第1話 長女 蓬莱杏菜(ほうらいあんな)
♪ピンポーン
貫太郎はインターホンを鳴らす。それは誰の家でもない、貫太郎宅の隣の蓬莱家。
♪ピンポーン
再びボタンを押す。だが特に応答はなく、ドアに耳を
(ったく、人のこと呼び出しておいてッ……)
貫太郎は手に持ったスマホの画面に目を落とす。映っているのは、数分前までやりとりをしていたはずのトーク画面。
『かんちゃあん、たしゅけて』
『どうした?』
『おなかすいた』
『あっそ。じゃ』
『ねぇえ!!』
『お前の方こそ何やってんだよ。平日の16時だぞ。仕事は?』
『ふふ、あんなちゃんはゆーしゅーなので?なんと……今日は……ゆーきゅーでぇす!!だからぁ、今日は1日ヒマだったんでぇ、朝から飲酒デーなのです!』
『さよなら』
『ねぇええ!毎日せっせと働いてる社会人に対しての礼儀がないぞ!もっと敬え!!』
『酔っ払いの戯言に付き合ってるほど俺も暇じゃないんだが』
『もっとかまってぇ!晩ごはんも作りにきてぇ!とーかとろあちゃんももうすぐがっこから帰ってくるからさぁ』
貫太郎はブレザーのポケットにスマホを仕舞った。酔っ払いのダル絡みは、既読スルーくらいが丁度良い──
そう思っていても、帰路に着いた貫太郎の足は自然とこの扉の前にあった。
いくら世話焼きな性分と言え、呑んだくれの介抱をするのは気が乗らないが、無視出来るほど杏菜に対して無情かと言われれば嘘になる。
それに自宅のドアを開けるのと蓬莱家を訪ねるのとの違いは、たかが数歩の距離だ。
(様子だけ見て帰る。杏菜さんの生存確認と部屋の様子だけ見たらすぐ帰る……)
なかなか開く兆しのない扉の前で、貫太郎はつま先で地面を鳴らしながら、再度チャイムを鳴らす。
♪ピンポー……
ガチャッ!
「かんちゃん、おかえりぃ〜♪」
チャイムが鳴り終わる手前、玄関の戸が開いたと思った矢先、アルコールの匂いを纏った女性が貫太郎の胸の中へ傾れ込んできた。
「ちょ、うわ、杏菜さん酒くさッ!」
「にへへぇ〜♪あさからのんでるからねぇ〜、ヒック!」
覚束ない足取りで、蓬莱家長女である杏菜は貫太郎に抱きついた。柔らかく豊かな感触が服越しにも伝わる。貫太郎が視線を下げると、杏菜が上目遣いにこちらを見つめていた。
きめ細かい白い肌と、美人たらしめる細い鼻筋に映える二重瞼。長い睫毛の隙間から覗く、焦茶色の瞳は酔っているせいか蕩けて色香が漂う。
いくら幼馴染みで見慣れているとは言え、無防備な美女との密着に、流石の貫太郎もドキリと一瞬鼓動が早まった。目のやり場に困り、貫太郎は彼女の全身を見る。
すらりとした身体を覆うスウェットは、肩がずり落ちそうになるほどよれてみすぼらしい。切り揃えられたショートボブの毛先も、寝起きのままのように爆発している。朝から一歩も外へ出ずに、呑んだくれていた事実を認めざるを得ない風体。
貫太郎はこの美女が、蓬莱杏菜であることを再認識した。
「……ほら、さっさと中入るぞ」
貫太郎は抱き付かれた杏菜の腕を引っ剥がし、千鳥足の身体を支えながら蓬莱家へ足を踏み入れる。
「やだぁ、かんちゃんやさぴ〜」
「うるせぇ、酔っ払い」
ドアを閉めると、貫太郎は玄関に杏菜を放り投げ、馴れた足取りでズカズカと蓬莱宅へ侵入する。
「ちょっとぉ!このあたしをおいてくのぉ!」
「
「ぜんげんてっかぁい!かんちゃんのいけず!」
うだうだと駄々を捏ねる杏菜をよそに貫太郎はリビングの扉を開くと、惨状を目の当たりにした。
「ちょっと来ない内にこれかよ……」
机の上は、空き缶やら飲みかけのペットボトルやら、洗っていないコップたちが
おそるおそるキッチンに目をやれば、シンクには食器の山。ゴミ箱はパンパンにゴミが詰まっており、そもそも分別もしているかどうか定かではない。
「杏菜さん、ゴミはちゃんと分けて出せって言っただろ!」
「だってめんどくさいじゃ〜ん。だいじょぶ、全部燃えるよぉ」
「マンション追い出されても知らねぇぞ」
「あたしたちが追い出されないよーにするために、かんちゃんがいるの♪」
「っ、この……!」
ヘラヘラと笑いながら、杏菜は冷蔵庫からビールを取り出す。
カシュッ、と爽快な音のすぐ後には、すでにゴクゴクと喉を鳴らし、「っぷはぁ〜〜!かんちゃん見ながら飲むビールは美味い!」と白いひげを上唇につけながら快活に笑った。
「ったくよぉ……!ほら、飲むなら向こうで飲んでくれ。邪魔だ邪魔!」
貫太郎はビール片手に彷徨く杏菜を追い払い、ゴミ箱に手を付ける。
「ありがとぉ〜かんたろママ〜」
「誰がママだ。それに年齢的には杏菜さんの方がママだろ」
「はぁ〜〜!?まだそんな歳いってませんけどぉ!?まだ24ちゃいですけどぉ!」
「24ならゴミの分別くらいはしてくれよ」
「はにゃ?あたち4ちゃいと240カ月だからわかんにゃい!」
「だりぃ……」
杏菜はソファにもたれ、投げ出した手足をばたつかせ、けたけたと戯けて笑う。
深く大きなため息を吐きながら、貫太郎はせっせと手を動かす。
(とりあえず、ゴミを捨てる場所と洗い場を確保しねぇと……どうせ増えるだろーが……)
貫太郎は玄関とリビングを繋ぐ廊下へ目をやった。リビングとは逆方面に廊下を曲がると、そこにはそれぞれ三姉妹の名前のプレートが飾られた3枚の扉が鎮座している。
貫太郎の管轄は、あくまでリビングなどの三姉妹の共用スペースのみ。
彼女たちの各自室には入ったことがない。
とは言え、リビングだけでこの有り様である。
貫太郎は、
「……絶対、部屋は掃除しないからな」
「んうぇ?なんか言ったぁ?」
「……なんでもねぇよ」
「あっ。もしかしてぇ、部屋入ってパンツとか見たいって思ったぁ!?もう、言ってくれればパンツくらい見せたげるのに」
杏菜はズボンのゴムを引っ張り、中を覗き込むと「今日は黒ね!」と冗談めいた口調で告げる。
「うるせぇ、呑んだくれ!聞いてねぇし部屋に入りたくもねぇ!」
貫太郎が盛大な舌打ちと共に叫ぶと、杏菜は「ちぇっ、つれないなぁ」と子供のように唇を尖らせた。
「言っとくけど、部屋は結構みんなきれいだよぉ?」
「ふーん……」
杏菜の自慢げな声色に貫太郎は話半分に相槌を打ちながら、リビングへ目をやった。
散乱したゴミと、衣服。そしてソファで呑んだくれる杏菜。
「絶対嘘だろ」
貫太郎は杏菜の姿を見るや否や、ハッと鼻で笑う。
「嘘じゃないし!」
貫太郎の発言に異を唱える杏菜。
だが、貫太郎にとっては、その姿には何の説得力もなく、貫太郎はピーピーと囀る杏菜に目もくれずに淡々と片付けをこなしていくのであった。
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