魔道具店夢乃屋

青崎衣里

~プロローグ~ 黒猫を飼い始めた①




 黒猫を飼い始めた。


 もちろん最初は自分で飼うつもりなんてなかったけど、雨の中、アパートの階段の陰でずぶ濡れになって鳴いている姿に気づいてしまったら、見ないふりをすることはできなかったのだ。


 せめて濡れている体を拭いてやって、引き取ってくれそうな人を探す間くらいはなんとか世話をしてみようと決めて、そっと手を伸ばした。

 野良のわりに人懐こいようで、逃げる素振りはない。


「よしよし、おいで」

 痩せた体はまだ小さい。きっと若い猫だ。抱き上げても軽かった。


 まずは部屋に連れ帰って体を拭き、やわらかい毛布にそっと包んで帆布バッグに入れ、抱えるようにしてアパートを出た。バス停の近くに動物病院があることを知っていたので駆け込んで診察してもらった。お財布には痛手だったけど、病気は持っていないと分かってほっとした。


 去勢手術の説明も受けた。もう半年は過ぎているだろうから手術するなら早い方がいいと勧められたけど、ひとまず体調を整えるのが先決ということで、落ち着いたらまた改めて検査を受けてくださいと言われた。本当に物入りだ。このまま飼い続けると、じきにこちらが干上がりそうだ。


 帰りにスーパーで餌と猫砂を買ったら腕が死んだ。


「早くおまえを引き取ってくれる人が見つかるといいんだけど」

「ニャア……」

 ひとり言に可愛い鳴き声が返ってくる。


 そんな甘えた声を出しても無駄だよ。こっちはペットを飼う余裕なんて全然ないんだから。譲渡会をやっているところに相談してみるとか、SNSで呼びかけるとか、とにかく早いところ何か手を打たなくては。


「ニャアァ~」

「私は飼ってあげられないの。ここ賃貸だし、失業したばっかりだし。世の中は人手不足のはずなのにねぇ、生え抜き以外は要らないんだってさ。真面目に働くのが馬鹿らしくなるよね」

「ニャァ」

 毛並みと同じで、見上げてくるつぶらな瞳も真っ黒だ。

 くるんとした丸い眼がつやつやキラキラ輝いている。

「…………可愛いなぁ」

「ニャニャァ?」

「だめだめ、絶対だめ。無理」


 病院や餌代でたくさんお金かかるし、そんな場合じゃないでしょと頭の隅で誰かがつぶやいている。分かっている。簡単に決めていいことじゃない。しかもここはペット不可の賃貸アパートだ。見つかったら追い出されるかもしれない。


 それなのに安物の毛布に包まってスヤスヤと眠ってしまった小さな生き物の頭をそっと撫でているうちに、名前は何にしようかなんて考えてしまっていた。

 要するに、抗えなかったのだ。手にした温もりと、その姿の可愛さに。

 運命だとさえ思ってしまった。


 まさか――――それが本当に運命の分岐点となって、普通の暮らしとお別れすることになるなんて、露ほども思わずに。

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