その32「夏夜姉が彼氏の話をした」
俺が夕食の準備をしていると、浴室から夏夜姉が出てきた。ミディアムヘアはしっとりと濡れ、顔は上気していた。いつもかけている細身の眼鏡は、今はかけていない。
「いいお湯だったわ」
「そう。よかったよ」
俺はまな板の上のにんじんを切りながら言った。
深月姉は、ずっと机の前に向かい、ゲームの構想を練っていた。その表情は、この数ヶ月で、見たこともないような真剣なものだった。
野菜を切り終えると、俺は調理を中断して、グラスにオレンジジュースを入れて深月姉に差し出した。深月姉は黙って受け取り、一口飲んだ。
「し、仕事中に夕一にオレンジジュースを入れてもらえるなんて、うらやましい……」
夏夜姉は心底うらやむ目で深月姉を見ていた。
「夏夜姉にも入れようか?」
「いいわ。もうすぐ晩御飯だし。それより、姉さんは夕一がジュースを入れてあげても、いつもあんな反応なの?」
「いや、そうでもないよ。いつもなら笑顔で感謝してくれるし。今はかなり真剣なんだよ」
「なるほど……」
夏夜姉は、バスタオルを洗濯機の中に放り込んだ。
「姉さん、どう?進んでる?」
夏夜姉の言葉に、深月姉は静かに首を振る。
「うまくいかないもんだね。ゲームはたくさんやってきたつもりだったんだけど」
2人で話し合い、作るゲームはADVに決めたようだった。女の子を主人公にした、女性向けの恋愛アドベンチャーゲームだ。だが、深月姉の案出しが思うようにいかず、話は進んでいなかった。
「んー、いったいダンプカーをどこで出せばいいんだろう」
「……そもそも、ダンプカーを出す必要があるの?」
それに関しては、まったくもって同感だった。
「恋愛モノにするにしても、姉さんそんなの書けるの?」
「書けるよー。もう名作級の、全米が涙するやつ」
「日本語のゲームで、どうやって全米を涙させるのよ」
夏夜姉はため息をついた。
「姉さんってたしか、彼氏の一人もできたことないんじゃなかった?」
「むぅ、それは夏夜ちゃんも同じでしょ?」
言い返されて、言葉が出ない夏夜姉。しかし、少ししておおよそ夏夜姉らしくない含み笑いをし始めた。
「……あ、甘いわね姉さん!私をいつまでも昔と同じだと思ってもらっては困るわ!」
「えっ、ということは、夏夜ちゃん、彼氏いるの!?」
「へぇ、夏夜姉に彼氏が……」
夏夜姉は俺の顔を見てくる。だが、あるときしょぼんとして、視線を深月姉に戻した。
「ねぇ、彼ってどんな人なの?」
「そ、そうね……。すごく知的で、社交的でワイルドでおしゃべりでクールだわ」
「おしゃべりなのにクールなのか……?」
俺の言葉に、夏夜姉はひきつった笑いを浮かべる。
「ひ、日ごとにテンションを替えるタイプなの」
「まるで日替わりランチみたいな性格だな」
夏夜姉は返す言葉も失って、また取り繕うように彼の話を始めた。
「もう私に夢中で、本当に束縛が強いのよ」
「でも、束縛強いのに、夏夜ちゃんよくすぐにうちに来れたね」
「しゅ、週休二日の束縛なのよ」
「なにそのシステマティックな束縛……」
夏夜姉はただただ引きつった笑いを浮かべた。
深月姉は視線をノートPCに移し、また難しい顔に戻った。だが、あるときなにか思いついたようで、ニヤリと笑った。
「夏夜ちゃん」
「な、なに、姉さん?」
「夏夜ちゃんは、その彼のことが好きなんだよね」
「も、もちろんじゃない。目に入れても痛くないわ」
ツッコミどころのある発言だったが、あえてスルーをして深月姉は続ける。
「いつかは、同棲も考えているの?」
「そうねぇ。実際何度も頼まれてはいるんだけど、オーケーしようか迷っているのよ」
「束縛の強い彼なんだよね?」
「ええ」
深月姉はしたり顔をした。
「それじゃ、夕一と一緒に暮らすなんて、とてもじゃないけどできないよね?」
その瞬間、夏夜姉の表情が一気に青ざめる。そして、急に沸騰したかのように赤くなった。
「ちょっと待って姉さん!それとこれとは話が別よ!」
「別じゃないよ夏夜ちゃん。同棲しようかというところに、夕一を住まわせるなんて教育上よくないよ」
「教育って……。俺一応19なんだけどな……」
そんな言葉には耳を傾けず、二人はヒートアップする。
「彼にも言い含めておくからいいのよ!」
「でも、束縛が強い彼なんでしょ?」
「お一人様一人まで許容してくれる彼なのよ!」
「なにそのスーパーのセールみたいな束縛」
夏夜姉は混乱したのか、両膝をついて頭を抱え込んだ。
「か、彼は繊細で、話せばわかってくれる人なのよ!」
「でも、さっきワイルドって言ってたよね?」
夏夜姉の顔が、また赤くなる。
「ああもう、嘘よ嘘!!彼氏なんてできたことないわよ!これで満足!?」
夏夜姉はひざをつきながら部屋の隅まで移動し、部屋の角にたたまれた布団に顔をうずめた。
「なつよちゃん、よしよし」
汐里が一人、夏夜姉に寄り添い、背中を撫でる。それに感動したのか、夏夜姉は顔を上げた。
「汐里ちゃん………」
「うそでしか、じぶんをまんぞくさせられなかったんだよね……?」
「……………」
そのまま、また夏夜姉は布団に顔をうずめてしまった。
そうしてその日、夕食を食べるまで夏夜姉が口を開くことはなかった。
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