第42話 鎮魂歌/Requiem

 数分前。

 後悔の念にさいなまれる兄に見守られるなか、紗香はゆっくりと瞼を開けた。

 病院特有の消毒のきつい匂いと、電灯を真っ白に照り返す天井に鼻と目をやられ、彼女は小さく呻いた。


「ん、繚介……」


「紗香‼」


 それは、医師が宣告していたより遥かに早い目覚めであった。

 繚介は勢いよく立ち上がって、のめり込むように彼女の顔を覗き込んだ。がたんっ、と音を立てて椅子が転倒する。

 彼の鋭いが、このときだけは安堵で潤んでいた。


「えっと、わたしは……」


 繚介は起き上がろうとする紗香の肩を掴んで、シーツの上に押しつけた。


「しばらく安静にしていろ。体調は?」


「問題ないけど、お腹は空いてるかも……」


 紗香の言葉を聞いて、繚介はすぐさま流し台の前で林檎の皮を剥き始めた。

 彼女はその背中をしばらく見つめ続けたあと、次に窓の外に視線を飛ばした。不気味なほどに満ちた月は、真っ黒い空にぽっかりと空いた穴のようだった。

 ぼやけた意識が、徐々に焦点を結んでいく。


(そうだ、わたし……)


 思い出した。ここに至るまでの過程を。

 雨宮と衝突し、レインバードと戦い、そして――。

 記憶と一緒に、ひとつの不安が沸き上がる。 

 神崎と雨宮は、無事に元の生活に戻ったのだろうか?

 今は、どこで何をしているのだろう? 

 それだけが不安だった。

 もう、彼らと会うことはないのに。

 会ってはいけないのに。

 ……でも、最後に真実を伝える必要はあると思った。

 リビルダーズはもう終わったのだということを。

 そしてずっと隠し続けてきた、彼女自身の正体を。

 紗香はベッドの側に置かれた携帯をとって、電話アプリを開く。

 しかし、そこで一度手が止まった。

 画面に並んで表示された『神崎大翔』と『雨宮明』の連絡先の上を、彼女の指先が彷徨さまよった。

 雨宮は、きっと今も怒っているだろう。

 神崎はどうだろうか?

 今わたしが話そうとしていることを、信じてもらえるだろうか。

 彼女がそんな不安を覚えたのは、ただ自分が彼らの信用を失ってしまったからというだけでなく、抱え続けてきた真実が、あまりにも巨大で現実離れしているからだった。

 電話を掛けたところで、二人ともろくに取り合ってくれないかもしれない。

 胸の奥から、誰が好き好んでお前なんかと電話などするものか、という声がした。


「はあ……」


 一度大きなため息を吐いて、再び窓の外を見る。 

 空に浮かぶ満ちた月を見て、もはや自力ではどうしようもない状況に、彼女は願った。

 いるはずもない、救世主の存在を――。


 彼女の手の中で携帯が振動した。

 紗香は、驚いて飛び上がりそうになる。

 画面には『神崎』と表示されている。

 操作に慣れていないことも相まって、あたふたしてしまう。


「電話、出ていいぞ」


 繚介が背中越しに発した声を聞いて、紗香はようやく気を定めた。

 窓に映る自分の顔を見る。

 夜空に薄くはりついたもう一人の自分に、彼女は言い聞かせた。

 これは、救世主からの救いの手などではない。

 彼女の決意を試しているのだ。一人で戦う決意を。

 だから自分は、彼を徹底的に拒絶しないといけない。

 彼が、そして何よりも自分が諦めてしまう前に、携帯を耳にやって通話に出る。


「……もしもし。なんでかけてきたの」


 第一声は重要だ。

 声だけで伝えなければいけない分、拒絶していることがはっきりとわかるように、紗香はいつもより少しだけ低い声を出していた。


『紗香、もう目覚めてたのか。怪我の具合は?』


「……別に普通だけど。何の用?」


『いやあ、いまどうしてんのか気になってさ』


 その言葉には驚いた。

 彼は怒っていなかった。それどころか、自分が彼に対するのと同じ思いを抱いていたのだ。

 自分を、心配してくれていた。

 けれど、もうここで彼にすがりつくという選択肢はない。

 むしろ拒絶の意思を、より深く胸に刻み込んだ。

 今ここで真実を告げて、終わりにしよう。


「あなたにはもう関係ないでしょ。わたしたち――リビルダーズは、もう終わってるのよ。家族ごっこも友達ごっこも、これでおしまい」


『お前、この前もそんなこと言ってたな。それじゃあ俺は何もしてやれないぞ』


「何かしてほしいなんて、言ってない。それに……責任は、とる。あとはわたしが片付けるから。神崎くんは今どこにいるの?」


「雨宮の家だよ。こっちにしばらく泊まることになるらしい」


 視界の隅で、病室の扉が静かに開かれた。入ってきたのは病院の清掃スタッフで、掃除用具などを積んだカートを押していた。その男はキャップを目深に被っており、そのおかげではっきりと視線が交わることはなかったものの、紗香はほとんど無意識に会釈した。

 そして、意識はすぐに電話口の神崎に戻る。


『そ。じゃあ――もう、かけてこないでよね』


「なんでそんなに拒絶するんだ」


 紗香は自分の手のひらに視線を落とした。閉じて、開く。目覚めてすぐのときに感じていた痺れは、もうなくなっていた。

 今もこのなかを流れている赤い血は、きっと神崎のものと見分けがつけられないくらい同じもののはずだ。


「それは、わたしが――」


 ――わたしが、化け物だからよ。

 そう言おうとした直前に、繚介が叫んだ。


「――まずい、紗香‼」


 すぐに手のひらから視線を上げた。

 一瞬の出来事が、何秒にも引き伸ばされたように感じられた。

 清掃スタッフの男が、キャップの奥から彼女を睨みつけている。その手には拳銃が握られ、サイレンサー付きの長い銃身が、紗香の両目の間に向かって突きつけられようとしていた。

 横から繚介が身を低くして突進し、男を床の上に転倒させた。

 放たれた銃弾が標的を外し、紗香の頬を掠めて窓に小さな穴を開ける。 

 紗香はベッドの上から飛び出し、繚介と同時に男を押さえ込み――転倒した拍子に帽子を落とした彼の顔を見て、二人は戸惑った。

 髪の毛が一切なく、頭皮の完全に露出した頭部。

 さっき目が合わなかったのは、キャップのせいではなかった。

 男の眼球が、深い眼窩の空洞のなかにあったからだった。

 その相貌は、薄い皮膚だけが張り付いた骸骨のようだ。

 ぎょろぎょろと丸い眼球のある髑髏が、紗香を真っ直ぐに捉えた。 

 途端に、彼女の視界を万華鏡が埋め尽くすように、色とりどりの閃光がばちばちと弾けた。目を眩ませて、紗香は後退った。

 壁に背を預けて両目を覆いながら、彼女は言う。


「この能力……〈649番〉ね」


「今のコードネームは……WildFireワイルドファイアだったか? しぶとく生きてやがったか」


 繚介はそう言って、ワイルドファイアの手首を捻って拳銃を落とした。


「一度殺された俺は、前よりもさらに強いぞ」


 今度はワイルドファイアが、あらぬ方向に腕を曲げて呻きながら、掴まれた手首から繚介の身体に全身を絡みつかせた。

 二人は揉み合いながら、床をごろごろと転がり回る。上下関係が何度も入れ替わったあと、繚介がベッドの角に背を打って怯んだ。その隙に、ワイルドファイアは立ち上がり様に軍用ナイフを取り出し、紗香に向かって駆け出す。

 彼女はふらつきながら回避の姿勢を取ったが、間に合わなかった。

 黒い刃が横腹に突き刺さった。

 薄いピンクの患者衣の上に、みるみるうちに濃い赤が広がっていく。

 ワイルドファイアは片手だけでナイフを握り締め、傷口をさらに深く抉ろうとする。驚異的な力だった。

 紗香は彼の手首を掴むと、発火能力を発動した。

 紅色に開いた瞳孔が、骸骨のぎょろりとした目と睨み合う。

 彼女の手のひらから溢れ出た炎は、一瞬のうちにワイルドファイアの片腕から全身を灰に――できるはずだった。

 まだ彼女の目の前にいて、刃を深く押し込もうとしているワイルドファイア。

 紗香の放っている炎は、彼の腕から吸収されるように消えていっていた。

 骸骨は、歯を剥き出しにして、笑った。


「言っただろ、俺は殺されるたびに強くなる」


「あんたまさか……〈血清〉を使ったのね」


「それも、ちょっとやそっとの量じゃないぜ」


「化け物め……ッ!!」


「それはお前もだろ」


 刃がより奥深くに突き刺さる。

 紗香が声にならない悲鳴を上げ、化け物がけたけたと笑う。

 しかしその声はすぐにかき消された。

 まるで食器棚かなにかをひっくり返したような、という激しい音。

 ワイルドファイアが病室に入ってくる時に押していた、掃除用具のカートだった。繚介が蹴飛ばしたカートが、ワイルドファイアを撥ね飛ばした。

 丁寧にワックスがけされた床のタイルに足元を滑らせ、彼は両脚のバランスを崩していた。

 さらに繚介は飛び上がって、天井からぶら下がる蛍光灯を掴み、それをワイルドファイアの真上に叩き落とした。それは見事に直撃するが、彼は怯みもせずに立ち上がった。


「じっくりと殺してやりたかったが、二人相手じゃ分が悪いな」


 ばっ、と両腕を広げるワイルドファイアの全身から、ばちばちと火花が弾け出した。


「お互い、本気でやろうぜ」


 その言葉を聞いたとき、紗香は思わず笑みを浮かべていた。

 このときを待っていた、とでも言いたげな、狂気的な高揚感に満ちた目つき。敵の表情にも、まったく同じことが言えた。

 彼女の横腹には、ナイフが突き刺さったままだった。


名前が付いたネームドくらいで、調子に乗らないでくれる?」


 血を吸い切った患者衣は、真っ赤に染まっていた――赤い捕食者レッドプレデターの獣性が、ゆっくりと鎌首を擡げはじめる。




 一方で、繚介は焦っていた。

 一度目にした彼にはすぐにわかる。予知能力など頼る必要もなかった。あれは、ワイルドファイアがこれからやろうとしているのは、自爆――捨て身の攻撃だ。

 大量の血清を摂取したワイルドファイアが、今の全力を尽くしたとき、それはどれほどの威力を意味するのか。

 繚介の予知能力は、命の危機だけを事前に察知できても、その対処法までが完璧に分かるわけではない。具体的な未来視の映像ヴィジョンが見えることもない。ただ鋭いだけの、ほとんど勘と言っても良い。

 予想のしようがなかった。もはや逃げ場はないのかもしれなかった。


「紗香っ――!!」


 ただ、今はこの場を出来る限り離れようと紗香に呼び掛けようとした。

 しかし、彼が隣を見たとき、紗香はすでに――そこにいなかった。

 窓硝子の砕け散る音がした。

 監理局に鍛え上げられた動体視力をもつ繚介にかろうじて見えたのは、背中に巨大な月の光を受けた紗香が、ワイルドファイアの全身を抑え込むように抱えたまま、落下していく姿だった。




 紗香の耳に届くのは、どれも雑多な音だった。

 空気がと唸っている。

 火花が弾けるときの、妙に軽快なさざめき。

 下からは、眠らない街の喧騒が近づいてくる。

 それらは耳に届くというよりは、まるで耳の中だけで音が発生して反響しているような、そんな感覚だった。


「――今は、俺こそが最強の発火能力者パイロキネシストだ」


 雑音の中から、ワイルドファイアの声がした。

 彼の全身から放たれる火花が、激しくなった。

 じりりりりり、という音が、紗香の聴覚を埋め尽くす。

 やがて視界も、色とりどりの火花だけになった。

 紗香も、能力を全開にする。


「炎の王は、俺なのさ」


 満足気にワイルドファイアは言っていた。

 それはどこか、自分の勝利を讃える凱歌がいかでも口ずさんでいるように聞こえて、紗香は思わず、くすりと笑ってしまった。


「あなたが〝王〟だって言うのなら――」


 ぐるぐると落ちていきながら、紗香は彼の耳元で囁いた。


「――


 その瞬間、夜空に閃光が咲いた。

 カラフルな火花が、ひときわ激しく弾ける。

 それもすぐに、真っ赤な炎に覆われて、見えなくなった。

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