色は匂えど散りぬるを

ヒノエンヤ

第1話



 ……名前を呼ばれた。

 彩葉(いろは)は開いていたポメラを閉じて待ち合いのソファから立ち上がった。顔を上げるときにほんの少しだけ明るく染めたミディアムの髪が目にかかった。そろそろ美容室に行った方がいいかもしれない。根元も大分黒くなっている。向き合った時間の割には進捗はほとんどなかったものの、手癖のように保存のCtrl+Sキーを押すのは忘れない。


 母には外での使用を止められていたが、待ち時間が長いから、とトートバッグに突っ込んできたポメラ。立ち上がって周囲を見渡すと、待ち合いに足を踏み入れた時の半分以下に通院患者は減っていた。


 ここは総合病院。ぐるりと中庭を囲む総合受付・精算スペースを通って、更に診療科目ごとの待ち合いがある。名前を呼ばれると、診察室内の中待ち合いに移るのだ。どこの待ち合いスペースからも、遠目であっても中庭の気配を感じる古い建物。通院を重ねるたびに、この風景が彩葉はなんとなく好きになっていた。


 杖を持ち替えてドアを開け中待ち合いに入ると、今日は顔馴染みの看護師がいた。

「ミハルさん!」

「彩葉さん、外は暑かったでしょう?ちゃんと水分摂った?」

 よくある名字の私は、少し前にミハルさんに、差し支えなかったら彩葉って呼んでください、と話した。もちろん、院内規定で許されるとは思っていなかったが、それ以降、ミハルは二人だけの時には、名前で呼んでくれるようになった。季節外れの風邪が流行った夏の初めに4人続けて同じ名字が並んだ中待ち合いでのことだ。他のスタッフと苦笑いしていたミハルに思わず彩葉が言ってしまった。同年代に見えたミハルが雑談で実はバツイチだと知って、彩葉はミハルの年齢を聞けていない。


「今日は彩葉さんが診察最後だからね、ゆっくり先生を話せるよ」

 労るように語るミハルに、彩葉は驚きを隠せなかった。

 青木医師がいつも居る『診察室1』は中待ち合いとはしっかりとした壁とドアで仕切られているが、年配の患者の耳が遠いゆえのコントロールが効かない大声は、中待ち合いまでしっかり聞こえてしまい、いたたまれない気持ちになることもあった。そんな時の表情までしっかり見られてしまっているのだろうか、と驚いたのだ。医療従事者の方には本当に頭が上がらない。


「ありがとうございます」

 礼を告げると次の話題に移る前に、『診察室1』のドアから杖をついた年配の女性が出てきた。覚束ない足取りにミハルが付き添うように、廊下へ続くドアに向かう。彩葉に軽く手を振って。


 ミハルと入れ違うように、彩葉は名前を呼ばれた。




「こんにちは」

 ドアを開けた彩葉に、椅子を回して青木医師が向き合った。今日は余裕があるらしい。

 忙しい時はパソコン画面に向かったまま、顔だけを入り口に向ける先生。トートバックを備え付けのカゴに入れ、横に杖を立てかけると、彩葉は丸椅子に座る。

「その後、お加減はどうですか?」

 先生は座ると白衣の上から少しお腹のボリュームが出てくる。視線を少しだけ外しながら、彩葉は

「あんまり、変わりないです」

と告げた。

「そうかぁ」

 少し悲しそうな顔をしながら、先生は電子カルテに何事かを打ち込んだ。


 ちょっと失礼、と言って、先生は彩葉の首元に手を伸ばした。消毒薬で少し冷たい。触診では特に異常は認められないようで、少しにっこりする。


「睡眠は?」

「時間通りに横になっています。眠れているはずですが、朝起きても怠くて動き出すのが億劫です」

 ますます悲しそうな顔をする。気候のせいかなぁ、とぶつぶつ言いながら電子カルテに向かう。先生は患者に気持ちを寄り添いすぎると彩葉は思う。そう思う反面、月に一度の通院予定を見ると、そんな先生に会いたいなぁ、という気持ちも湧いてくる。

 ただ安心するから。彩葉が退院できるまでに回復できたのは、先生のおかげだ。

「……その、文字はどう?」

「残念ながら、まだ駄目ですね……」

 先生は悲しそうに目を閉じた。

「そうかぁ……」

 全身の状態を確認する診察は続く。




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