殿下は相当変わっている③
御者が馬車の扉を開くと、扉側の警護の者二人が先に馬車を降りて、殿下が当たり前のように続いた。そして、その後に続く私の手を殿下が形式上取ってくれるが、地面に着地するとすぐにその手は離された。そして、警護を一人残して、馬車の扉が閉められた。
扉を開いた御者は慇懃に頭を下げ続け、殿下がその御者に肯くのを合図に進む。もう私のことは放って置かれる。だから、私は警護の者に促され、軽く会釈をした後、その殿下を追いかけた。
歩き始めた先にあったのは、大きな庭だった。白砂の道を挟むように、低木が青々と茂り、その奥には針葉樹が聳えている。その森とも言える深い緑の中からは小鳥の囀ずりが聞こえる。
普通なら、ここも馬車で通り抜けそうな場所だ。しかし、殿下は当たり前のように馬車を降り、歩き出した。きょろきょろしていると、殿下が「疲れはないか?」と前を見たまま私に尋ねた。
「お気になさらないでください。私は大丈夫ですので。殿下こそお疲れではありませんか?」
「私は歩くことが好きだ」
普通に会話をしていることが不思議だった。
「私も、楽しく歩かせていただいています」
いつもと違う木々の匂いも、小鳥のさえずりも。なにより、自分の足で知らない道を、見慣れない景色を見て、何だろうと考えながら、ただ歩くことも。
ただ、本当に楽しい。
手入れされた大きな庭を抜けると、大きな扉の前に、ふくよかな女性がお辞儀をして私達を待っていた。四十代後半だろうか。落ち着いた雰囲気を持つ女性だった。
殿下が「遅くなった」と詫びると、彼女の柔らかさを表すような気安さで、その青い瞳を細めた。
「いいえ、殿下のためなら何時間でもお待ち致します。ふふふ、またお歩きになられたのですね。仰っていたもの、ちゃんとご用意もしておりますよ。でも、おいでにならずとも、参りましたのに」
殿下もその気安さを嫌がらずに、珍しく返事をする。
「いや、この者を外に連れ出したかったのだ。この者ひとりだと外出の許可が下りぬゆえ。これがトニカだ」
突然水を向けられた私は、慌てて頭を下げていた。いつもよりよく喋る殿下に気を取られていたせいだ。
「あらぁ。お聞きしておりますわ」
そんな私を嫌がることもせず、彼女は私の髪飾りを見つめると、嬉しそうな声を上げ、「かわいいお方ね」と続けた。殿下とはいったいどんな関係の方なのだろう?
「お初にお目にかかります。トニカ・アラバスと申します」
「どうぞ、そんなに硬くならず、私のことはリマとお呼びください。あなたはかわいいフィン様の婚約者ですもの、どうぞ気楽に」
と目を細めた。
殿下とどんな関係があるのかは分からなかったが、まだあまり公になっていない私の存在を知っているということは、王家と近しい関係なのかもしれない。それに、国の用向きひとつない私に護衛は付けられない上に、勝手に歩き回ってもいけない。何かものを買うのも、ナターシャに伝えて届けてもらうのだ。
いったいここはどこなのだろう。殿下はリマのことをとても信頼しているようで、連れてきていた護衛も屋敷の外で待たせる。よく分からない場所というものは、それだけで不安になってしまうものだ。周りを見渡せば、位の高そうな者が集めそうな調度品で飾られている。王家の紋に似ているとはいえ、似た家紋などいくらでもあるし、私が知らなかっただけで、彼女は殿下の親戚筋なのかもしれない。
ただ『気楽に』と言われて、全く知らない者をすぐに信頼できるわけでもなく、親戚なのであれば試されているのかもしれないし、油断していて嫌われるわけにもいかない。唯一、知っていて、いつも通りでいられるのは殿下だけ。
しかも、その殿下も何を考えているのか全く分からない。
ただ、彼女が悪い人ではないだろうとしか分からない。そんなリマについて行くと大きな広間に出た。
広間の真ん中にある長いテーブルには、何やらたくさんのものが並べられている。
様々な色があり、小さなリボンのような、輪っかのような……。
きょとんとしていた私に殿下がまた言葉を零す。
「トニカに選んでもらいたいと思っている」
見上げた先にある殿下の視線は降りてこない。
婚約当初はもっと背が低かったのに。
「何を選べばよろしいのでしょうか?」
すると殿下が口をとがらせ、ぼそりと言った。
「イブリンの首輪を……」
イブリンの首輪を……。
私は首を傾げる。
どうして今さら?
「イブリンはトニカのことも好きなようだし、それに、弟たちのことを考えていると、別の心配が過ぎるようになった。もし、イブリンが城外へ出た場合、そうなると町の者が関わってくるようになるから。王家の紋もつけておいた方が良いかと思ってな」
あぁ、そういうことですね。
「分かりました」
やっと合点がいった。
イブリンが城の外に出た場合、もし、町の者がイブリンを捕まえたのだとして。
「イブリン嬢は自由ですものね」
もし、王家の持ち物を町の者が、知らずに傷つけた場合。
「そうなのだ。実際困っている……なぜ笑うのだ?」
「いいえ、自由に町を歩くイブリン嬢を想像しただけでございます」
私は嘘をついた。
あれだけ喜んでイブリンに振り回されている殿下が、実際困っていたのだなんて。
「そうか。それと、トニカも好きなものを選べばいい」
「私も?首輪を?」
何を仰っているのか全く分からなくて問い返すと、殿下がきょとんとした。ふと懐かしい気持ちになった。
その表情は、彼の背がまだ私より低かった頃に、私に言い負かされた時の表情に似ていた。むきになって言い返す、その手前に見せていた、素直なお顔だ。
「何を言っておる。トニカには世話になっている。だから、町にあったものでも、ここにある他のものでもなんでも好きなものをやるということだ。感謝しているのだ。馬車の中から外は見ておっただろう?」
殿下がまだ何か話をしているが、意味のある言葉として耳に入ってこなかった。
…………感謝、している?
頭の中が真っ白になった。答えが分からない。殿下が何を言っているのかも分からなかった。
…………好きなものをくれる?
喋らない私を不思議そうに見下ろし、殿下が続ける。
……だって、殿下は……
「どうして父上がその髪飾りをトニカにやったのか分からないが、それは私の母のものだ。そんなもので縛られてしまうのは嬉しくないだろう? 私はトニカも自由で良いと思っている」
…………。
そっと髪飾りに触れる。
『思慮分別』と……。
リマの声が聞こえた。
「トニカ様の髪飾りはこちらに用意しておりますよ」
違う、と思った。
何が違うのかは、よく分からない。でも違う。別のものを選ぶのも、髪飾りが伝える意味も。
フィン殿下は、私の家族とは、違っていたのかもしれない。
あの言葉の『意味』が変わった。
鬱陶しがられているだけではなかったのかもしれない。
ただの『自由』だ。
殿下はいつも同じで、言葉は少ない。むしろ、足りていない。ただ黙って動かない私を見ているだけ。
わざわざ用意してくださったお気持ちを蔑ろにしようと思っているのではありません。でも、でも……。このまま動かないのも、違う。
「あ、あの、殿下。失礼を承知で申してもよろしいでしょうか」
「構わない。トニカはいつも失礼だからな」
言葉を考える。何も聞こえなくなる。心音が響く。何も考えられない。
だけど、喉をついた言葉が考えるよりも先にあった。
「もし、たとえば、殿下がお嫌でなければ、このままこの髪飾りを、私が、使ってもよろしいでしょうか」
殿下のお声はなかった。怒ってらっしゃるのかもしれない。だけど、構わず続けた。
「トニカは、フィン殿下のことをもっと知りたいと存じます」
そこまで言うと、時間が止まったように、次の言葉が浮かばなくなった。最後の審判を受ける罪人のような気持ちになった。
殿下の身の上もイブリンにしか興味が無いことも知っている。だから、別に婚約者ではなくてもいいと思っていた。殿下の役に立てるようになれば、ここにいられるかもしれないと、思っていた。だけど、一度も私を『異質』として見たことのない、彼自身のことは何も知らなかった。
だから、知りたい。教えて欲しい。あなたは、本当はどんな方なの?
だけど、その止まった時間を動かすように、リマの笑い声が響いた。
「ほら、言った通りでしょう? リモナもその方が喜びますわ」
リマに視線を移すと、殿下に向かっていたリマが私に優しく微笑んだ。
「妹は檸檬の花が好きでしたの。桃色の蕾に隠された純白……誠実な愛にぴったりじゃありませんこと? ねぇ、トニカ様、新しい髪飾りではなく、フィン殿下のことを知りたいのならば、何が欲しいの?」
――――
今、私達は檸檬の木の下にいる。殿下が生まれた日に植樹されたその檸檬の木の下には、彼の母が愛用していたテーブルと椅子が、木陰に守られて置かれている。
私が望んだのは殿下の時間。
殿下の膝の上にあるイブリンは桃色の首輪に紋章入りの金色の鈴を付けて、ぐっすり眠っている。
「お茶をお持ちしました」
ナターシャが二人分の紅いお茶を注ぎ終わると、呟くような声が、持ち上げられたカップに落とされた。
「イブリン……トニカは、変わった女だ」
なんとなく、昇格したような、そんな気がした。
えぇ、でも殿下は私など比べものにならないくらいに、相当変わっておられます。
相変わらずイブリンしか見ていない殿下を眺めながら、ティーカップをそっと持ち上げた。
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