ムニャムニャ

 朝食を食べ終わった俺は、二年生の部員たちと合流して練習に精を出し、舞はといえば先生の車で家に帰る――予定だったのだが、彼女をロッジに送り届けてコートに駆けつけるや否や、小池先生に「心細いから一緒に来て」と、まるで甘え上手な女子のようなお願いをされてしまった。

 教え子一人を車で家に送るのに、いったい彼は何が心細いというのか。

 甚だ疑問ではあったが、俺としても彼女のことが心配ではあったし、何より練習をサボる大義名分を与えられた以上、それを行使しない手などない。


 くして、やけに高級そうな先生の車の後部座席に俺と舞は肩を並べて座ると、一路彼女の家へと向かい車は走り出した。


 三日前には息も絶え絶えに歩いた三キロの道程を、鉄製の馬はわずか数分で走り抜けた。

 学校の前を通り過ぎた車は進路を隣町の方向へと変え、長閑な空気に包まれた県道をひたすらに真っ直ぐ進む。

 舞はといえば、キャンプ場を出発するとすぐに小さな寝息を立てて俺の肩に持たれ掛かっていた。

 その顔色は普段の彼女のそれに戻っており、どうやら一晩大人しく寝ていたことで復調してくれたようだ。

 まるで幼子のような彼女の寝顔を見ていると、その小さな口がもごもごと動く。

そして、次の瞬間にそれは起きた。


「……むにゃむにゃ」

「……え? 舞、もしかして起きてる?」

「……むにゃむにゃ」


 どうやら今のは寝言だったらしい。

 本当に『ムニャムニャ』と寝言を言う人がいたことに変な感動を覚えた俺は、唯一それを共有で出来る可能性のある運転席の先生に、ルームミラー越しに小声で話し掛けた。

「先生、聞いた?」

「聞こえたよ。すごいねえ、君の彼女は」

 ああ……先生にはやはりバレていたのか。

 もっとも、それは彼が鋭いとかそういうことではなく、俺と彼女の動向を普段から気にしていたであろう担任教師であれば当然なのかもしれない。

 そもそも、今のこの状況を見てただのクラスメイト同士だと誰が思うだろうか。


 車はやがて隣町の住宅地の只中へと進むと、細い路地を右へ左へと何度か曲がり、一軒の大きな家の前でその車輪タイヤを完全に止めた。

 決して軽やかとは言えない動きで運転席から降りた先生がドアホンのボタンを押すと、すぐに開いた玄関から二人の大人が出てくる。

 一人は如何にも紳士といった、矍鑠かくしゃくとした風貌の男性であり、もう一人はその容姿からほぼ間違いなく彼女の母親だろう。

「先生、うちの孫娘がご迷惑をお掛けしました」

 そう言って老紳士――恐らくは舞の祖父――が深々と頭を下げると、母親もそれに倣うようにやはり頭を垂れる。

「いえいえ。こちらこそ大事なお孫さんに辛い思いをさせてしまって、本当に申し訳ないです」

 車の外では大人のやり取りが繰り広げられていたのだが、舞はといえば相も変らずに俺の肩に小さな頭を預けて寝息を立てている。

 この状況下での俺の気まずさたるや、筆舌に尽くし難いとはまさにこのことだった。


 先生の手により後部座席のドアが音もなく開かれる。

 俺はいよいよどうしていいのかわからなくなり、とりあえず「あ、どうもはじめまして」と、彼女の祖父と母親に間抜けな顔と台詞で挨拶をした。

「もしかしてあなた、都筑さんですか?」

「あ、はい。都筑五月と言います。舞さんにはいつもお世話になっています」

 一応テンプレートに沿ったセリフを絞り出してはみたが、その舞さんとの密着度合いを考えれば、それが妥当な対応だとは到底思えなかった。

「あなたのことは娘からよく伺っています。いつも……いまも迷惑を掛けてしまっているようで」

「いや、迷惑だなんて……」

 顔の前で手を振って否定する俺に、彼女の母親は「ふふっ」と口に手を当てて小さく笑うと「あっ、ごめんなさいね」とすぐに謝ったのだが、俺には最早彼女の母親が何を笑ったのかの見当さえついていなかった。


 母親に身体を揺すられた舞は薄く目を開けると、すぐに自分の置かれている状況を把握したようだった。

「あ……ママ、ただいま」

「おかえりなさい。身体はもう大丈夫?」

「あ、うん。ゆうべ都筑くんがくれたから。それで寝て起きたら治ったみたい」

「よかったわ。じゃあ、都筑さんが困ってらっしゃるから、そろそろ降りてきなさい」

 母親に促されて車から降りた彼女は、再び頭だけを車内に戻すと「イツキありがとう。今度ちゃんとお礼させてね」と言ってから、今度は先生の方に歩み寄って深々とお辞儀をしていた。

 俺も車から降りようと思ったのだが、今度は彼女の祖父が開け放たれたままになっていたドアの前にやってくる。

「孫が迷惑を掛けて本当に申し訳なかったね。都筑君、ありがとう」

 と、またしても丁寧に礼を言われた。


 結局俺は後部座席に収まったままだったのが、どうやらすべては滞りなく終わってしまったようだ。

 窓越しに頭を下げる岩水寺家の面々にこちらもこうべを垂れて応えていると、車は来た時のように静かに動き出してその場をあとにした。


「岩水寺さんのおじいさんから、また君にちゃんとお礼がしたいから今度遊びに来てくれって伝言されたよ」

「はあ」

 自分の親と比べるとあまりにもカッチリとした印象の舞の家族に、俺は好印象と緊張感をミックスさせたような、大変よくわからない感情を抱く他なかった。

 それはそうと、ただついてきただけの俺が何故こんなに青息吐息になっているのだろう。


 キャンプ場に戻ると「ちょっとレストハウスで休んでからいかない?」とサボタージュの提案をする先生を引っ張りながらテニスコートに向かう。

 昨夜からの懸念の大半が払拭されたせいか、その日の練習はなんだかとても楽しかった。

 そして、真夏の太陽が幾らか西に傾いてきた頃、長かった合宿はようやくにして終わりを迎えたのだった。


 来た時と同じく歩いて駅まで向かい、電車に揺られること十数分。

 気持ち的には一週間ぶりくらいに我が家へと戻って来た俺は、緊張の糸が解けたのか一気に押し寄せてきた疲労に倒れてしまいそうだった。

 シャワーだけで風呂を済ませ、昼飯も食べずに自室のベッドの上に頭から飛び込むと、次の瞬間にはもう意識が飛んでいた。



 翌日の朝。

 午後からの部活動に備えて可能な限り怠惰な時間を送っていた時だった。

 リビングの三人掛けソファーに横たわりながら下らないネット動画を見ていると、来客を知らせるチャイムが壁のドアフォンから鳴り響いた。

「お母さーん! 誰か来たみたいだよー!」

 大声で母親を呼んだが返事が返ってこない。

 風呂掃除でもしているのか、もしくはトイレにでも入っているのかもしれない。

 仕方がなく重い腰を上げて玄関へと赴く。

 玄関のドアを開けて顔を出すと、そこには制服に身を包み背に大きなラケットバッグを背負った少女が、まるで真夏の向日葵のように笑顔を咲かせ立っていた。

 「こんちには!」

 「……おはよう」

 ドアを大きく開いて少女を招き入れると、喧騒を聞きつけた母が廊下の奥から走ってくる。

 「あら。岩水寺さん、いらっしゃい」

 「あ、お母様。ご無沙汰してます」

  お母様って?


 そそくさと台所方面に駆けて行った母親を見送ってから彼女をリビングへと招き入れ、以前から疑問に思っていたことを口にしてみる。

「舞ってさ、アポイントメントって言葉知ってる?」

 彼女は大きな瞳で俺の顔を覗き込みながら、少し不思議そうな顔をしたあとに口を開いた。

「当たり前でしょ? イツキは知らないの?」

「……いや、なんでもない」

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