間章~Another side③~

兄なのだから。



 夜中に麻酔から覚めて数時間後の夜明け前。

 眠気を我慢しながら梓のスマホに電話を掛けた。

 出てくれてとりあえず安心し、パニック状態の梓にいろいろなことをひとつずつ謝っていった。そうしているうちに梓は落ち着きを取り戻し、

「私どうかしてた」

 と、謝ってきた。

「広務の目の前で死ねば、私は広務にとって忘れられない存在になるって。あのときはそう思ってた。だけど、そんなの、広務を傷付けるだけなのに。ごめんなさい」

「謝るのは俺だよ。梓は俺のこと、そして美蓮のことも、ずっと考えてくれてたんだから。それに。たぶん、どうかしてない人間なんてこの世には居ないさ」

 俺がその代表だ。そういって笑うと、梓も少し笑った。

 それから、梓と付き合うことはできないけれど、梓には生きていて欲しいと願いを伝えた。

 梓はなんとか、俺のエゴの塊のような願いを聞き入れてくれた。

 電話を切る直前、梓は「さよなら」と言った。

 そうしてようやく、真っ白な慣れない天井を見上げながら眠りに就いた。



 入院してから数日経ち病院生活に慣れて来た頃、明さんからこんな話を聞かされた。

 それは父さんと母さんが死んだころのことだった。

「あのとき、お前たち兄妹に何をしてやるのが正しいのか分からなかったし、今も何が正しくて何が間違っているのかわからない。ただ、ふたりを離れ離れにしてはいけないとだけ思った」

 真面目な顔をしている明さんを見るのは両親が死んだとき以来だった。

「だからといって、いつもお前たちをふたりだけにさせてすまない。不甲斐ない大人ですまない。病院に来て姉さんと義兄さんのことを思い出して、ふと、謝っておきたくなった。あのとき「私は外側からしか、君たちを守ってやれない。美蓮のことを内側から守ってやれるのは広務しか居ないんだからしっかりしろ。楽しいこと、嬉しいことは美蓮のおかげ、辛いこと、嫌なことは全部私のせいにしな」なんて偉そうなこと言ったけど、実際、君ら二人のことを守れてやしない。それに、もしかしたらその言葉が、広務の重荷になってたんじゃないかって。ずっと、思っていた」

 明さんは申し訳なさそうな顔でそう言い、頭を下げた。

 しかし実態は真逆である。

 俺はあのとき、他でもない明さんのその言葉に救われ、美蓮が居るから頑張ろうと思えるようになった切掛けなのだ。

 そのことを伝えると明さんは「よかった」とほほ笑んだ。

 全てが丸く収められるかと思ったけれど、入院中に一つだけ想定外のことが起きた。

 梓が家族ごと引っ越して、転校してしまったことだ。

 梓からラインで、引っ越しと転校の手続きが済んだことを過去形で知らされた。俺は思わず、梓と距離を戻したいと送りかけた。

 しかし梓がそれを望まないとしたら、梓に重みを背負わせながら俺の傍に居させることになると思い別の文面を送った。

 既読は付かなかった。

 そういうこともあって、入院中、美蓮と明さんは毎日お見舞いに来てくれたけれど基本的にとても退屈だった。

 スマホを弄っているとどうしても梓とのラインのことが気になってしまうためスマホは弄らなくなった。

 明さんが差し入れしてくれたジグソーパズルも途中で飽きて放置していたら、翌日お見舞いに来た明さんがやり始めてしまい、三十分ほどで完成させてしまったのだ。

 代わりに本でも買ってこようかと提案されたけれど、俺はあまり読書家ではないので、暇をつぶすためだけに本を読むのはしんどいと思い断った。

 こうしてみて初めて、俺はあまり趣味というものを持っていないのだと実感した。

 その代わりという訳ではないが、美蓮とのことや梓とのこと、明さんのこと、そして田所恵のことを色々と考える時間にはなった。

 美蓮は傷つきながらも俺と付き合う選択肢を選んでくれた。それは偏に美蓮の優しさからくるものだろう。

 梓が俺や美蓮のことについてあれこれと言ってくれたことも、梓なりの優しさの裏返しだ。包丁を持って押しかけて来たことは驚いたが、俺を切り捨てらなかったのは俺たち兄妹を思う気持ちが暴走した結果なのだろう。

 明さんが俺たちを見捨てずに、俺たちのことを考えてくれた。だから俺と美蓮は施設や里親に預けられることなく、一緒に居られた。

 明さんの優しさがあったからだ。

 そして。

 田所恵は事故のことを今でも悔やんで、精神を病んでいるという。

 事故を起こしてしまったのは偶発的なものだけれど、今でも引きずっているのは良心の呵責によるもので、心に優しさがあるからこそ起きる現象だ。

 その優しさは田所熱海にもしっかりと引き継がれていて、母親への優しさを抑えきれなくて俺のところに来た。

 俺の周りには優しい人ばかりで、特に美蓮は自分が傷つくことさえ厭わなかった。

 なら俺は、そんな美蓮に見合う男に成らなければいけないだろう。

 何故なら。

 俺は美蓮の兄なのだから。


  ※


 一週間で退院し、直後にあった中間テストもなんとか乗り越え六月になった。梅雨入りはまだ先らしいけれど空気がジメジメとする日が続き、学校では制服を着崩す生徒が増えている。

 入院前後で大きく変わった点が、梓が引っ越したこと以外にもう一つある。

 それは美蓮がべったりと甘えてくるようになったことだ。

 学校内では人目があって恥ずかしいのか、見かけても話しかけてくる程度だが、例えば家のソファに座っているときなど、以前までは五十センチほど距離があったが今では密着するように隣に座ってくる。それ以外にも、心なしかボディータッチも増えている気がする。

 決して嫌ではないが、最近は気候的にじんわりと暑くて少し困りはする。

 嬉しい悩みというやつだろう。

 そんな日々の中で俺は久々に一人の休日を迎え、梓の家があった場所にやってきた。門の出入り口はチェーンで封鎖されており、売家という看板が掛かっていた。

 いつの間にかこの看板が取り払われて、俺の全く知らない人たちが住むようになる日が来るのだろうか。

 そう思うと少し寂しい。

 改めて梓とのラインを確認した。

 既読は未だに付いていなかった。

 俺はその足でバス停に向かい、三十分ほどかけて丘の上にポツンとある病院を訪れた。

 いわゆる精神病院である。

 外観は白い四階建てで、中学校の校舎だと言われてここの写真を出されたら信じてしまうかもしれないような外装だった。なぜこんなところにまで足を運んだかというと他でもなく、この病院にて療養中の田所恵に言いたいことができたからだ。

 アポを取って貰おうと、娘の田所熱海に声を掛けて俺の言いたいことを説明すると、病院で待ち合わせて仲介をしてくれることになった。

 敷地の入り口を越えると、正面の入り口の横に田所さんが居るのを見つけた。田所さんは俺を見つけるなり軽く唇を噛んで緊張した面持ちになった。

「今日はわざわざありがとう」

「いえ」

 田所さんは俺の顔をチラリと見上げて、出入り口の方へ振り向いた。

「自分も元々、今日来る予定でしたから」

 受付で田所さんが面会手続きを行い、田所恵の病室がある二階の開放病棟へ向かった。部屋の入り口の前に着くと田所さんは振り返り、

「ちょっと待っていて下さい」

 俺を制止してから病室に入っていった。

 田所恵とのアポを取ってもらう条件として、出されたことが三つある。

 一つ、面会する前に、まず田所さんが様子を見て精神が乱れていたら日を改めること。

 二つ、俺が田所恵と話をするときは田所さんが立ち会うこと。

 三つ、田所恵が具合を悪くしたらすぐに帰ること。

 それらを思い出し、まあ当然だろうと思いながら待っていると程なくして扉が開き、顔を出した田所さんがコクンと頷いた。

「どうぞ」

 手で促されて病室に入ったとたん、部屋の奥の方で短く息を吸う音が聞こえ、思わず足がピタリと止まってしまった。

「お母さん。今話した、お母さんに会いたいって人」

 田所熱海がそう言って、ああ、今、田所恵と同じ部屋に居るのだな、と思わされる。病室の前までとは打って変わって、足が鉛のように重い。

 田所恵が謝罪をしたいと申し出たあの日、頭がおかしくなりそうだから顔を見せないでくれと言ったのは紛れもない本心だ。

 だというのに、病室の前まで何もなしに来られたのが不思議なくらいである。

 心臓が五月蠅いくらいにバクバクと鳴って、何故だか涙まで浮かびそうになり、深く息を吸って堪えた。

 今度は咽そうになり、無理やり息を飲んで耐えた。

 ゆっくりと顔を上げるとそこには、とてもやつれた様子の人物がいた。

 白髪交じりの頭は所々禿げ、ほうれい線が深くて頬が下がっている。その女性が左手で口を押えると、手首に包帯が巻いてあるのが見えた。

 事故があった頃に見た写真と随分と印象は変わって見えるが間違いない。

 この女が田所恵だ。

 手のひらに鈍い痛みを感じて、自分が拳を強く握りしめていることに気が付いた。ゆっくりと息を吸って、指の力を小指側から抜いていく。

 心臓が煩い。

 空気が泥のように不味い。

 喋ろうとしても、言葉が重い。

 全身を生暖かい手に撫でられているような錯覚に襲われて気色が悪い。

 この場の誰も喋って居ないのに、喚き声みたいな音が聞こえるような気がして――


 ――頭がおかしくなりそうだ。


 ここで逃げ出すのは簡単だけど、それじゃここまで来た意味がない。

 俺は美蓮に見合う兄になるのだ。

 心中で自分にそう言い聞かせて全ての指の力を抜き、田所恵の顔を見てなんとか声を絞り出した。

「初めまして。七搦広務です」

 田所恵は口を押えたまま目をギョロっと動かして俺と田所さんを交互に見ながら、困惑の籠った言葉にならない声を洩らしだした。

 俺は何とか、田所恵の顔を見て話そうとしたが、二秒と直視できず、視線を逸らしてしまう。

 逸らしたまま。

 なんとか言葉を吐き出した。

「俺は、あなたに言いたい、ことが、あって、来ました」

 数語喋る度にぞわぞわと気持ち悪さが込み上げて、高熱に侵されているような気さえしてきてしまう。

「俺はあなたを」

 俺は、田所恵を。

 俺から、そして美蓮から両親を奪った田所恵を絶対に許さない。

 許すだなんてとんでもない。

 許すと言葉にしようとするだけで、虫唾と悪寒が走る。

 ハラワタが煮えくり返りそうになる。

 そして、そんな自分が哀しくなる。

 それでも。

 俺は美蓮の兄として、美蓮に相応しくならなければいけない。

 だって、俺が両親を失って辛いのは、間接的にとはいえ他人を。

 田所恵を傷つけてもいい免罪符にはならないのだから。

 咳払いをして声の調子を整え、軽く笑顔を作って、そうして言った。

「あなたを許します」

「ぇ?」

 田所恵にしゃがれた声で聞き返され、息が詰まる思いだった。

 俺は調子が崩されないように、言いたいことを言い切ろうと深く息を吸った。

「熱海さんからあなたが事故のことを今でも気に病んでいることを聞きました。でも、もういいんです。全部、終わったことなので。亡くなったものより、今ある命を大事にしてください。あなたの命は、あなたの家族の命でもあるので。俺は、大丈夫なので。あのとき」

 ふと、両親の最期の姿が浮かんで、けれどもそれを、なんとか振り払い、続けた。

「許せなくてごめんなさい。俺の言いたいことは、これだけ、なので」

 そう言い切って一礼してから振り返った。

 俺は逸る気持ちに抗えず、病室を後にした。

 もう少し留まっていたら田所恵が言葉をまとめて何かを言いそうな気配がした。

 何か一言でも田所恵の言葉を聞いていたらきっと、俺は俺の心を無理やり麻痺させるような結果になっていただろう。

 それほどまでに、自分自身の発言が気持ち悪い。

 許せるわけがないし、許さない。

 なにが亡くなったものより今ある命だ。

 ああ、気持ち悪い。

 それでも。

 自分が辛くとも、これぽっちも許せなくても、田所恵に許しを与える。それくらいのことはしてみせないと、美蓮の兄として相応しくない。

 一階のロビーに降りて椅子に座り込むと、思わず膝に肘をついて頭を抱え込んでしまう。そのまま少ししてから、ゆっくりとした足音が近づいてきて、遠慮気味に声を掛けられた。

「あの、大丈夫、ですか?」

 顔を上げて声のした方を見ると、田所さんが奇妙そうな表情をしていた。

 田所さんには田所恵を許したいという旨しか話していないのだから、それもそうだろう。

「田所恵の様子はどうなの?」

「えっと。お母さんは、最初は驚いてましたが、七搦先輩に感謝してました。それと、本当に申し訳なく思っていると伝えてほしいと」

「そう」

「本当に、大丈夫ですか? 顔色、少し悪いですよ?」

「まさか。大丈夫に決まっている。このくらい」

 そう言って立ち上がろうとしたけれど、足に力が入りきらずにふらついた。それでも何とか耐えきって直立すると田所さんは、

「もしかしてなんですが」

 と俺の顔を覗き込んできた。

「もしかして七搦先輩、本当はお母さんのことを許してなかったりします?」

 ドキリ、と心臓が大きく跳ねた。

「どうして、そんな風に思う訳?」

「だって、お母さんの病室に行ってから様子が変でしたし、それに。許せるものなのかなって、思いまして」

 ピシリピシリと、俺の一番深くにあるものにヒビが入る。

 そのヒビがそれ以上広がらないように、慎重に息を吸った。

「俺が田所恵を許せてない、だって? 許したんだよ! 田所恵は許された。実情がどうあれ、事実はそうなんだ。それでいいだろっ!」

 病院ということも忘れて思わず声を張り上げてしまい、受付に居た人がやってきてしまった。

「どうかなさいましたか?」

「なんでも、ないです。すみません」

「でしたら、お静かにお願いします」

「すみません」

 俺が謝ると受付の人は俺と田所さんを一瞥してから、受付に戻った。

 冷静さを取り戻せ、

「ごめん」

 田所さんにも謝罪した。

「でも、何を思って何を言うのも君の自由だけど、他人を傷つけない訳じゃないというのは覚えておいた方が良いよ」

「えっと……はい」

 田所さんはバツが悪そうに目を伏せてそう言った。

「ごめん。俺はもう帰るけど、田所さんは?」

「自分はお母さんの所に戻ります」

「そう。一応言っとくけど、田所恵に今のことは言わないでほしい。俺の気持ちがどうあれ、田所恵が救われないと、こんなところまで来た意味がないから」

 田所さんは何も言わず、コクンと頷いた。

 俺は年下の女子に怒鳴ってしまった情けなさと、八つ当たりをした罪悪感に圧迫されながらトボトボと帰路に着いた。

 家に着き玄関に入ると美蓮の靴があり、既に友達の家から帰ってきていることが分かった。

 俺が靴を脱いでいる間にリビングから美蓮が出て来た。

 そして抱き着いてくる。

「お帰り、お兄ちゃん」

 ぎゅっと抱きしめ返すと、直前まで荒んでいた俺の心が一気に浄化され、天に上るような気持ちになった。

 俺の帰る場所が美蓮でよかった。

 改めて思わされる。

「ただいま、美蓮」

 幸せの感情に包まれながら、返事した。


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