第55話 知らない振り

 謁見の間を出た後、宮廷付司祭がネーヴェを呼び止めた。

 間近で見た宮廷付司祭は、存外に若い男だった。

 彼は悪戯っぽい笑みを浮かべて言った。


「氷薔薇姫様、聖下の相手をしてやってくださいませんか」

「は?」

「先日は葡萄酒お裾分けありがとうござっした~。さ、行きましょ」

 

 砕けた口調で、ネーヴェを誘ってくる。


「いったいどこへ」

「城勤めだと、昼食をどこで取るか問題でして。食堂でサンドイッチをもらって、よく城内をうろうろするんですよ」

 

 若い宮廷付司祭は、王城を出る手前で、物見櫓の一つに登り始める。

 螺旋階段を登りきると、その先には空が広がっていた。

 秋の冷たい風が、ネーヴェの銀の髪を巻き上げる。

 その風の吹いてくる窓辺には、シエロが佇んでいた。

 謁見の後、別々に広間から退去したが、彼は先にここに来ていたらしい。


「連れて来ました、聖下~」

「アドルフ、お前はもっと敬いを身に付けろ」

「めっちゃ敬ってますって。聖下は俺の恩人ですから。じゃあ、ごゆっくり~」

 

 ネーヴェの背中を押し出すと、アドルフという司祭は、一人で階段を降りて去っていった。

 目の前には、シエロだけがいる。

 二人きりだ。


「……フェラーラ侯をどう説得するつもりだ。やけに自信ありそうに請け負っていたが」

 

 何を言おうかと悩んだが、先に口火を切ったのは、シエロの方だった。

 内容は、先ほどの謁見の話だ。


「私、先代フェラーラ侯のバルド様と知り合いですの。きっと助力いただけますわ」

「ああ、レモンソルベのお代わりを注文したご老体か」


 ネーヴェの返事に、シエロは思い出したと頷く。

 リグリスでの旅館経営で、先代フェラーラ侯バルドは、お忍びで宿泊に訪れたのだ。シエロもちらと顔を合わせていた。


「先代が味方に付いたとしても、今のフェラーラ侯を説得できる確証はあるまい。失敗すれば、それを理由にクラヴィーア伯爵をおとしめ、お前をめかけにしようとする奴も出てくるだろう」

 

 王子の婚約者という盾がなくなり、追放も取り消され、ネーヴェは自由になっている。しかし、女性を家同士の贈答品や格付けにしか考えていない貴族連中は、これを機にネーヴェを得ようとする者も現れるはずだ。

 美しく、賢く、民衆に好かれる氷薔薇姫。

 妻にして領地を任せれば、労せずして富と栄誉が手に入る。

 

「そうなれば、今度こそフォレスタを出て行くだけですわ。愚かな男たちは、誰も氷の花を手折たおることはできないと知るでしょう」

 

 誰にも膝を折るつもりがないと、ネーヴェは答える。

 そして、シエロを鋭く見返した。


「シエロ様こそ、ご自身をかごの鳥だと思ったことはございませんか? あなた様の優しさが利用されるのみであれば、僭越ながら私が自由にして差し上げますわよ」


 聖堂の一件で、シエロが天使だと気付いた時に、ネーヴェは彼がひどく不自由な身であることを知った。

 この国を守ることが彼の義務であり、責任であり、そこから逃れることはできない。配下である天翼教会の司祭たちはシエロを守っているようで、彼の恩恵を独占するために束縛している側面がある。

 そして、彼の恩恵を甘受しているがゆえに、誰も彼にこう言わない。

 嫌になったら国を捨てて自由になっていいのだよ、と。

 あるいは、そんなことを言うのは不敬と思われると、誰もが畏れて言葉にしない。だがネーヴェは、許されるという確信があった。モンテグロットで彼女が一緒に国外に出ないかと誘った時、彼はその誘いが自分にとって僥倖であると言っていたからだ。


「……痛いところを、突いてくれるな」

 

 シエロは自虐的な笑みを浮かべたが、それはどこか好戦的な笑みにも見えた。


「それにずいぶんあおってくれる。確かに、かごの鳥のように見えるかもしれんが、俺にも翼と誇りがある。自分のことは、自分で決めるさ」

「過ぎたことを申しました」

「構わない。耳に心地よい言葉だけを欲している訳ではないからな」

 

 言い過ぎたかと謝罪すると、シエロは穏やかに言った。


「気を付けろ。フェラーラ侯の件もそうだが、お前は有名になりすぎた。魔物の虫を放った者も、姿を隠したままだ」

「やはり、今回の災厄は、人が起こしたものですか?」

「そうだ。この国は天使によって守られていているから、ふつうは魔物が入ってこない。にも関わらず魔物が発生するのであれば、それを招いた者がいるということだ」

 

 彼の言葉は、いくつもの示唆しさを含んでいる。

 ネーヴェが正体に気付いていることを前提に、彼にしか知りえない情報をいくつも提示してくれている。急ぎ王都に来ているはずのアイーダと合流し、情報を整理したいと、ネーヴェは思った。

 

「俺が話したかったことは、それだけだ」

「ご助言と警告、感謝いたしますわ」

「……本当に分かっているのか。お前は何か思いついたら、危険を気にせずそのまま突っ走るだろう」

 

 シエロは半眼でネーヴェを見る。

 何を心配されているのか分からないと、ネーヴェはそっと視線を逸らした。


「ご用件は終わりでしょうか」

「そうだな……」


 このまま別れるのは味気ない。二人は言葉を探して、しばしその場に佇んだ。

 考えながら、窓の手すりに近寄る。

 塔の壁は石積の層が剥き出しになっており、窓と言っても四角にくり貫かれているだけだった。部屋の棚にはいしゆみがあったから、有事には兵士がここから矢を射るのだろう。

 しかし、今のフォレスタは戦争をしていないため、ここに待機している兵士もおらず、王城の警備は厳重ではない。だからこそ、ネーヴェがここにいても咎められないのだろう。

 二人は並んで窓辺に佇み、風を感じた。

 秋の紅葉に染まった樹海と、大勢の人が行き交う城下町を見下ろす。王城は高台にあるので、良い眺めだ。


「それで。俺の正体は分かったか?」

「何のことだか、さっぱり分かりませんわ」

 

 天使様だと認めてかしこまってやるのはしゃくなので、ネーヴェは知らぬ存ぜぬを貫き通した。

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