第16話 開いた界境
(なに、あれ……)
イシュカは恐怖で瞬きを忘れ、火の山の地下付近をひたすら見つめた。火口からまっすぐ下った先だ、底深くに何かがうごめている。
シグルが警戒を促すように「ピィ」と鳴いた。前進をやめ、その場ではばたきを繰り返す。ばさばさと羽が空気をかきまわし、イシュカの髪を千々に乱す。
下方にいた不死鳥がシグルに寄り添うように並んだ。同じように飛びながら、落ち着かない様子で盛んに首を動かす。
「ラグナル……」
「ああ、わかってる。幻獣、だよな。もう界境を越えた?」
「ううん、多分まだ向こうの世界にいる」
「なのに、あの強さか……」
イシュカが出会ったことのある中で、最も強い霊力を持つのは人魚、水と火、それぞれに属する竜、父が呼び出すことのある風竜、そして、兄が知り合った魔狼。そのすべてを合わせても、多分あそこにいる何かには遠く及ばない。
知らぬ間に口内に溜まった唾をのみ込めば、ごくりと音が立った。
異変を感じたのだろう、島に住まう妖精たちが騒ぎ出した。森の木々や草花がざわざわと蠢き、湖や池、川にはさざ波が立っている。島のあちこちにある界境を目指して、移動を始めた。
(逃げてるんだ……)
そう気づいて、イシュカは顔色を失った。
妖精たちが逃げ込んでいくそれらの界境向こうから、幻獣たちがこちらの世界を覗いている気配がする。みんな警戒している。つまり――あれは“危ない”。
「っ」
地鳴りがした。山体が細かく震え始め、山肌から岩が転がり落ちる。火口から吹きあがる噴煙の量と色が変わった。
海岸線に広がる砂浜や木々の合間に、学校のローブを着た生徒たちが見えた。口々に何か言い、火の山を指している。
島の中ほどに設けられている、教授たちの待機場所であるベースキャンプでも動きがあった。教授の一人の召喚獣である雷の霊鳥が飛び立ち、上空を旋回し始める。
「行こう」
火の山の底にいる幻獣の圧倒的な存在感に、シグルの上で固まったままのイシュカと違って、ラグナルは冷静に不死鳥に命令を口にした。険しい顔をしつつ、教授たちが集まるキャンプを目指してまっすぐ降りていく。
「っ、ごめん、ぼうっとしてた……」
シグルがまた一声鳴いた。我を取り戻し、イシュカは黒い霊鳥に目を向ける。こっちを見ている目の奥に虹色が見えた。ラグナルと違って、彼はここから離れるよう促している。
「……」
シグルから、基地に向かう不死鳥の上にいる幼馴染の背に視線を戻した。ぐっと唇を引き結ぶ。
「行く」
微妙に躊躇った後、イシュカの親友の霊鳥は、あきらめたような鳴き声を上げて、炎の鳥の跡を追った。
「先生、火山に何かいますっ」
「なんなんですか、あれ……」
「正体、害意の有無等、すべて不明だ。試験は中止。北部海岸に移動の上、島を脱出する」
「しかし、船は明日にならないと……」
「船を待てる状況ではないと判断した。召喚獣に頼れる者は、それでこの先のカグンリ島を目指しなさい。その後は諸島沿いにできるだけ遠くに行くように。騎乗可能な召喚獣を持たない者は、私とオリヴィア先生がドワーフたちに船を建造させるから、それに乗って脱出することとする。シャルマーはいるか」
シグルの背から飛び降りれば、キャンプは騒然としていた。引率の教授たちは皆厳しい顔をしていて、十数名の生徒が中心のトルノー教授に詰め寄っている。そうする間にも、続々と生徒がやって来る。
(アエラとシャルマーは……いない)
親友のアエラと、ドワーフ使いでもある彼女の婚約者の不在を確認して、イシュカは顔を曇らせた。
既に到着し、人垣の端にいるラグナルへと駆け寄った。動揺することもなく、じっと火山を睨んでいる。
同じものを見ようと、薄い煙を吐き出し続ける火山を振り返り、イシュカはぎゅっと眉根を寄せた。
火山の内部から周囲の気配をうかがっている幻獣は、恐ろしく強大な霊力を持っている。
(界境が閉じていたと言ったって、その向こうにあれほどの幻獣がいて気付かないなんてこと、ある?)
そうして思い浮かんできたのは、遺跡の、不思議な石で描かれた円陣だった。やはりあれは、界境を封じるものだったのだろう。
(界境を封じる陣……を作っていた水と火の力両方をあわせ持つ石……)
『コィノ、イシュカ、私たちはついつい、この世のものを対立軸でとらえようとしてしまう。例えば、光と闇、善と悪、生と死、水と火、私たち人の世界と幻獣たちの世界……すべて相反する存在だとね。だが、それらは必ずしも対立しているわけではない。私たち人の世界と幻獣たちの世界の境が実はあいまいなように、すべてのものは連続して存在し、調和し得る』
思い浮かんだのは父との、大分古い記憶だった。横に並んで話を聞いていた兄は、今のイシュカよりはるかに小さい。
『今から教える言葉を覚えておきなさい。そして、私が言った言葉の意味を理解できて、必要な時が来たら唱え、願うといい』
そうして父はヴィーダ家に伝わる幻獣の融合呪を教えてくれた。
『とはいえ、僕も成功したこと、ないんだけどね。幻獣の融合も、それから――の融合も』
そう軽く笑っていた父の顔を思い出し、イシュカは目を瞬かせる。
(融合、幻獣の……融合?)
「っ」
轟音が響き、地が大きく揺れた。火口から黒灰色の噴煙が、天めがけて吹きだす。
生徒たちの間から悲鳴が上がった。
「移動手段となるものを召喚できる者は、すぐに移動を開始、一旦東の浜に集合しなさい。可能な場合は手段を持たぬ生徒を同乗させるように。リマン教授は島に残る生徒たちに避難の呼びかけを。メチルド先生はここに残ってやってくる生徒たちの誘導をお願いします」
トルノー教授の指示で、皆が動き出す。
「ガードルード、君はフェニクスで私と共に来なさい」
『雷鳥』を使役するリマン教授の指示に、ラグナルが動きを止めた。
「ヴィーダ、君の黒い霊鳥も…………どこに行った?」
「え? あ、あれ?」
きょろきょろと辺りを見回すも、シグルはすでに消えていた。
「……君の精霊はそういうものだったな」
「……すみません」
(いざという時にやっぱり役に立てない)
リマン教授、そして、周囲の生徒たちからあからさまな失望と軽蔑を向けられて、イシュカは顔を伏せた。
「ガードルード、行くぞ」
「イシュカを避難させてから参ります」
雷鳥にまたがったリマン教授の呼びかけに、ラグナルははっきりと口にした。
「……フェニクスには君以外触れられまい。高位の炎霊は気位も高い」
「仰るとおりですので、風狼で浜まで移動します」
(……え?)
唖然として彼を見れば、鋭い視線を返された。黙っていろ、という意図を読み取って、イシュカは口を噤む。
「それでは時間がかかる」
「――彼女が徒歩で移動すれば、なおさら、です」
目を眇めたラグナルのきつい物言いのせいだろう、リマン教授の眉間に深い皺が寄った。次に彼はイシュカを忌々しいものを見るような目で見る。
教授だけじゃない、その場の全員が皆同じ目をイシュカに向けていた。
(私はラグナルの足を引っ張るだけの存在だ)
イシュカがイシュカ自身を見ることができれば、やはり同じ目をしただろう。
空路で避難する者、陸路を行く者、それぞれが陣を描き、呪を唱え始めたことで、ベースキャンプはまた雑然とした。
「俺たちも移動しよう」
ラグナルが風狼を呼び出した。落ち着きなく辺りを見回し、鼻をひくつかせる風狼の首筋を撫でながら、イシュカに手を差し出してくる。
「……」
その彼をじっと見つめた。
さっきラグナルは、イシュカが勝手にフェニクスに触れようとした時、止めた。だから、召喚者以外フェニクスには触れないという、リマン教授の言葉は基本正しいのだろう。
でも、フェニクスはラグナルが許可を願うことすらしていないのに、イシュカが触れることを許してくれた。
(召喚主の意図を越えて、その人の召喚獣と関係を結べる――私は “おかしい”)
『それ、やめた方がいい。人の召喚獣に話しかけたりすること』
ラグナルはそれがみんなにばれないように、あんなことを言ってくれたのだと、ようやく理解する。
今もそうだ、自分一人ならフェニクスでさっさと避難なり、教授の手伝いなりできるのに、イシュカのためだけに、敢えて風狼を選んで助けようとしてくれている――。
「イシュカ?」
「…………ばかだなあ」
いつまでも手を取ろうとしないイシュカに、ラグナルが不審を顔に浮かべた。イシュカは泣き笑いを零す。
「大丈夫だから、ラグナルはフェニクスと一緒に行って」
「何を言っている……?」
「ラグナルのフェニクスの速度と派手さなら、島にいる人たちみんなに知らせられるでしょう? 私は急いでアエラたちと合流するから」
「っ、なんでっ」
「なんでって、アエラが心配なのと……彼女を餌にするため? 妖精も幻獣も精霊はみんな、性格のいい美人が大好きだから、彼女が一緒にいるとお願いごと、聞いてもらいやすくなるの。島から脱出するなら私的に必須」
焦ったように詰め寄るラグナルに、能天気な感じで小首を傾げてみせる。
「大丈夫大丈夫、いざとなったらシグルも助けてくれるだろうし。またね、ラグナル」
「待てっ」
「ほら、行かないと。天賦の才があるんだから、できることはしないとね」
「……っ」
『ガードルードに連なる者には天与がある。それゆえに他者への奉仕の義務も』
ラグナルの父親の口癖を思い起こすよう仕向ければ、案の定、ラグナルは怯んだ。
「じゃあ、また後で」
その隙に身を翻し、ドワーフの小屋のある湖を目指した。
湖も、そこにたどり着くまでの道のりも、異常というしかない状況だった。いつも陽気な妖精たちは可憐な花の陰や大木のうろ、大岩の陰などの界境向こうにすっかり隠れてしまって、まったく出てこない。
火山にいる何かに触発されたのか、それらの界境も不安定になっていて、向こうの世界の幻獣たちの霊力が溢れ出てきている。
「っ、……いったあ。うわ、擦りむいた」
地鳴りがして、大地が揺れた。走っていたイシュカは、その拍子に転ぶ。血の出た膝をさすりながら左を見れば、まるで図ったようなタイミングで、噴煙が吹きあがった。
上空に立ち上るそれのせいだろう。段々辺りが薄暗くなってきた。
「イシュカさんっ」
「シャルマーっ」
木立の向こうに、湖が見えた。アエラの婚約者である大柄なドワーフ使いがこっちに駆け寄ってくる。その腕からピンク色の髪が零れ落ちている。
「アエラっ、どうしたのっ?」
「さっき頭痛を訴えて、倒れてしまって……イシュカさん、あの気配、」
「そっか、アエラは精霊の霊力に抵抗がある分、負荷が強いんだ……。シャルマー、実は、」
アエラを抱える彼女の婚約者に手短に事情を説明し、移動を促す。
「シャルマーは移動に手を貸してくれるような召喚獣と契約してる?」
「いや、私はドワーフとかレプラコーンとか、土属性の物づくり系のものばかりで」
「そっか……シグルっ」
宙に向かって呼びかけてみたが、出てこない。さっき火の山を気にしているようなそぶりをしていたから、ひょっとしたら彼も逃げているのかもしれない。
火の山の界境が活発化していることにつられたのか、奥のラグーンの底にある界境の裂け目も大きくなってきたようだ。そこから幻獣たちが出てきている気配がする。皆興味と恐怖半々に、何かを確かめるかのように火の山へと意識を向け、すぐに元の世界に戻っていく。
「っ、水馬っ、お願い、助けてっ」
その界境の向こうに馴染みの気配を見つけて、イシュカは叫び声を上げた。
しばしの間の後、水底が淡い水色にほの輝く。銀と青で縁取られたあぶくがそこからポコポコと水面に浮かんだかと思うと、一際強く光った。半透明の青い毛に鰭を持つ、馴染みの幻獣が水から浮かび上がる。
「水馬、前、会ったことあるでしょう、私の大事な友達、アエラだよ。彼女をここから逃がしたいの、力を貸して」
「……『ケルピー』? ……イシュカさん、この馬、人を食らうやつじゃ、」
蒼褪めるシャルマーの目の前で、イシュカは水馬のぷにょぷにょした透明な額に、自らの額を合わせる。
「そう、あの時乗ってくれなかった子。リベンジだと思ってよろしくね。こっちはシャルマー、運んであげて。すごくいい人なの」
「……」
巨大な馬はアエラの顔を見た後、じっとシャルマーを見つめた。シャルマーがごくりと音を立てて、つばを飲み込んだ。
「頼む――彼女を助けたい」
水馬はまるで笑いでもしているかのように鼻を鳴らし、前足を折って、シャルマーに乗るよう促した。
「っ」
また大気が揺らいだ。直後に轟音が耳をつんざく。続いて足元が大きく振動した。
「シャルマーっ、また噴火するっ、行ってっ」
「え、だって、イシュカさんは」
アエラを抱えたシャルマーが、水馬の上で戸惑いを見せた。
「大丈夫、私もすぐシグルで追いかけるから」
水馬は水属性だ。陸地ではその能力が制限される。
(三人も乗ったらきっと……)
「っ、水馬っ」
背後から悪意を感じ、イシュカは火山を振り返るなり叫んだ。
いななきと共に、シャルマーたちを乗せた幻獣の全身が青白く光った。首の付け根の左右に生えた両鰭が前方に移動し、水馬の顔の前で交差する。
それが再び開いた瞬間、凄まじい勢いで水が噴き出した。飛んできた噴石を撃ち落とす。
(――狙ってきた)
かなり性質の悪い幻獣だと確信して、イシュカは赤い飛沫と黒い噴煙、軽石を吹き始めた火山を睨んだ。
この霊力と悪質さで襲ってこられたら、この島にいる生物は全滅するかもしれない。アエラも、それからラグナルも――。
「シャルマー、行って。私はここでやれるだけ、食い止めてみる」
「でも君は……」
「うまく幻獣を扱えないって? 大丈夫大丈夫、死にそうな時はみんななんだかんだで助けてくれるから。この水馬だってそうでしょ?」
言い淀んでくれたアエラの優しい婚約者に、敢えて軽く言って微笑んだ。それから真剣に見つめる。
「お願い――アエラを連れて、先に行って。微妙に口が悪いけど、照れ隠しだって知ってる。笑い上戸だけど、いつもものすごく心配してくれてるのも。私の大事な、大事な友達なの」
そう言って、イシュカはシャルマーの腕の中で苦しそうな顔をしている親友の頬を撫で、水馬を押し出した。一度触ってみたいと思っていた薄桃色の頬は、予想通りすべすべ。
(ちょっと役得)
そう思ったら、少し元気が出た。
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