第8話 待望の瞬間


 伊万里と歩き慣れた通学路を歩く。

 相変わらず上機嫌の伊万里は、随分と俺の家に行くことを楽しみにしているらしい。


「何度も言うけど、あんまり期待しても面白いものは何もないからな?」


「分かってるって」


 伊万里は言うが、何かを期待していないとおかしいテンション感なのだ。


「(ほんとわかってんのかな……)」


 俺は嘆息し、足を進める。

 少しして待望の家に到着し、鞄から鍵を出してカチャリと扉を開けた。


 伊万里を後ろに、ゆっくりと扉を開き……。


「ただい――」



「お、おかえり! 兄さん!」



 玄関で俺のことを待ち構えていた雪音と目が合う。

 俺を見ては嬉しそうにはにかんでいた雪音だが、徐々に視線は俺の後ろにいる伊万里へと移っていき、ぴしゃりと固まる。


「ただいま、雪音。ごめん、ちょっと今日、伊万里が来てて」


 紹介しようとすると、伊万里が空気を読んで俺の背後からひょいと顔を出した。

 

「こんにちは! 三好くんのクラスメイトの伊万里真里です」


 ――本来、伊万里真里という人間はあらゆる動物から好かれる傾向にある。

 学校ではもちろん人気者だし、俺はここまで老若男女に好印象を抱かれる人物を知らない。


 しかし、そんな仏のような伊万里に対し、雪音は無表情で、いや若干顔を歪ませた。


「ゆ、雪音?」


 俺の声など聞こえていないようで、伊万里と雪音の間で無言の探り合いが始まる。

 雪音が一瞬、鋭い視線を伊万里に送ると、逃げ出すように階段を駆け上がり自分の部屋に入ってしまった。


「な、なんだったんだ今のは……」


 あっけに取られる俺に対し、伊万里は「なるほど」と呟きながら顎に手を当てる。


「そういう感じか……なるほどね」


「何がなるほどなんだ?」


「いーや、別に?」


「は、はぐらかすなよ。なんか思うところというか、分かったことがあるんだろ?」


「……ま、ここで私が言うのも違うし、それに三好くんは知らない方がいいよ?」


「知らない方がいい……」


 今の一瞬の探り合いで、一体何が分かったというのか。

 気になりはするが、そこまで言われてしまえば深追いはできない。


「俺は何が何だかさっぱりだったけどなぁ、今の」


 俺が言うと、伊万里は人差し指を俺につきだし、にひっと笑った。



「あれは女の子にしか分からないよ」



「そ、そうか」


「さ、とにかく三好くんの部屋に行こ!」


「お、おう」


 伊万里に背中を押され、促されるまま家に上がる。


 結局今のは何だったんだろう。

 やはり気になるのだが、どれだけ考えたってわかりそうもない。

 考えるのをやめて、俺は階段を上り始めた。





     ◇ ◇ ◇





 私は部屋に戻って、ベッドに座って枕をギュッと抱きしめた。

 

「(な、なにこの感情! 胸が熱い……! それに苦しい!)」


 私がこんな気持ちになったのは、実を言えば割と前からなんだけど、でも痛いほどに強くなったのは、間違いなくあの人を見てからだ。


「(間違いない。あの人、兄さんのこと……)」


 根拠はないけど、本能が絶対にそうだと告げていた。


 心臓だけが今にも飛び出して走り出してしまいそうなくらいにバクバクと鳴っている。

 ど、どうしよう。どうすればこれは治るんだろう!


 分からない。私はこんな気持ちになったことがないから、対処法も、そもそもこの正体も分からない。

 

「(うぅ~~~~~~~~~~っ!!!!!)」


 枕に顔を押し付けて、声にならない叫びをあげる。

 すると階段から足音が聞こえてきて、兄さんと伊万里さんの話声が耳に入った。


「でも私、男の子の部屋に入るの初めてかも」


「え、マジか! 伊万里モテるからそういう経験あるのかと思ってたよ」


「そういう経験? 何それ~?」


「ちょ、お、俺をからかうのはやめろよな!」


「あはは、ごめんごめん」


 ――ぐしゃっ。


 いつの間にか枕を抱きしめる腕に力が入っていた。


「(に、兄さんあの人と仲よさそう……つ、付き合ってたりするのかな)」


 疑惑が浮かんだ瞬間、私の胸が急に締め付けられる。


「(やだやだやだやだ! 兄さんがあの人と付き合ってるなんて絶対に嫌だ! だって兄さんは、私だけの……)」


「はっ!」


 ここで気づく。

 私は今、兄さんをあの人に取られるんじゃないかと思ってこんなにも体が熱いんだ。

 ということは私、兄さんのことを異性として……。


「(う、嘘……これが、恋ってことなんだ)」

 

 まさか自分が恋をするなんて思ってもいなくて、驚いてしまう。

 すると隣の兄さんの部屋から声が聞こえてきた。


「あ、意外に綺麗にしてるんだねー」


「物がないからな。汚くなりようがない」


「へぇー。わ、ベッド大きいね」


「謎にダブルベッドなんだよな。父さんが前に使ってたやつのおさがりだから」


「いいね~、よいしょっと」


「な! い、伊万里! 今のお前めちゃくちゃみだらな姿してるぞ⁉」


「え? そう?」


「……あの、ほんとやめてくれます?」


「えぇーどうしよっかなぁー」


「伊万里は自分の持ってるもののヤバさに気づけ!!!」


 二人の会話を聞きながら、私はどんどん黒い何かに体が侵されていくのを感じていた。


「(兄さんがあの人とえっちなことを……兄さんが私以外の女の人とえっちなことを……)」


「やだやだやだやだやだやだやだやだやだやだやだやだやだやだ……」


 無意識に私は呟く。

 隣の部屋から依然として、楽しそうな声が聞こえてきていた。


「今、部屋で二人きりだね」


「隣の部屋に雪音いるけどな」


「あーじゃあ残念だったね、三好くん?」


「残念って何⁉ ってかこの人、明確に自分のストロングポイント把握してる⁉ そんでもって、俺の弱点突かれてる⁉」


「ふふっ、でも私、こういうえっちなからかいは趣味じゃないんだよ?」


「じゃあなんでするんだよ」



「それは……まぁ、三好くんだからかな」



 その言葉を聞いた瞬間、私は胸の内から湧き出る未知のエネルギーを動力に、無意識のうちに兄さんの部屋に突撃していた。

 そして、私は声を大にして言い放った。




「――兄さんは私だけのものなの!!!!」




 そしてようやく、雪音は――覚醒した。


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