第二章 飢え③

 さて、いつもならギリギリな時間での登校になるのだが、今日は空腹で起きたがために予想外の空き時間ができてしまった。こういう日はなぜか時間の流れが遅く感じられるもので、何度も時計を確認しては後悔してしまう。


 いつも一緒に登校する楓に断りを入れて、今から一人で向かってもいいのだが、今から行っても朝練で忙しい野球部員を眺める以外に暇を潰すことはできない。今からキーボードを弾くのもいいかもしれないが、熱中して登校時間に間に合わないのは分かりきっている。せっかく早く起きたのに、遅刻はしたくない。


 予想外の暇加減にうんうん唸っていると、外から食欲をそそる良い匂いが漂ってきた。朝食を食べたばかりだというのに、腹の虫は正直なようで、ぐぅと情けない音を立てた。


「百合ー。楓ちゃんが迎えに来たわよー。寝てるのー?」


 母が一階から大声で私を呼ぶ。


 この不思議で美味しそうな匂いの元は楓なのではないだろうか。そう考えると、途端に怖くなって、急いで学校用の鞄を引っ掴むと、どたどたと大きな音を立てて階段を下りていった。


「そんな急いで下りたら階段が壊れるでしょ!」


 母がそう怒鳴りつけるが、私は素知らぬ顔でその横をすり抜ける。


「それじゃあ行ってくるねー」


 私は革靴を急いで履いてしまうとそれだけ言い残して、家を後にする。後ろでまだ母が何か言っていたが、私はさっさと玄関を後にした。


「おはよー百合」


 門の前で本を読んでいた楓が、私に気が付くと顔を上げて笑いかける。やっぱり、楓から美味しそうな匂いが漂ってきた。私はその匂いの理由を不思議に思いながらも、抱いた疑問に封をして挨拶を返した。


「そう言えば、何読んでたの?」

 歩きながら尋ねると、楓は今まで読んでいた本のブックカバーを外し、私に差し出した。


「芥川龍之介の『地獄変』かぁ……。これ、怖くて結局最後まで読めてないんだよねー」


「確かに怖い話だよね。人間は何かのためにどこまで狂うことができるんだろうって考えると、怖くて仕方がなかったし。夜に読んで後悔しちゃった。朝なら大丈夫と思ったけど、怖いものは怖いままだったから、またちょっと後悔」


 楓はそう言って赤い舌をちろっと出して笑った。


 吸血鬼の私より赤いそれを見て、知らず知らずのうちに血を連想してしまう。喉がごくりとなって、胃がきりきりと痛んだ。あの舌はどんな味がするのだろうか。そう考えるだけで唾液が私の口に溢れた。


 あぁ、彼女はなんて、美味しそうなんだろうか。


「――どうしたの百合? なんか変だよ?」


 その声に思わずはっとする。私は今何を考えてたんだ。


 楓が美味しそう? 今まで考えたこともなかったのに、私はいったいどうしたというんだろう。


「ううん! なんでも無いから気にしないで!」


 私が無理矢理に笑顔を浮かべると、楓は訝しむようにしながらも「そう?」と言って引き下がってくれた。


「あっ、そうだ。今日はどうしていつも来る時間より早かったの?」


 私は安堵すると共に、急いで話題を変える。今の状況を掘り返されたらどうして良いか分からない。


「ん? 今日は何となく早く目が覚めちゃってさ。それで、迷惑かなーと思ったんだけど早く来てみたの。大丈夫だった?」


 楓は心配そうに私の顔をのぞき込みながら尋ねる。


「うん、大丈夫だよ。私も今日は早く目が覚めたからさ」


 それを聞くと、楓は「良かった」と言って胸を撫で下ろした。


 それから学校に行くまでは昨日までと同じ、たわいもない話で盛り上がった。


 ただ、楓からは私の食欲を刺激する匂いが絶えず漂っており、私の胃袋からは、ぐぅと情けない音が何度も何度も鳴っていた。


 学校に行ってからもこの食欲は私を苦しめた。授業を受けている間。休憩時間。昼食を食べている時間でさえ、私の胃袋は物足りないと訴え続けていた。


 学校が終わると、さすがに恐怖心を覚え、楓と柚子には悪いが先に帰ることにした。学校から離れるほど匂いは遠くなり、少し安堵する。


 認めたくはないが、やはりこの匂いは楓本人から漂ってくるのかもしれない。いや、きっと気のせいだ。もしくは何か原因があるのかもしれない。私はそう考え直して、帰路を急いだ。

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