第53話 正解は無くても

 百年以上経っている葡萄酒は、腐敗が始まっている可能性もあったが、蓋を開けると豊潤な香りが漂い、心配は杞憂に終わった。時間の経過を感じさせない、瑞々しい葡萄の香りが部屋いっぱいに広がる。

 トマス司祭は葡萄酒を一杯飲んだだけで、酔いつぶれて眠ってしまった。どうやら酒に慣れていないようだ。シエロはそんなトマスを長椅子に寝かせ、自分はどこからか持ってきた銀製のさかずきで、葡萄酒を飲み始めている。

 無言で酒を飲むシエロを見ながら、ネーヴェは暖炉に火を入れて葡萄酒で牛肉を煮込み始めた。

 夕陽が部屋に射し込んで、壁を紅に染めている。

 秋風が吹き込んで、淡い檸檬色のカーテンをさらさらと揺らした。

 夜になる前に帰らなければと思ったけれど、静寂が心地よくて、いつまでもここにいたいと感じる。


「ネーヴェ」

 

 シエロは顔を庭に向けたまま言った。


「俺は遅すぎたと思うか」


 何にたいしてか、判然としない問いかけだった。

 答えにきゅうしてネーヴェは無言をつらぬく。


「フォレスタ王家が落ちぶれ、枯れていくのを、ただ見ているだけだった。その結果、災いを呼び寄せることになった」

 

 もしかして、責任を感じているのだろうか。

 そう気付いた時、ネーヴェは心胆が冷えるのを感じた。この国の危機に関して、彼は大勢から責められ嘆願される立場にある。そして、その地位から降りることは許されないのだ。

 王子もネーヴェも、いざとなれば国を捨てて逃げることができる。だが、彼だけは逃げることが出来ない。


「葡萄の実は、若いうちに選別し、よく膨らむものだけを残さねばならない。人に対しても、そうすべきだったか」

 

 権力者は、選ばなければならない。

 誰を殺し、誰を救うかを。

 全員を助けることは出来ないのだ。

 そのことを知っているネーヴェだから、少しだけ、言えることがある。


「……そうすべきだとしても、そうしたいと誰も思いませんわ」

 

 若い葡萄の実を摘む。あるかもしれない輝かしい未来を奪うことを想像し、心を痛める。それは人として当然の事だ。


「エミリオは本当に愚かだな。お前のような女なら、王者の痛みを分かち合うことが出来ただろうに」

 

 あいつの血を引く者に、フォレスタを継いで欲しかった。

 風に消えるような弱々しい声でシエロが呟いたのを、ネーヴェは聞かなかったことにした。




 夜になって聖堂を辞した後、ネーヴェは深い溜め息を吐く。一日掃除しただけなのに、三日三晩大掃除したようにどっと疲労した。たった一日で色々なことが分かり、頭の中も混乱気味である。

 聖堂の外で待っていたカルメラは、不思議そうだ。


「姫、何か疲れた顔してるね」

「そう見えますか」

 

 まさかシエロが天使様だったなんて。カルメラにも、誰にも打ち明けられない秘密だ。

 王子から婚約破棄された只の女のネーヴェと、天使の身分を隠して葡萄畑を耕していたシエロが偶然出会った。二人は、身分や立場と関係の無いところで、素の自分をさらし、それを受け入れてくれる相手を知ったのだ。

 本来の身分では、親しく会話するなど、あり得ない話だ。

 聖堂で再会した時、シエロはなんと言っていた?


 お前に王になって欲しい訳ではないが、そうでなければ……


 そうでなければ、会うことも出来ない。

 そのことに思い至り、ネーヴェは頭を抱えた。


「キープするのが、難し過ぎますわ……」

「?」 

 

 心配そうにするカルメラに、何でもないと言い、疲れたからと早めに寝台に入る。

 こっそり、シエロにもらった白い羽のペンダントを取り出して眺めた。

 自分の羽をむしったのか。どうやって?

 最初に会った時、葡萄畑を耕していたのは友人である初代国王との思い出のためか。それにしては真剣に葡萄の実を摘んでいた。彼は天使でも変わり者なのでは無いだろうか。

 摘果について、人間の選別をする是非を聞かれたことを、思い出す。

 ネーヴェが答えたことは、婚約破棄の前にエミリオと言い争った時、自分が欲しかった言葉だった。エミリオは村を水の底に沈めたことを責めたが、本当は彼に「つらかったな」と共感して欲しかった。

 ただ、それだけだった。

 とりとめなく思いを巡らし、ふと重要なことを思い出す。


「……髪を結う約束なのに、忘れてしまいましたわ」

 

 諦めるのはまだ早いと、急に気が軽くなる。

 きっと、約束があるから、また会える。

 そう気付くと途端に安らかな眠気が襲ってくる。ネーヴェは彼の誠実さを疑っていなかった。

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