第四章 空と月と窓に訪問者3
川を渡るために作られた大きな橋を、ほうほうの体(てい)で走って行く男が一人――。
頭を二色の色に染めたその男は、顔だけを恐怖に染めていた。
使っていたバイクはさっき壊れてしまっていた。その時、体に三つの引っ掻き傷のような怪我を負っていた。
爆発炎上までした不幸は、彼の死神がかなりの痛手を受けたことを示していた。
「ちくしょう。アウロー、アウローッ。……使えねえ。肝心な時に白猫(、 、)なんかにやられやがって。くそぅ」
掠(かす)れた声で、服の煤(すす)を忌々(いまいま)しげに掃(はら)う。
死神がいなければ、幾つもの不幸がその身に降り掛かる。今更ながらに戦慄(せんりつ)して、男は苦悶の呻(うめ)きを上げた。
「あん?」
前に一人の人間が灯(とも)った街灯の下にいた。
その人間はスーツ姿に身を包み、隠し切れない獰猛(どうもう)な瞳を丸眼鏡を掛けて緩和させていた。
相手はまだ気付いていない。
「はは。やっぱついてるぜ」
服の下からナイフを一つ取り出し、ゆっくりと忍び寄る。
目の前にいる人間の姿が更によく見えてくる。
あの邂逅(かいこう)の時と同じようにシナモンスティックを口に咥(くわ)えて川の流れを見ている。
確実に間を縮め、後はもう飛び出せば仕留められる位置まで来た時、女が口を開いた。
「そんな物で私を殺せると思ってるの?」
静かな、底冷えのする声音(こわね)だった。
ぎくりとした男はそこで立ち止まり、それからすぐにナイフに触れて持ち直した。自分は武器を持っている。相手は持っていない。今は自分と同じで死神が弱っているから単純な力比べだけを考えれば良い。
「ふざけんなよ。この状況が分かって言ってんのか」
「ええ。よーく分かってるわよ。あなたがどうしようもないってことが」
自分の方を向きもせず、暗い川の流れを見ていることに男は言い知れぬ怒りを覚えた。
独善にもならない身勝手な思いを男は年上の女にぶつける。
「どいつもこいつも、人を見下しやがって…………。ぶっ殺してやる!」
ナイフを小脇に抱えて男は女に目掛けて走る。走る。走る。
けれど、どれほどに走ろうとも女に近付くことはできなかった。そればかりか、段々と後ろへと下がって行っていた。
「な、なんなんだ」
足元を見る。足は、前へと進んでいるはずだった。しかし、男が見たものは常軌(じょうき)を逸(いっ)していた。
「おい……おい、何してんだよ俺の足は。なんで、なんでバックなんてしてるんだよっ。ちくしょう。前だ、前に行けよっ」
前に進もうとすればするほど、足は後ろへと戻って行った。
「お、お前かっ。お前だな。俺に何をした! 言えよっ」
よたよたと後ろへ下がりつつ男は恐怖に染め抜かれた顔で訊いた。
「大したことじゃないわよ? ちょっと、デルイの力をあなたに掛けただけ」
「う、嘘だっ。アウローの、俺の死神が負わせた傷は治り難(にく)いんだよ! あんだけの傷が一日で治るわけねえんだっ」
「事実として、そうでなければ何があなたを意に沿わぬ行動をさせてるのかしら」
「あ、ああっ」
凶悪な笑みを常套(じょうとう)としていた男は今、自分にそれが向けられることに耐えられなかった。
「ありえない。ありえないっ。そんなの死神が弱った奴でもされるはずがない(、 、 、 、 、 、 、 、)っ……」
ひ、ひひ、と漏れ出る息は何故(なにゆえ)出た物か。
恐怖か、焦りか、目の前の現実を受け入れられないからか。
どれにせよ、男が自分の体を思うとおりに動かせない事実は変わらない。
「なら、死んだんでしょ。あんたの死神は」
「ありえない。ありえない……」
「どうやってかは、知らないけど」
「あ、ああ、ああっ」
「あんたもできたんだし、ね。確める機会は、もう永遠にないけれども」
男の体が橋の手摺(てす)りに寄り掛かった。
男は猶(なお)もありえない、を呟き続ける。すでに目から生気は失われ、廃人にでもなったかと松原は心配した。
まだ話は終わっていないのに。
パァンッ
「ねえ、まだ意識はある? ちゃんとした、人の話を聞けるぐらいまともなの」
頬を叩き、詰問(きつもん)する。体はまだ後ろへ下がろうと足を動かしているので胸倉(むなぐら)を掴んでのことだ。
「う、ああ。ある。あるから止めてくれ。もう、止めてくれ。命だけは……」
叩かれた拍子に下を見たのか、男は命乞(いのちご)いを始めた。
「あるみたいね――なら、言わせてもらうわよ」
彼女は獲物を弄(もてあそ)ぶ猫のような眸(まなこ)を向ける。
「これまでやりたい放題で、楽な死に方できると思うなよ」
「あひっ、あひぇっ、あっ、ゆ、許して……ください。もう、しませんから。何でも、言うこと聞きますからぁっ」
情けない。
涙を流し、だらしなく開いた口から出る言葉に松原はもはや何一つ言う気にならなかった。
手を離し、間合いを取る。男は許されたと勘違いしたのかほっとしている。そしてその目に光った復讐の猛(たけ)りを見逃しもしなかった。
「ふつうは、止(とど)めを刺すのは自分の手でやるしかないんだけどね。どうしたって相手を傷付けることはできても、死なせることはできなかったから」
安心しました、という演技を続ける男に彼女は言う。
「でも、あんたがこうなったのも少しは解るかもね。あんたがどうしたって救えない奴だってのに変わりはなくても」
男は、信じられない、という顔で松原を見ていた。
「自分で手を下さないと、抱えた命の重さって解らないものなのよね」
ばしゃん
彼女が言い終えた時、男の姿は橋の上から消えていた。
何一つ残すことなく消えていた。
つまらなそうに一人残った彼女はシナモンスティックを口から取った。
それを手向(たむ)けのように川へ投げ入れると、二度と振り向きもせずに歩き去った。
人の少ないこの場所で、唯一灯(とも)っていた街灯が明滅(めいめつ)する。
不自然に――まるで事が終わるのを待っていたかのように灯(あか)りも消えた。
後には何も残らない。
何一つ、残らない。
そして次の日、一人の男が川で発見された。
頭を二色で染めた、まだ若い男だったそうで、その顔は稀(まれ)に見る苦しみ抜いたものであったらしい。
この事は、近くにあった男の物と見られるバイクから、事故にあって逃げる時に誤(あやま)って川に転落した不運な出来事として片付けられた。
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