第二章   隣り合わせの死1

「透?」

 愛夏が目の前、いや真上にいる。

「何で、いるんだ?」

「いちゃだめ?」

「いや、そうじゃなくて。先にもっとこう、するべききことがあるんじゃないかな」

 愛らしく首を傾(かし)げる愛夏を後目(しりめ)に――物理的に不可能とかそんなことはない――透は体をベッドから起こす。枕元に置いていた眼鏡には手を出さず、そのままにしておく。

「ノックとか。大声を出すとか」

「ノックは良いとしても、声を出すのはあまり好きじゃないな」

「そうか。じゃあ次からはちゃんとノックをしてくれ」

「えーっ。それって部屋に入るなってこと?」

「えーも何も、普通はそうだろ。こっちが鍵を掛けられないからって好き勝手に出入りするなっ」

 そんなに怒んなくてもー、と愛夏は言うが、透には堪(たま)ったもんじゃない。

 別にやばい物など元から存在していないし、これからも存在させる気はない。だが自分の部屋に自分以外の誰かが出入りするのは生理的に相手が誰であっても嫌だった。潔癖とも言う。少しニュアンスは違うが。

「とりあえず、着替えるから」

 そう言って追い払う仕草をすると、愛夏は渋々ながらも部屋を出て行き、階下へと降りて行く足音が聞こえた。

「はあ、問題だな」

 ここ一月ほどで形成された日常。初めは、目覚ましが壊れて遅刻すると愛夏が朝に透の部屋に慌てて入って来たことからだった。

 それから少しずつ愛夏が朝、部屋に来ることが多くなり、次第にこうやって許可なく他人の部屋に侵入してくるようになった。

 幸い、変なことに気を回したりはしないのでまだ愛夏の悲鳴はこの部屋から発信されてはいない。

「気を紛らわすために始めたんだったか」

 透の知る記憶を失う前の愛夏は、こんな異性を気にしていないかのような行動は取らなかった。もし取らなかったのなら透はあんな目に合わずに済んだのかもしれないが。結果は変わらなかったとしても。

「これでいいか」

 シックなパジャマ姿から高校の制服へと着替えた透はネクタイが曲がっていないかを確めて言った。

「もうちょっとこっちにしないと……はい、できた」

 横合いから伸びてきた手がネクタイの状態を修正した。ご丁寧に体ごと向き直されて。

 ギクリとした透が見たものは、再び部屋への侵入を成功させた愛夏だった。

「愛夏っ」

「あはは。早くしないからこうなるんだよ」

 透が捕まえようと伸ばした手は空(むな)しく空を切る。すぐさま部屋を出た愛夏が階段の途中まで降りるバタバタとした音が聞こえた。

「ほら、早く降りてきてよ。昨日みたいにポロのご飯忘れちゃうよ!」

 さらりと昨日の失態で突いてくる辺りがなんとも……。何も言い返せず歯向かう気力すら失って、透は力なく階段を降りた。

 家族が朝食を取っている場所の扉を開けると、ポロがそれまで伏せていた体を起こして近付いてきた。

「ほら、ポロ、飯だぞ」

 テーブルの上に置いてあったキャットフードの箱を足元に置かれていたポロ用の皿を手に取って傾ける。

 ばらばらざらざらと音を立てて皿に盛られていくキャットフード。もちろん、すでに自分で食してみて悪くない味だったやつだ。

 キャットフードやドッグフードは実は人間でも食べられる。というか食べられなければダメだ。人体に有毒なのは同じ哺乳類である猫や犬にも有毒だということなのだから。一部に例外はあるが。

「ったく、僕以外からでも食事を取ってくれれば昨日みたいなことにはならないのに」

 ふと零(こぼ)れた愚痴(ぐち)はきっちりと愛夏の耳に入ってしまった。

「透、菜由子さんに言っても良い? 透が動物虐待したって」

「ぎゃ、虐待って。おい、誰もそんなこと言ってないだろ」

「ふうん、ポロは透が近くにいる時しか他の人からエサもらわないって知ってるよね。それなのに透がそんなこと言ったら虐待としか言いようがないじゃない」

「どんな理論だ、それは」

 脱力の上に憂鬱がプラスされるという中々に稀有(レア)な体験をした透が緩慢(かんまん)な動作で朝食の席に着く。

「母さんは今日、夕食いらないって言ってたっけ」

「うん。菜由子さん、夜に飲み会があるんだって。帰ってくるのは二時くらいになるみたい」

 すでに点けられていたテレビに目をやりながら透が訊くと、愛夏もテレビの方に意識を向けて言った。

 テレビには地元のニュースが流れていた。昨日の夕方に起こった事故以外にも、新たに二件の事故が起こったという話だった。

 こと、ここに来てようやくテレビでも局地的な事故件数の多さに気が付いたようだった。いや、それは正確なことではないのだろう。前々から気付いていなければ今年に入ってからの事故が一体どれだけあったかなどすらすらとニュースキャスターが述べられるはずもなく、何人が死んで何人が怪我したかなど一桁まで表せるはずもない。

 つまりは、話題性に欠けていたということだ。今までは。それとも話をまとめていただけなのか。

「真一の言ったこと、本当だったな」

「そうみたい。でも、これだと全国的に事件事故が増えてるみたい。ほら、首都圏から離れるほど色が赤くなってる」

 テレビには日本の地図が映し出され、そこに事件事故の件数で色分けされていた。

「でも結局は北海道や九州にある程度向かったところで色が戻ってきてるから、はっきりと首都から離れるほど危険なわけじゃないみたいだ」

「ここは赤だけどね」

「皮肉か?」

「ううん。そうじゃなくて、もしかしたらまた昨日みたいなことがあるかもって」

「あ……」

 馬鹿だ。僕は馬鹿だ。愛夏は心配していたというのに。これだけ起こっていて、すでに愛夏は二度目にあっていて、だから気を付けなくちゃいけなかったのに。

「いや、大丈夫だろ。増えてるって言っても、またあんな目に皆があうことはそうそうないだろ。昨日は運がなかっただけで」

「うん……そうだよね」

 愛夏は無理にでも納得しているように見えた。

 でも、自分でも分かっていた。

 自分の言ったことが気休めでしかないことを。

 次に事故が起こった時、また助かるという保証がないことを。

 そして気付くべきだった。

 こんな美味しい話を奴らが見逃すはずがないことを。



 ★☆★☆★



 車の駆動音がすぐ脇を通り抜ける。昇った太陽の日差しが体に降り掛かる。ピンポイントで頭部に集中している気がするのはただの思い込みか。

「んでよ~、何で俺がおまえらと一緒に登校することになってんの? 作戦会議を登校途中にするって言ってたっけ?」

 久那真一は頭を掻きながら面倒臭(めんどうくさ)そうに金藤美浜へと質問する。美浜の陰に隠れているように見えなくもない草永海明里はすまなそうな顔をしている。

「言ってないわよ。今朝、というより昨日の夜に思い付いたんだから」

「誰が、何を?」

「私が、お礼作戦を」

「お礼作戦? なんだそれ」

 締(し)まりのない顔に胡乱気(うろんげ)な雰囲気が追加される。こいつだめだわ、という気持ちがありありと表に出ていた。

「そう、お礼作戦。明里が昨日助けてもらったお礼にお弁当を――」

「却下」

「え? 何でよ」

「いや、ほんともう目に見えてそれは駄目だから。やばいって。泥沼になっから」

 真一の口振りに怒りを積もらせていく美浜の顔を、真一は見ていなかった。自分の言っていることに集中していたからだ。仕舞(しま)いには一人でうんうんと頷いてさえいた。ただし、明里には微妙に聞こえないようにして。

「明里ちゃんが弁当なんて作れば絶対に、今の彼女は対抗してくるね。なにせ彼女にとって透の奴はただの幼馴染み、じゃなく大切な家族、だからな。取られまいと必死になるだろうよ。それが恋心なのかどうかは別として」

 だからこれは却下。透の奴を困らせるだけだぜ。

 真一はそこでようやく顔を上げ、固まった。

「そう、つまりは私の案は短絡的で粗野で無駄で無意味どころか事態を悪化させるだけだと言うわけね」

 普段と変わらないような口調から、抑揚(よくよう)だけが取れた喋り方。そのことから美浜という一女子の彼女が持つ怒りは分かるだろう。明里はもはやとっくに諦めており、事態を静観している。逃げ出さないだけましと言えよう。

 それほど怒ることはないんじゃないか、ということを言ってはいけない。最高だと思っていた策が愚策だと正面切って言われれば、誰だって好(い)い気はしないだろう。それが普段からお前は女らしくないと言っている相手から言われれば、彼女の感情は押して知るべしだ。

「ねえ、実はもう明里は弁当作ってきちゃってんのよ。私とあんたがやるのはね、愛夏を透から引き離すことだったのよ」

 じりじりと真一へと顔を近付けていく美浜。真一は顔を強張(こわば)らせたままの状態でじっとしている。

「それで、さ」

 一呼吸置いてから美浜はくわっ、と目を見開いて訊いた。

「協力、するわよね」

 真一がそれでぶんぶんと音が出そうなくらいに首を縦に振っても仕方のないことだろう。

 気の早いセミがどこか遠くで鳴き始めるのを聞いた。

 ご愁傷様。真一君。



 ★☆★☆★



 昼休みを告げる時報が耳に痛い。

 ありきたりなベルの音だが、ここまで大きな音にしているのはこの学校くらいなものだろう。

 がやがやとグループで弁当を広げる者、購買部で早めに買っておいたパンを頬張(ほおば)る者、二つある食事処のどちらかを使いに動く者、別なクラスに行く者、実に様々である。

 そんな中、普段と違う光景が一つのクラスで起ころうとしていた。

 いつもなら女子三人が透を誘い、透が更に真一を誘うという一種独特な食事スタイルを展開していたのだが、今日は早々と真一が美浜に声を掛け、美浜が愛夏を連れて――引っ張って――教室を出て行く。

 真一がジェスチャーをしてお前らだけで食っとけ、とアピールする姿が教室を出る時目に入った。

 透は残されたもう一人、草永海明里へと目を移した。

 びくっ、と体が跳ね上がってるのではないかと思うほどに反応する彼女を、透は先程の美浜と真一の行動を鑑(かんが)みて裏がありそうだと思った。

 おそらくは愛夏に何かを吹き込んだりするのだろう。それとも四人はグルで何か自分に対して計画を練ってるのかもしれない。ドッキリは勘弁して欲しいが。

 だから、きっと目の前に出てきた代物も、その小道具の一つなのだろう。これでこちらの気を逸らせる作戦に違いない。

「弁当?」

 指を差して訊くほどのことでもなかったろうに、あまりなことにとりあえず、で対処しようと脳(のう)が無理をした結果だった。

「はい。……迷惑、でした?」

「いや、その。迷惑では、ない。ちょっと、驚いただけ」

 真一め。あいつだ。きっとあいつがこうするように言ったんだ。あいつならこっちがフリーズするような手を幾らでも考え付くだろう。それにしても、弁当か。フリーズじゃなくエラーが起こったぞ。

 脳内の思考がいつもより乱雑になっている他は正常だった。まともな人間としての反応は。

「行こうか」

 取った行動はやはり安全策。

 このままじっとしているわけにもいかず、かといって相手の申し出を断るわけにもいかない。

「どこが良いかな」

 この場所で食べることは論外。周りの好奇の視線が早くも集まり始めている。

 マスコミやら何やらでその手のことに嫌悪とまではいかないものの、できるだけ向けられたくない部類に入る。自分だけでなく周囲の人間にも。

「お、屋上はどうですか」

「屋上? 鍵が掛かってたと思うけど」

「今は開いているそうです」

「そうなんだ」

 安全性の問題から屋上の開放はもうされていないはずだったが、鍵を壊すなどすればあっさりと入れるものなのは誰でも知っている。実行するかどうかは別だが。

 真一の奴がしたのかそれとも別な誰かが壊したのに便乗したのか。

 いずれにせよ、普段は行けない屋上に行くことができるというのは魅力的な提案だった。 自分の少し前をトコトコと歩く彼女に付いて歩きながら透は一つ上の階へと昇って行く。途中、集団移動をしている女子や男子たちと擦れ違いながら屋上へと向かう。

 がやがやとした騒がしさはあと数分もすれば一段落だろう。周囲の喧騒(けんそう)はそこらを移動している生徒たちが醸(かも)し出している物なのだから。

 屋上の扉が開かれると中天にまで届いた太陽の光が眩(まぶ)しく目に入ってきた。少しだけ流れる風を感じ、その風が涼風であったことに感謝する。

 天気は昨日と同じく晴れ。けれども昨日よりはさっぱりした大気だ。昨日の風はじっとりとしていたから。

「わ――――ぁ」

 滅多に見られない屋上という風景に感動した声が耳朶(じだ)に届いた。

「こんなに、なってたんだ」

 素直な、そして率直な気持ちが言葉となって出ているのが分かった。自分もそうだったからだ。言葉にしたかしなかったかの違いだけで。

 一言で言ってしまえば、屋上という環境に抱いていた幻想よりも上の情景だった。

 緑のフェンスの先は当たり前だが学校の敷地。けれどもそこから見えるのは一枚一枚の葉が煌(きらめ)く芸術的な並びの樹木と、それに合わせたようにしか思えない建物の並び。

 人工物は自然と合わないなどという一般論が戯言(ざれごと)にしか聞こえないほどの、完成度の高い『作品』だった。

「どうだい? 気に入ったかな」

 知らない誰かの声がした。

 いつの間にか数歩前へと踏み出していたことにも同時に気付き、二人に気恥ずかしさが込み上げてくる。

「この配置は私が設計したんだ。建物だけじゃなく、木もね」

 どこか独特のリズムと声音で淡々と告げる人物は、扉の横で壁を支えにして立っていた。

「ハジメマシテ、かね。名前くらいは聞いたことがあるだろ? 学食の松原、と言えば私しか指さないからさ」

 白衣の天使、などと形容されることもある医者姿でありながら全く以てそうは見えない。他の何に形容されることもなく、見た目通りの校医としか言いようがない。

 それはシナモンスティックを口に咥(くわ)えているからか、それともぞんざいで踏ん反り返っているように見える態度だからか。最終的な判断は人それぞれだろう。

 彼女は口に物を咥えたまま器用に喋る。異物を気にしている様子が全くない。

「うーん、真一の奴が推しただけあってやっぱり良い。まあ、会ったばかりだしね。及第点に留めておこう」

 不躾(ぶしつけ)な視線と口調、それから不敵な態度にすっかり唖然とした透と明里は何かを言う気にもなれなかった。

 好奇の視線よりも不快なようで、それでいてこれが当たり前と取れるような不思議な感覚を生み出す松原先生。彼女は鼻に引っ掛けた丸眼鏡からこちらを猛禽類のような目で見ている。

 透と違って伊達ではないようだが、わざわざ丸いのにしたのはその印象を和らげるためか。それは少しの成果を上げていると言えよう。

「それじゃあ、私はこれで。さすがに二日連続ということはないだろうけど、もしもの時のためにあそこにいないとね。そのうちゆっくりと話でもしよう」

 化粧という物をしたことがないと思われる顔を親しげに緩めて彼女は去った。あっさりしているようでもあり、また会うことが決まっているから余裕なのか。

 結局のところそんなことは今は分からないのだし、気にしても仕様のないことだ。なにせ真一と気が合う相手のようだから。

「えっと、草永海さん」

「あの、お昼にしましょう」

 透がぼやぼやとしているうちに、どこから出た行動力なのか明里がにっこりと笑って言った。

 透は明里の後ろに付き従って近くのフェンスまで歩った。

 手際良く弁当を取り出した彼女は二つあるうちの片方を透へと差し出した。

 その後は透の方はあまりよく覚えていなかった。

 普段とは違う雰囲気で食事を共にしたことと、ずっと二人で色々と話していたということは記憶に残っている。何を話して何を食べたのかは残っていない代わりに。

 チュンチュンと鳴く小鳥が傍(そば)を通り過ぎれば良いのにと透は教室に戻って授業を受けている時に思ったのは、哀愁(あいしゅう)漂(ただよ)う心がさせたものなのか。


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