかし、こうして救いの手を差し伸べてくれたことには感謝していた。

 それでも、そんなことは思わないで欲しかった。あの二人は助かると、そう声をかけて欲しかった。

 サファはそんな戸惑いと他責に似た感情が自身の中で渦巻いているのを感じながらも、地竜の背中に飛び乗り、振り落とされないようにメイドの腰を掴んだ。


 地竜は馬の五倍ほどのスピードで走ることができる。

 すなわちライラルに着くまではおよそ四時間程度。

 爆ぜるように屋敷を飛び出した地竜はどんどんと風に乗っていき、景色はものすごい速さで背後に流れていく。

 盗賊と鉢合わせた森を横切り、見慣れた草原を横切っても、サファの心は落ち着かないままでいた。

 四時間。絶望的な長さだ。

 なんとか逃げるか、銀鏡の蜘蛛アトロネを倒すかしない限りは確実にロートとワタルは生き残れない。

 それでも、どこか大丈夫なんじゃないかと思う自分がいた。

 あのロートが死ぬわけない。きっとまたあの澄みきった笑顔を見せてくれるはず。

 そんな意味の無い思考だけがグルグルとサファの脳内を支配していた。


 サファははやる気持ちを押し殺して、ライラル南門へとたどり着いたのを確認する。

 あまり見ないネルス家の紋章つきの地竜に門番も状況を察したのか、メイドが銀鏡の蜘蛛アトロネの言葉を発した途端に通行許可がおりた。


 普段、サファはライラルの活気盛んな街並みをゆっくりと馬車が往来する、そんな停滞した空間が好きだった。が、今は違う。

 焦燥感、不安、自責の念。

 そのすべてが入り混じったかのような感情が、ただただサファを駆り立てている。

 ノロノロと道を塞ぐ馬車たちに苛立ちを感じたサファはついに地竜を飛び降り、駆けた。

 そうしてなんとか辿り着いたギルドの扉を開け放って、あらん限りの力で叫ぶ。


銀鏡の蜘蛛アトロネが出たの!みんな助けて…!」


 人見知りのサファは思いの外、自分が大きい声を出したことに驚いた。

 だが、そんなこと構っていられなかった。

 銀鏡の蜘蛛アトロネが出た。

 それだけで一大事だ。きっとギルドの人たちはすぐに動いてくれる。ロートとワタルを助け出してくれる。

 サファはそう信じて、ギルドに飛び込んだのだ。──だが、実際は違った。

 サファの一声によって、周囲の穏やかな喧騒に満ちた空間は悪い方向に一変したのだ。

 銀鏡の蜘蛛アトロネ?冗談だろ。

 なんなのあの子?などの疑心に満ちた声が、悪意に満ちた声が、代わりに辺りを充満し始めたのだ。


 なんでみんな信じてくれないの?どうしてみんな笑っているの?


 振り絞った勇気とは裏腹な結果に、サファは崩れ落ちた。失望した。幻滅した。

 自身が憧れた冒険者とは、こんなにも薄情な連中だったのか。それとも自分に人望がないからか。

 どっちにしろ、サファが絶望に叩き落とされたのは紛れもなかった。

 だが、膝をつき悲嘆に暮れるサファに手を差し伸べる者が一人。

 それは──ベテランギルド職員、トーネ。


「手の空いた冒険者は今すぐネルスに向かう準備をしろ!ギルドから竜車を出す!準備できた者はそれに乗り込め!!!」


 怒りに満ちた声だった。

 それでもその声は、サファにとっては慈愛に満ちたものに感じられた。

 傷ついたサファの心に癒しが流れ込み、それはサファの目から涙となって溢れ出す。


「どうして…どうして信じてくれるんですか?」


 サファは震える声で尋ねた。

 それはトーネの怒りが怖かったからではない、ただただ嬉しかったのだ。


「あの時のロートにそっくりだったのよ。十年前は冒険者もすぐにロートの言葉を信じてくれたんだけど。今じゃ薄情な奴らばっかりよ」


 トーネはため息まじりに言う。

 それが聞こえたのか、冒険者たちは一斉に慌ただしくなった。

 銀鏡の蜘蛛アトロネ、究極の厄災…最悪の五芒星ディザ・スターの討伐。ライラルの冒険者は名誉と名声の為に動き出したのだ。


「それで、これを見る勇気はある?」


 突如、トーネは懐から一通の封書を取り出し、サファに手渡した。


「これは?」


 サファは訳もわからないまま受け取る。


「ロートからサファに向けた封書よ…」


 ロートから、そう言われてもサファには見覚えのない物だった。


「えっ。いつ渡されたんですか?」


「最近ね。ロートは覚悟していたみたい。銀鏡の蜘蛛アトロネを倒しても倒せなくても、この想いを伝えれるようにって…」


「覚悟?想い?」


 サファにはその言葉の意味が分からなかった。


「その封筒には封印がかけられていたの。ロートが…ロートが死ぬまで解けることはない封印が。だから私だけこの事態をすぐに飲み込めたってのもある」


「かけられていた?死ぬまで解けない…?ってことはロートは…」


 トーネに告げられた残酷な言葉が、吐き気や目眩となって一度にサファを襲う。

 ロートは死を覚悟していたの?

 そこまでして私に何を伝えたかったの?

 サファの頭ははちきれんばかりに混乱していた。

 それでも、サファは今では封印が解けてしまった封書を丁寧に開けて、文字が書かれた一通の手紙を抜き取った。

 こぼれそうな涙を拭き取りながら、折り畳まれた紙を開く。

 そこに書かれていた文字は、鮮明に、顕著に、残酷にもサファの記憶を呼び戻した。


「で…でも院長は…この傷は生まれつきだって…」

 

 サファは帽子の上から傷のある頭に手を置いた。


「私から頼んどいたのよ。記憶を忘れていたようだったから。思い出さないようにその傷は生まれつきってことにしといてってね」


 サファには、トーネの言葉がにわかには信じられなかった。

 それでも、握りしめた手紙にはそれを裏付けることが書かれている。トーネの言葉は信じる他無かった。


「どうして……どうしてこんなに大事なことを忘れていたの…?ロートは…最初から知っていたというの…?」


 呻くように呟いたところで、留めていた涙が決壊したダムのように流れ落ちていった。

 それは丁寧に書かれた手紙の文字を滲ませていく。

 どうして忘れていたんだろう、あのとき…近くの村のお祭りの前日に、大きな蜘蛛から助けてくれた赤髪の少年のことを。

 必死にこの街まで運んでくれた人のことを。

 大好きな…大好きだった憧れの人、ロートのことを。

 サファはそこまで考え、泣いた。

 ここがギルドの入り口であることも忘れて。

 ロートが助けてくれた証、額の火傷の跡を触りながら、涙が枯れるまで。


『愛しています。十年前に君を助けたあの時から。ロートより』


 そう書かれた手紙を、ぐしゃぐしゃになるくらい強く握りしめながら。

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