ガラスの熊出没注意

 梅雨明けと同時に鳴き始めたアブラゼミの声も、ここのところはあまり聞こえなくなっていた。

 その代わりにとばかりに、まだ日も落ちきらぬ時間帯から夜が明けるその時まで、秋の虫たちがリンリンチリチリと演奏会を開くようになった。

 暑さもピークを超えたとはいえ、最高気温が三〇度を下回る日がやってくるのは、まだだいぶ先のことになるのだろう。


「あれ? 今日は翠さんいないんだ?」

 通い慣れた病室の入り口に入った瞬間、普段であれば部屋の主よりも早く「いらっしゃい」と飛んでくる声が聞こえなかったことで姉の不在を察知できた。

「うん。翠ちゃん、今日はおうちで私のお部屋のお掃除をしてくれてるみたい」

「なるほど」

 舞の話によると、彼女みどり妹煩悩シスコンっぷりは今に始まったことではないようで、姉が大学に進学して一人暮らしを始めるまでは、ご飯を食べるのも風呂に入るのも寝るのも、全てが一緒だったという。

「明後日の退院の時間、クラスのみんなも来てくれるって言ってたよ」

「ほんとに? 嬉しい!」

 さすがの彼女もぴょんぴょんと飛び跳ね喜ぶことはまだ出来ないようで、ベッドの上で小さくバンザイのポーズをとるに留めていた。

「あ、イツキ。この子、預かってもらっても大丈夫かな?」

 そう言って彼女が指さしたその場所には、かつて北海道の土産物屋で俺が購入し贈った硝子細工のクマの姿があった。

 ピンク色をしたそれは、時を同じくして彼女が俺に贈ってくれた青いクマとの完全な色違いだった。

「じゃあ一旦うちに来てもらって、今度舞の家に行く時に連れて行くよ」

「あ、ううん。私が自分で取りに行くから、それまでイツキのくまさんの隣に置いておいて欲しいの」

「……了解」


 未曾有の災害の発生から、まもなく一年が経とうとしていた。

 複数の医師曰く舞が目を覚ましたのは、奇跡としか言いようのない確率の出来事だったという。

 それが決して大げさな物言いでないことは、八か月ものあいだ彼女の病状と向き合い続けてきた人間であれば疑う余地はない。

 だがたったひとり彼女の姉だけは、どうもその限りではなかったようだった。

『舞ちゃん、昔から朝は弱かったもんね』とは彼女の談で、なぜだかわからないが、それは妙な説得力を伴っていた。


「ね、イツキ。すぐには無理だけど退院したら南海ちゃんと聖くんと、それに他のみんなや先生にも会いに行きたいんだけど、付き合ってくれる?」

「もちろんだよ。でも急がなくてもいいからね。時間はいくらでもあるんだからさ」

 半年前には俺もそうであったように、舞も退院後には長い時間のリハビリが必要になるだろう。

 もしそのあとに復学するとしても、良くて一年、長ければ二年は高校に通うことになる。

 いずれにせよ、いま決まっているのは俺は彼女がどこへ向かおうと付き添い、ずっと支え続けるということだけだ。

「そうだ、舞。リンゴ剥いてあげよっか?」

「あ、うん! ウサギさんのがいい!」

 まずはこのくらいの軽いサポートから始めてみようと思う。


 そして待ちに待った、舞の退院の日。


「本当に長い間……とってもとっても、お世話になりました」

 病院の玄関に集まった大勢の医師や看護師を前に感謝を口にした舞は、一年近くものあいだ担当してくれていた若い女性看護師から花束を渡されると、その瞬間に大きな声をあげ、それこそ小さな子供のように泣き出してしまう。

 その美しい涙はみるみるうちに伝播すると、その場にいた数十人からの人間が鼻をすすり始め、終いにはガラスを二枚隔てたところで立っていた守衛さんまでもが帽子を脱ぎ顔を隠したのだった。


 その翌週からスタートしたリハビリは、彼女たっての希望から俺は直接参加するようなことは出来なかったが、姉の翠が運転する送り迎えの車あばれうまには可能な限り同乗させてもらった。

 その結果シートベルトの重要性を知るに至り、寿命はいくらか削られることになったのだった。

 

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