ミリオネア

桔乃一三千

一、

 燦々と輝る太陽。ひかめくように、幼子たちの笑い声が響く。

 年の頃は四、五歳から、十を超えていそうな子まで幅広い。勝手知ったる地元の子どもたちは、来る瞬間を待ちわびて、中央の広場に集まっていた。

 地元でも一際大きな駅前の公園は、自然も多く、ベンチも多数設置されている。日向ぼっこをするにはうってつけだ。春の日差しがぽかぽかと気持ちいい。

 そのうえ、はしゃぎ声も聞ける。

 希望にあふれる子たちの騒がしさは嫌いじゃない。中には遊び声を厭うたり、迷惑がる老人もいるとニュースで見たことがある。ある町では児童公園の撤去を求めたそうだ。幼稚園や保育園に苦情を入れる人は後を絶たない。薫や夫とはかけ離れた人種だと思った。薫たちは近所の子供達の遊び声にむしろ元気をもらっている老夫婦だった。

 ふと広場の脇を見やると、一組の家族が居た。女親、男親、そして娘だ。両親はシンプルな服装だが、ご息女はやけにめかしこんでいて、ワンピースの下がパニエでふわふわとしている。モノトーンの配色が都会的だ。おそらく地元の子どもではない。家族は父親か、はたまた母親の実家に戻ってきたのだろう。可愛い孫の姿を見せようと、張り切る母親の姿が目に浮かぶ。

 おしゃれ着を着た幼子は、しきりに地元の子どもたちを見ている。混ざりたいのかもしれない。両親の顔を見て、再び子どもたちの遊びに視線を移す。興味津々だ。だが躊躇いも見て取れる。その姿が微笑ましくて、薫は思わず頬を緩ませた。

 その子は、幼き日の薫に、どこか似ているような気がした。

 薫は幼い頃から、思ったことを口には出せない性質だった。父のことも、母のことも、姉のことも、顔色を窺って過ごした記憶しか無い。家は使用人が何人も必要なほどに広かったし、調度品はすべていいものを設えてくれていたから、お金持ちだったのだと思う。

 比較的良くしてくれていた祖父の話によると、薫の先祖が地元で温泉を掘り起こしたことが商いの始まりだったそうだ。つまり、立派なのは先祖であって、薫や両親や姉ではない。そう思うと、父の尊大さも、母の高飛車も、姉の徒消癖も、薫には理解が及ばなかった。たとえ有り余る富がなくとも、毎日を健気に生きている人々のほうが価値があるとすら思う。薫は多くを語らなかったが、内心では家族を軽蔑していたし、家族もまた薫を忌むべきものと見做している気配すらあった。

 だから、薫は十八で家を出た。逃げ出すようにこっそりと県外に出た薫は、興奮と期待で胸を高鳴らせながら、仕事口を探した。

 採用されたネジの工場で、薫は夫――俊幸と出会った。

 俊幸は、薫と同じく、口数が少ない男だった。実直で仕事は丁寧だけれど、いつもしかめっ面で沈黙しているので、毎日怒っているのかと勘違いしていたほどである。

 しかしある時、雨の日に薫に傘を差し出し、自分は濡れて帰っていくのを目の当たりにしてから、薫は考えを改めた。

 物言わぬは思わぬの証ではない。薫とて、どれほど強く思っても言えないことが数多ある。

 後からわかったことだが、俊幸が薫に優しかったのは、彼もまた実家と疎遠だったことに由来していたそうだ。俊幸は大きなお店の次男で、昔は少し悪さをして親を困らせていたそうだ。結果、勘当同然で家を出された。二人が出会った頃には、はすっかり改心して、落ち着いた人になっていた。

 二人は惹かれ合い、一緒になった。薫は二十歳、俊幸は二十五歳だった。

 けして豊かな暮らしぶりではなかった。俊幸の稼ぎはあまり多くない。薫は工場を退職し、自営業の定食屋で働いた。朝早くに洗濯をし、俊幸の弁当と朝食を作り、日中は汗だくになって働いた。遅めの昼食を取って夕食の支度をし、洗濯物を畳んで、アイロンがけをする日々だった。

 手は荒れて皹だらけだったし、服もほつれていた。理髪屋に通えないから、髪は伸びざらし。それでも、実家に帰りたいとは一度も思わなかった。薫は満たされていた。

 そんな暮らしが二年続いた頃、薫は子どもを授かった。第一子は男の子だった。三年後には次男を、更にその五年後に女の子を身ごもった。大変さは筆舌尽くし難かったけれど、薫は幸せだった。多忙な中に息づく幸福は、まさに宝物だった。薫は一生懸命に働き、働いて、なお働いた。

 しかし、頑張りが報われたかと問われると、自信を持って頷けない自分もいる。

 長男の一貴は高校を卒業してすぐに就職した。

 商才のある子だったらしく、とんとん拍子に出世したが、同時に薫たち夫婦を見下すような言動が増えてきた。稼ぎの少ない薫と俊幸を「貧乏人」と鼻で嗤い、「バカが感染するから」と部屋にこもりがちになった。薫などはほぼ家政婦のように扱った。俊幸に直接暴言を吐く事はなかったのが小賢しい。結婚して家を出ると、連絡すらよこさなくなった。風の噂では二人の子の親になったというが、孫の顔を見せに来ることすらなかった。

 次男の義貴は、不良になった。中学二年生になった頃から、悪いグループに入り、毎晩喧嘩に明け暮れていた。血と痣でぼろぼろの顔を見る度、どれほど気を揉んだかわからない。

 高校三年生の頃、義貴は失踪した。警察に届けも出したが、今なお見つかっていない。近所の人はヤクザ絡みだとか、暴行で逮捕されたのだとか噂したけれど、薫は違うと信じている。幼少期から手のかかる子だったけれど、根は優しい子なのだ。きっと、自分と俊幸に迷惑をかけまいと、姿をくらましているに違いない。そうした空想を、薫は事実だと自分に言い聞かせて生きている。

 末娘の聡美は教師になった。

 行儀がよく勤勉で、親の欲目を差し引いても器量よしだった。学校を卒業して国語の教師となり、高校に配属された。そこで出会った数学教師と交際し、数年後に結婚。今は一児の母である。

 嫁に行った娘のことは他人と思うべし、というのが古くからの習わしだ。寂しくないといえば嘘になるが、薫がしつこくつきまとっては、亭主が嫌がるかもしれない。ぐっとこらえて、薫は聡美の幸せを願った。聡美とは月に一度くらい電話で話し、半年に一度――夏と年始の三が日の内一日――に顔を見せる程度だ。孫の透はまだ三歳だが、発話には至っていないらしい。ママすら言わないのだそうだ。しかし屈託なく、機嫌よく笑う子なので、ほんの僅かでも一緒に遊べるのがたまらなく嬉しい。

 三人の子どもたちがもたらした明るさが消えても、薫が表情を曇らせることはなかった。主人がいたからだ。子どもたちが巣立っても、寂しくなんてなかった。二人の暮らしは質素で、穏やかで、山も谷もなかったけれど、元来刺激的な日々を好む人間ではなかったし、俊幸は相変わらず優しかった。

 その日起こった他愛もない近所の噂話を、相槌一つ打たずに静かに傾聴してくれる夫が好きだった。

 薫の失敗した料理を何の文句も言わず食べてくれる夫が好きだった。

 大好物の日本酒を毎週金曜日に嗜むだけの慎ましい夫が好きだった。

 そんな最愛の夫を、薫は失った。享年七十歳。人生百年時代と呼ばれる今、あまりに早すぎる死だった。

 その日のことを、薫はありありと思い出せる。

 いつものように夫より早起きして自分の寝具を片付け、洗濯をし、アジの干物を二尾焼いて、豆腐と長ネギの味噌汁を拵えた。俊幸を起こそうと寝室に向かうと、声をかけた。最初は寝ているように見えたのだ。

 お父さん、今日もいいお天気ですよ――。

 しかし返事はなかった。

 よく見ると、顔色が悪い。

 お父さん――。

 薫は駆け寄って、伴侶の肩を叩いた。

 お父さん、お父さんったら――。

 返事はなかった。

 動転した薫は、自分を落ち着けるために湯を沸かして、茶を淹れた。熱すぎる日本茶を啜って、それでもざわめく心を押さえつけるようにして、薫は警察と救急車を呼んだ。

 十分も立たず、緊急車両が到着した。救急隊による蘇生処置が行われて、ようやく薫は夫の死を実感した。

 泣き崩れる薫の肩を、女性の警察官がずっと抱いていてくれた。

 救急車は、まもなく帰っていった。死因は心不全とされた。警察が状況を調べるまでもなく、事件性はなかった。数人の警察官だけが家に残り、薫がすべきことを教えてくれた。

 まず最初に、子どもたちに連絡をすること。薫は長男である一貴と、末娘の聡美に連絡した。聡美は透を夫に預けて駆けつけてくれたが、一貴は「遺産の話ができるようになったら呼べ」とだけ言って電話を切った。

 次いで、葬儀の手配が必要だった。実家の宗派など話し合う機会もなかったし、俊幸の実家に問い合わせるだけの度胸を薫は持っていなかったため、無宗教形式にせざるを得なかった。葬式は自宅で小規模に開催した。夫の会社の人たちとその奥方らの手伝いもあり、つつがなく終了し、遺体は焼かれ、骨になって残った。決まった墓など自分たちにはないから、遺骨を自宅に置けるよう手続きをした。仏壇を誂える余裕もなかった。一貴は、葬儀に顔を見せることすらしなかった。

 薫は程なくして、塞ぎ込むようになった。毎日を一生懸命生きていたのが嘘のように、毎日死を考えた。そして、夫の存在が自分の人生をどれほど支えていてくれたのかを思い知るようになった。

 同時に、亡き亭主への恨みが募った。

 なぜ、私を置いていってしまったの。

 私を一人きりにするの。

 どうして一緒に連れて行ってくれなかったの。

 届かない呪いの言葉は、薫の中に凝り、どんどん気持ちを鬱屈させていった。食は細くなり、睡眠も覚束ない。ぼんやりと虚空を眺める時間が増えた。

 薫は聡美に付き添われてカウンセリングに行った。優しい臨床心理士に気持ちを吐き出し、医師から睡眠薬と安定剤を処方されると、幾ばくか楽になった気がしたが、食欲だけは戻らず、体重は一ヶ月で二キロ落ちた。もともと痩せ型だったためか、より一層老いさばらえたような気がした。

 しかし、四十九日の忌明け以降、薫は落ち込んでいるだけではいられなくなった。薫は生きるためにあらゆる制度を活用しなければならなかった。

 真っ先に行ったのは、年金の受給手続きだ。

 これまで夫と自分の二人分の年金をもらっていたが、夫の死後二人分は受給できない。自分の老齢基礎年金だけを受け取るか、遺族年金を受け取るか、選ばなければならなかった。遺族年金は幼い子どもがいる場合には多少有利らしいのだが、役所の人にいくら説明されても、薫には具体的な違いがわからなかった。結局、自分の老齢基礎年金だけを受け取る形にした。

 続いて、俊幸の資産を調べた。

 あらゆる役所に行って調べてもらって判明したのは、夫に借財はないこと、資産は二人が住んだ家とその土地を保有していること、そして、県内の山奥に土地を持っていることがわかった。

 特に最後の財産を、薫は不思議に思った。俊幸が薫に山奥の土地についてきちんと話したことがなかったからだ。

 どういう意図で土地の所有者になったのか、その経緯は今となっては分からないが、俊幸が残した大切な遺産の一つである。なにか大切なものを隠しているのかもしれない。そうでなくても、何らかの思い入れがあるやもしれなかった。

 薫はすべての遺産を相続することにした。

 そして葬儀から二ヶ月経った頃、ようやく薫は長男の一貴に連絡することができた。遺産の分配について話し合う覚悟ができたからだ。

 三枝家の一族が一同に介したのははじめてのことだった。一貴と妻の七菜、二人の子どもたち。そして聡美とその配偶者の圭助。聡美は透を抱いている。初めて対面した一貴の子どもたちには、何故か愛着を抱きにくかった。二人の少年はずっと薫を睨みつけていた。それに対して、聡美の一家は薫をいたわるような、優しいまなざしで見つめてくれていた。

 薫が俊幸の遺産について説明すると、一貴は激怒した。

「家はわかる、家が建っている土地もだ。だが山奥の土地まで相続するのは意味がわからない――ッ」

 激昂している一貴をなだめるように、圭介が口を開く。

「お義兄さん、遺産は部分的に相続することはできません。相続は零か百の二択で、自分たちにとって都合の悪いものだけを相続しないことはできないんです」

「じゃあ全部放棄すればいいだろ?!」

「お調べしましたが、もう相続放棄の期限は過ぎてしまっています。相続するしかありません」

 一貴はソファにふんぞり返って頭を掻きむしった。

「聡美、お前がついてたくせになんでこうなってるんだッ」

「しょうがないじゃない、私だって法律に詳しいわけじゃないんだから――」

「口答えするんじゃねえ!」

 一貴は立ち上がって、薫と聡美、圭介を侮蔑の目で見下ろした。

「テメエらが腑抜けてるからこうなってんだぞ、恥を知れ!」

 恥を知るのは貴方です、一貴――。

 薫は頭の中だけで声を上げた。

 俊幸さんの葬儀にも、四十九日法要にも来なかった貴方に、何も言う資格はありません――!

 しかし、思いは届かない。唾を飛ばして薫や聡美夫婦を罵倒する一貴に、薫は小刻みに震えることしかできなかった。

 理性的な圭介が落ち着き払った声で一貴をたしなめる。

「確かに、私が妻にすべてを任せて全く介入しなかったことは恥じるべきことです。しかし、これからは私達がきちんと相続の手続きをしなければなりません。時は巻き戻せません。相続放棄できない以上、資産として扱う必要があります。それに、他にも考えなければならないことがあります――お義母さん」

 突然優しく声をかけられて、薫はぎくりと体をこわばらせた。

「は、はい――」

「お義母さんは、今後どうされたいなどありますか?」

「今後――?」

 薫は静かに混乱した。毎日のように死を考える自分の内面を見透かされたような気がしたからだ。しかし、圭介の質問の意図は、薫の胸中とは異なっていた。

「お義母さん一人で暮らすのでは不便も多いし、なにより聡美さんから最近様子がおかしいと聞いています。僕たちと一緒に暮らすこともご検討いただけますか?」

「一緒に――私が、聡美と――?」

「はい。聡美と相談して、二人で決めました。お義母さんのお気持ちを確かめた上で、同居しようと」

「でも――圭介さんのご実家は」

「幸い、私は次男です。兄夫婦は出来た人なので、両親のことは二人にまかせているんです。だから、私の実家のことはどうか心配なさらないでください。もちろん、お義母さんが拒むなら、我々は辞退しますが」

「拒むなんて――私には、感謝しかありません」

「よかった」

 圭介と聡美が目を合わせてほほえみ合うのを、一貴が面白くなさそうに見やる。

「それ、遺産と何の関係があるんだよ」

 圭介はまっすぐに一貴を見て言う。

「無関係ではありません。まず、この家と土地を、聡美さんに相続してもらいます。そうすれば、僕ら家族とお義母さんは、この家で一緒に暮らすことができます。私は幸い職場も遠くありませんし、聡美は実家で子育てをすることができます。不都合があればリフォームとかもできるでしょう」

「待てよ」

 一貴が不機嫌そうに眉を寄せている。

「ということは、俺にあのよくわからねえ土地を相続しろってことか?」

「そうは言っておりません。お調べしたところ、あの土地にはほとんど価値がないことがわかっております」

「価値が、ない――?」

 薫の不安げな声に、圭介は残念そうに「ありません」と頷いた。

「お義父さんはおそらく、騙されたのでしょう。全く価値のない土地を高額で購入させられていたようです。実際に赴いてみましたが、資産価値はほとんどありません。しかし、固定資産税はわずかでも支払わなければならず、これは負債扱いと言えそうです」

「そんな――」

「なので、もしお義母さんさえよければ、この土地も聡美に相続させてもらえませんか?」

「聡美に、ですか?」

 「はい」と、圭介は言う。「聡美と私で協力して、あの土地を売却します。どれだけ安値であっても、負債を生み続けるより遥かにいい」

 一貴が深いため息をついて重々しく立ち上がると、圭介を見下ろした。

「つまり、俺に相続させる遺産はねえと、そう言いたいのか? おまえは」

「はい。そうです」

 圭介は立ち上がって真っ向からその視線に応じた。

「遺産のことばかりでお義母さんの心配ひとつしないあなた方に、預けられるものは一切ありません」

「俺には相続権がある。親父の遺言書が見つかってない以上、長男である俺に相続する権利があるんだ!」

 睨み合う圭介と一貴が生み出した沈黙を、深い溜め息が破った。七菜だ。注目されている事に気づいた七菜は、きまり悪そうに口を開いた。

「相続権で言えば、もう一人いますよね。一貴さんの弟の義貴さん――でしたっけ?」

 薫は静かに息を飲んだ。大事な息子のことを、今の今まで失念していたのだ。圭介は努めて穏やかに断言する。

「連絡が取れない人間に相続をするのは無理です」

「トラブルにならないといいなーと思っただけですよ。こっちの都合で相続させないでいると、あとで裁判沙汰とかあるかもしれないから」

 七菜は赤いネイルを眺めながら言った。小さな子どもたちが騒いでいる。

 薫は気分が悪いから、といって部屋に戻るふりをして、家を出た。そして駅前の広場で、ぽつねんと過ごしている。

 死にたいと思った。

 俊幸を失ってから慢性的に抱いている希死念慮は、遺産の巡るいざこざでむくむくと肥大していた。このまま死んでしまえば、自分自身は楽になれることはわかっていた。

 しかし、良くしてくれる聡美と圭介夫妻を困らせるようなことはしたくない。

 生きるのは難しい。死ぬのも駄目。薫の胸は苦しくなるばかりだ。

 時計台の針が、十二時を指した。

 広場のアスファルトから、垂直に水が吹き出してくる。水は徐々に量を増して、二、三メートルの高さまで噴射される。子どもたちの歓声が上がる。色とりどりのTシャツを着た子どもたちは、水のカーテンの中をくぐって遊びだす。びしょ濡れになりながらも、それでも楽しくてたまらないと言った様子だ。

 すると、薫の視界の中に、モノトーンの色彩が飛び込んできた。例のお嬢様だ。

 おずおず噴水をに近寄った姫は、近所の子供に手を引かれ、水飛沫の中へ消えて、すぐに戻ってきた。せっかくのよそ行きの服は、すっかり濡れてしまっていた。しかし、少女はすぐに広場を駆け回り、虹のかかっている噴水の中に消えては姿を表すことをくりかえした。

 両親の方を見やると、母親は肩を落としていたが、父親は微笑ましげに目を細めていた。いい夫婦だ。子どもはきっと健やかに育つだろう。

 薫はひとり、思う。あの小さなレディのように、駆け出す勇気があったなら。自分が主導して、物事を決めるだけの強さがあったなら。

 噴水は徐々に小さくなっていく。終了時間が来たのだろう。濡れ鼠となった子どもたちの姿が顕になる。子どもたちは徐々に広場から離れていった。件のお嬢様も、残念そうに両親の元へ戻っていく。

「元気ですね」

 突然、声が聞こえた。厚みのある、どこか艶やかな声だ。

 首を左側に傾けると、そこには一人の紳士が座っていた。

 昔父が着ていたような、質の良い濃いグレーのスーツ。品の良いグリーンのネクタイ。薫に比べれば若々しいが、しかし酸いも甘いも噛み分けたような、大人の顔つきをしている。華奢な手首には、シルバーに輝く腕時計をしていた。スラックスと革靴の間に見える靴下すら、上流階級の人間だと思わせる。男はベンチの反対端に座っていた。

 いつの間に居たのだろう。

 自分に声をかけたのだろうか。それとも独り言なのだろうか。

 考えあぐねる薫の視線に、紳士の視線が絡む。

「子どもたちですよ。とても元気ですね。素晴らしい」

 男はそう言ってにこりと微笑んだ。その笑顔に、薫は少しだけ、どきりとした。

「――そうですね」

 薫が再び広場に目を戻すと、子どもたちはいなくなっていた。別のベンチで、おしゃれ着の少女は、質素な服に着替えていた。

 なぜ、この人は私に話しかけたのだろう――。

 世間話だろうか。否、それにしては――不自然だ。

 男の存在そのものが、この駅前公演に相応しいとは思えない。それとも、こうして庶民の様子を眺めるのが趣味なのだろうか。

 訝しむ薫に、不可思議な紳士は再び口を開いた。

「突然声をかけてしまってすみません。あなたが子どもたちの姿に魅入ってらっしゃる姿が、どうにも羨ましそうだったもので」

「――羨ましそう、ですか」

「子どもたちのように、自由に振る舞いたいのかなと。そう感じました」

「私、そんなにわかりやすいですか?」

「ふふ、あなたのように素直な方のことなんて、誰にでもわかりますよ」

 紳士は指を組んで、両膝に肘を乗せた。

 「なにかお困りごとがあるなら、話してみませんか? もちろん、差し障りのない程度で。誰かに打ち明けると楽になることもありますから」

 「でも――」

 「なに、私は行きずりの他人ですよ。もう二度と会うこともありません。怪しまれるのも当然かと思いますが、赤の他人にしか出来ない話もあると思いますが、少しはお力になれるかもしれません。駄目で元々だと思って、お話ください」

 男は人の良さそうな笑顔で薫を見ている。その温かい眼差しは、どこか俊幸を思わせて、薫は懐かしさに涙をにじませた。わずかに緩んだ涙腺は、すぐに大粒の涙を生み出し、ぽろりと頬を伝う。

 「――す、すみません」

 薫がバッグからティッシュを出すより早く、男はハンカチを差し出してきた。

 「あなたほどの美人を泣かせるなんて、罪深い人がいたものですね」

 薫はためらいがちに、ハンカチを受け取った。男の表情は、いつしか真剣なものになっていた。しかし、声は優しいままだ。それに促されるようにして、薫は静かに泣いた。

 「お恥ずかしい話ですが――」

 薫は嗚咽混じりに事のあらましを語った。

「私は子どもの頃はお嬢様だったんです。でも、お金持ちであることを鼻にかける家族が嫌で、家を出て、主人と結婚しました。貧乏でしたけど、幸せだったんです。夫が他界するまでは」

「それは――お悔やみ申しあげます」

「ありがとう。夫の居ない日々は本当に苦しくて、つらくて、生きるのが嫌になりました。でも、子どもたちの事を思うと死ぬことも出来ない」

「死ぬことはできませんか」

「一緒に暮らそうと行ってくれてる娘たちの申し出を無下にはできませんし、死ぬにはお金が必要です」

「なるほど」

 男は顎髭を撫でながら、考える素振りを見せる。

 「結局――」薫は言う。

「自信が無いんです、私には。私の決断はずっと正しくなかったのかもしれない。現に、夫の遺産の相続放棄をしなかったことも、子どもたちの育て方も、正解ではなかったのかも。だから主人を失ってしまったのかもしれません。息子には責められて、娘には心配をかけて、それでも生きていかなきゃいけないのが辛いんです」

「そうでしたか――」

 男は顎に指を当てて、何かを考え込む仕草を見せると、不意に人差し指を立てて薫を見た。

「一つ、私からご提案があります」

「提案、ですか」

 紳士はスーツの内ポケットから封筒を取り出した。厚みがある茶封筒だ。

 そしてそれを、薫の前に差し出した。

「ここに百万円あります」

「ひゃ、百万円――?!」

「はい。あなたに差し上げましょう」

 すっと、風が凪いだ。

 薫は言われた意味がわからなかった。

 困惑気味に、突き出されている封筒を見て、紳士の顔を見る。そして言われた言葉を頭の中で反芻する。更にわけがわからなくなる。

「あの――」

「ああ、本当に百万円入ってるかどうか心配されていますか?」

「そ、そうではなく」

「ちゃんと本物です」

 髭を生やした男は、封筒の中から白い帯でまとまっている札束を取り出し、ぱらぱらと片端をめくってみせた。反対端も同じように、一枚一枚を確認させながら、「偽札かどうかも、銀行で調べてもらえばわかるかと」と男は細くした。

「いえ、違うんです」

「ふむ、違うというと」

 男は前のめり気味に薫に詰め寄る。薫は辟易として、髪に指を絡める。必死に言葉を紡ぐべく、思考を巡らせる。

「ただ――理解が追いつかなくて」

「理解、ですか」

 薫はおずおずと頷く。

 顎に生えた髭を撫でると、男は――意外なことに――微笑んだ。

「それはそうでしょう。見知らぬ人間に突然金を差し出されて、堂々と受け取れる人間は少ない。なにか思惑があると感じるのが自然です。しかし、私は詐欺師ペテン師の類ではありません。それを証明する術は――残念ながらありませんが」

 肩をすくめてみせると、薫から見れば妙齢とも言える男は人差し指を立てた。

「しかし、あなたに損はありません」

「でも――そんな大金、持っていたって使い道がわかりません」

「使わなくていいんですよ」

「え――」

 虚を突かれた薫がぽかんと口を開くのを、男はおかしそうに笑った。

「この百万円は、あなたが自由にできるお金です。ただ持っていればそれでいいのです。いつか困ったときに使ってもいいし、貯めておいてもいい。生活に充てたっていい。使うも、使わないも――あなたの自由です」

 ますます意味がわからない。逡巡する薫に、男は笑みを消した。真剣な面持ちで、薫を見つめる。

「あなたに必要なのは、勇気じゃない。自信でもない。確かな安心です」

「安心――?」

「そう、安心」

 男は立ち上がって四、五歩前に進む。

「あなたは配偶者を失って非常に深く傷を負っています。専門用語では喪失体験とも言うそうですが、これは精神医療において、あらゆる人が遭遇する非常に困難な状態といわれています。そのような場面で、適正な判断ができるわけがない。相続に関する決断など、特に難しいことだったでしょう。おまけにそれを子どもたちに詰られてしまった。傷は深まる一方だ。あなたには傷を癒やす時間が必要なのです。しかし、制度がそれを許さない。ならば、物理的な安心を手に入れるしかありません」

「物理的な安心――?」

 くるりと振り返ると、スーツの紳士は「そう、財産です」と人差し指を立てた。

「財産――」

 かつかつと革靴を鳴らして歩いてきた男が、薫の前に跪く。両手の中には、茶封筒。

「これは、あなたのお守りにしてください。繰り返しになりますが、使っても、使わなくてもいい。ただ持っているだけでも構いません。ただ一つだけ、約束をしてください」

「約束――ですか」

「はい。私の願いは一つ。あなたの幸せです」

「――どうして、そこまでしてくださるんですか?」

 薫の耳の奥で、血液がどくどくと流れる。胸も、手足も――皮膚の表面が全て波打ってしまうほどの強さだ。中年の男は、優しく口角を上げた。

「それは、私がミリオネアだからです」

 呼吸が浅くなる薫の手に封筒を握らせて、男は「お幸せに」と告げて去っていった。革靴の踵が鳴る音が遠のくのを聞きながら、薫は呆然としていた。

「お母さん!」

 聡美の声にはっとした薫は、周りを見渡す。

 子どもたちは消えていた。紳士の姿もない。

 日が翳るのが早い。

 駆け寄ってきた聡美が、「どうして何も言わずに出かけるの!」と強く薫の肩を抱く。抱っこ紐で子どもを抱えたまま薫を探していたのだろう。

「ごめんなさい、心配かけて――」

「もう、無事でよかった」

 聡美が薫を抱きしめる。薫も、聡美を抱きしめた。

「ごめんね、ごめんなさい」

「もういいよ。私たちも兄さん夫婦も、明日から仕事だから、そろそろ家に帰らなきゃ。お母さんもはやく帰ろう――その封筒、どうしたの?」

 薫は慌てて封筒をカバンの中に隠した。

「何でもないの」

「――そう」

 聡美は訝しげな顔つきではあったが、それ以上詮索はしなかった。聡美の差し出した手を薫が掴み、ベンチから立ち上がると、息を切らせた圭介がやってきた。

「よかった、無事だった」

「ご迷惑おかけしました――」

 頭を下げる薫に、圭介はかぶりを振った。

「いいんですよ、お義母さん。ただ、次は声かけてくださいね。僕もご一緒しますから」

 嫌な顔ひとつしない。本当にいい人なのだ。

 薫は手荷物をぎゅっと握りしめて、聡美夫婦と帰路についた。一貴一家はすでに帰ってしまったらしい。

 薫は決心した。夫の遺産は、聡美に相続させる。

 聡美と圭介に委ねるのだ。聡美と圭介夫婦と薫が同居することは、聡美たちの取り分を多くするのには十分な理由になるだろう。

 詳しいことは然るべき場所に相談する必要があるが、きっとなんとかなる。なぜか、薫はそう確信している。

 聡美と透、そして圭介の三人を見送って、薫は久しぶりに深い眠りについた。夢すらおぼえていないほどだった。

 翌朝六時に目覚めた薫は、久しぶりに朝食を取った。炊きたてのご飯と、冷蔵庫でしなびていたにんじんの味噌汁。俊幸が他界してからは、自分のために料理をすることを億劫がっていたので、自分で自分に驚いた。けれど、清々しい一日を迎えられそうな気がした。

 薫は朝から地域で名の知られている弁護士事務所を訪れた。受付の青年に案内された部屋にやってきたのは、大柄で脂ぎっている年配の人物だった。ベルトの上にたっぷりとのった脂肪にぎょっとしたが、薫は顔色を変えないように努め、相談ごとを話した。

 弁護士は、薫の要望をクリップボードに挟んだコピー用紙にさらさらとメモしていった。

 薫の要望は次の二つだ。

 第一に、自分と長女である聡美に、俊幸のすべての遺産を相続させること。

 第二に、長男の一貴および次男の義貴に一切の遺産を残さないこと。

 しかしそれを叶えるのは少々難しいようだった。

 薫と俊幸の間の子どもは三人。この場合、薫は俊幸の遺産の二分の一、子どもたちにはそれぞれ六分の一の遺留分がある。薫の望む通りに相続を進めるには、何らかの形で一貴、そして行方不明の義貴の相続権を剥奪しなければならない。一番有効なのは相続放棄をさせることだったが、それは一貴はもとより、義貴に申し出させることが至難の業だ。おまけに相続放棄の期限はすでに切れている。この案は採択できない。

 次いでありうるとすれば、相続権の剥奪にあたる何かを二人が行っている場合。例えば、一貴と義貴が共謀して遺言書を偽装している、といったケースだ。薫が調べた限り、遺言書らしきものは存在しなかった。これをあたかも実在するかのように二人が偽装していっとしたら。と言っても、これも可能性としてはゼロに近い。

 思案に暮れる薫に、弁護士は頭を掻きながら言った。

 「まあ、次男のみで言えば難しくないんですけどね」

 「え――そうなんですか?」

 顔を上げた薫に、弁護士は頷いた。

 「次男の失踪から七年が経過していれば、失踪宣言の申し立てをすることができます。お話を聞く限り、義貴さんが行方不明になったのは七年より前の話ですよね」

 「――そうなると思います」

 「死亡日は失踪日のちょうど七年後になります。被相続人――つまりご主人ですね、彼の命日より早い死亡扱いになりますので、相続権はなくなります」

 「そうだったんですか」

 薫は自らの無知に呆れ返ったが、それを察してか、眼鏡を曇らせた男は「一般知識ではありませんから、ご存知ないのもやむを得ませんよ」とフォローを入れた。

 「問題なのは長男の一貴さんですね。とはいえ、法律家としてできることは少ないですが、またご入用であればご相談ください」

 薫は深々と頭を下げて、少し高い相談料を支払って事務所を後にした。

 家に帰る間も、考えることは続く。

 義貴はいい。一貴だ。

 あのがめつい長男をなんとかしなければ。しかし一向に妙案は思い浮かばず、薫は肩を落としてとぼとぼと帰宅した。

 次の週末、聡美と圭介が薫のもとにやってきた。薫は思い切って二人に、弁護士から聞いた話を打ち明けた。

「お母さん、弁護士に相談に行ったの? 知らせてくれれば一緒に行ったのに」

「私と子どもたちの問題よ。何も出来ないのは嫌だわ」

「お母さん、なんだか頼もしくなったわね」

 そうだろうか。薫は気恥ずかしくなって髪を撫でた。

 すると、難しい顔をしていた圭介が唐突に口を開いた。

「つまり、お義兄さんが遺言書を偽造してるように見せかければいいんですよね?」

 薫はあんぐりと口を開いて聡美を見る。

 聡美も目を見開いていた。

 一貴が公文書を偽造していたら――、

 そしてそれが露見すれば――。

 一貴は公的に相続権を失う。

「ちょっとあなた、兄さんを犯罪者にするっていうの?」

「確かに、罪の意識はないわけじゃない。でも、お義兄さんの性格上、偽造を行っていたとしても何も不思議じゃないんじゃないか?」

「そんな――」

 絶句した聡美がすがるように薫を見る。

 薫はすぐに思い直した。

 それは――妙案なのではないだろうか。

 他に、聡美と圭介の二人に家を残す手立てはない。一貴から相続権を奪い、薫と聡美だけで遺産を分配するためには、他にアイディアはないのだ。

 薫の腹は決まった。

「あの子に――一貴に俊幸さんの遺産を好きにはさせたくありません。二人の力が必要です」

「お母さんまで――」

「聡美、あなたは優しい子。自慢の子。圭介さんだって、誇らしいお婿さんよ。私があなた達に残せるものは、何もない。でも、この家と土地だけは、二人のものにしますからね」

 覚悟を決めた薫の瞳に、聡美はとうとう折れた。

 圭介が遺言書における詳しいルールをスマートフォンで調べたところ、遺言証書は保管方法によって決まりが違っているらしい。専門家に作成を依頼する公正証書遺言は、パソコンでの作成が可能だが、公証役場が原本を保管していなければならない。とすると手書きの自筆証書遺言の形を取る必要がある。

「一貴の字に似せて遺言を書く必要があるのかしら」

 考え込む薫に、圭介が首をひねった。

「最近のお義兄さんさんの手書きの文書などはお手元に残っていますか?」

「昔のなら――少しは残してあるかもしれないけれど」

「でしたら、字を真似るのは難しいですね。お義父さん御本人のものを真似するほうが楽かもしれません」

「そう? あの人の字は――達筆というのかしら? すこし難しいような気もするけど」

「お義父さんの世代なら、手書きの文書は入手し易いと思います。すべての文字は厳しいかもしれませんが、大した問題じゃありません。遺言証書として間違っていても構わない。大事なのは『お義兄さんがお義父さんが書いたかのように偽造した文書』であることと、発見のされ方です」

「発見のされ方――?」

 薫が眉をひそめると、圭介は神妙な面持ちで頷いた。

「例えば、遺品の整理をお願いして、一貴さんに発見させ、我々に提示させることとか」

「でもお父さんの遺品整理はお母さんが済ませちゃってるわよ」

 聡美が透をあやしながら言うと、圭介が少し得意げな表情で言った。

「あるじゃないか――もう一人分整理しなきゃいけない遺品が」

 薫ははっとした。

「もしかして――義貴の?」

「その通りです、お義母さん」

 薫と聡美は顔を見合わせた。そんなこと、今の今まで思いつきもしなかった。

「お義兄さんのことは『遺産を相続するつもりなら手伝いなさい』とでも言って呼び出し、義貴さんの遺品整理を手伝わせる。お義母さんがお茶を用意しに席を外している間に、遺言を発見してもらう。この作戦の肝はお義母さん、あなたです」

「私が――」

 こくりと喉を鳴らして、薫は自分の手を見た。擦り切れた、老人の手だ。ゆっくりと深呼吸をして、封筒の中の百万円をイメージする。

 薫はしっかりと目を見開いた。その先には、圭介と聡美がいる。二人の顔を見比べて、薫はゆっくりと頷いた。

「大丈夫、きっとできるわ」

 それから一週間後、聡美と圭介夫妻は子どもを連れて薫の邸宅にやってきた。白紙のトレーシングペーパーを敷いて、圭介は俊幸の手書き文書を、一文字辿っては次の紙へを繰り返し、時々適当な文字が見つからないときは、それらしい見え方になるように字を書き加えていった。

 完成した遺言書を封筒に入れて、薫たちは義貴の遺品の中にそれを隠した。決行は翌週の日曜日と決まった。薫は(大丈夫、大丈夫――)と自分に言い聞かせるように、百万円のお守りを握りしめた。

 圭介が遺言書を作成している期間に、薫は義貴の失踪宣告の申し立てのため、市役所に赴いたり、家庭裁判所に出むいたりなど事務作業をこなしていった。聡美のサポートあってのことだ。

 きっかり七日後。圭介を連れた一貴がやってきた。薫一人では心配とのことで、圭介が同伴してくれることになったのだ。

「義貴を死亡扱いにできるって本当か」

「そうよ。その手続きをこの間済ませたところなの――だから荷物もついでに片付けちゃいたいのよ」

「なんで俺が」

「お義兄さん、一緒に頑張りましょう」

 全く乗り気じゃない一貴と、励ます圭介を連れて、義貴の部屋に案内する。処分するのは勉強デスクとベッド、押し入れにしまってあるダンボールくらいだ。なお、遺言はデスクの引き出しの中にしまってある。

「勉強机とベッドは分解してもパーツ自体が重いからね、二人が手伝ってくれると助かるわ」

 しばらく窓を明けておいた部屋は、風がすっかりかび臭い空気を拭き取ってくれた。薫は「この家具の解体と、奥の押し入れの整理がしたいの。拭き掃除と掃き掃除は済ませておいたから、埃の心配はないと思うわ」と説明した。

 「なら、俺はデスクの解体やるわ。大きいものから片付けていこう」

 一貴が率先して机の分解に挑むようだ。ちょうどいい。「手伝います」と圭介が部屋の奥へと進んでいった。一貴が軍手をはめてドライバーの入ったケースを開いたのを見て、薫は「よろしくね」と一階の居間へと引っ込んだ。

 バッグから封筒を取り出して、おまじないを唱えると、湯呑の中のお茶を飲み干した。喉がからからに乾いていたらしく、ほのかに苦いだけの液体になった緑茶は、それでも美味しく感じた。

 たっぷり時間をかけてお湯を沸かし、急須で二人分のお茶を淹れると、薫はお盆で二階へと運ぶ。

「ふたりとも、お茶どうぞ。麦茶のほうがよかったかしら」

「大丈夫です、ありがとうございます」

 圭介がすかさず恐縮そうに頭を下げた。一貴は「こっちは汗かいてるんだから、麦茶にしてくれよ」と注文をつけてきた。

 薫は苦笑いをしたが、あたりが強い一貴の態度は都合がよかった。実の息子を無実の罪に陥れるという悪行を、ためらう気持ちが薄くなる。

 もちろん、正当化できることではない。罪悪感を丸め込むための言い訳に過ぎないのは承知していた。

 しかし一貴は罰を受けるべきだ。親を粗末に扱った報いを、今こそ思い知る必要がある。

「そうだったわ、気が利かなくてごめんね」

 薫は一貴に返事をして、再び麦茶を取りに階段を降りていく。年をとると階段の昇降は膝に来るが、やむを得ない。

 キッチンで氷をいれたグラスに麦茶を注いでいると、二階から何やら話し声が聞こえてきた。一貴が偽の遺言書を見つけたのだ。

 二人分の慌てた足音が降ってきて、居間に一貴と圭介がなだれ込んできた。興奮気味の一貴は、薫に封筒を差し出した。隙のない文字で、遺言書、と書かれた封筒を受け取る。裏面には封印がされており、開封すればすぐにわかってしまうようだ。

「親父のだ。間違いない――ああ、中が見てえな」

「だめですよ、お義兄さん。家庭裁判所の検認を受けないと、開封できない決まりです」

 そうだったのか。薫は聞かされていなかったので、素直に驚いた。しかし、これで計画の半分は成功だ。

「どこにあったの?」

 不自然にならないよう、一貴に問いかける。

「義貴の勉強机の引き出しに入ってた。なんだってそんなところに――すぐ見つかるところに置いといてくれないと困るのに」

「見つかって運が良かったわ」

 これで、一貴を陥れることができる。

 薫は深く胸をなでおろした。

「家庭裁判所に見てもらいます。みんなで家庭裁判所へ行きましょう」

 圭介の言葉がふわふわと耳に届き、薫は気を引き締めるように「わかった」と頷いた。

 机とベッドは無事に解体された。粗大ごみとして処分するために玄関の外に運び出してもらった。もう一杯お茶を振る舞って、二人を家に帰す。

 二人を見送ってから、室内に戻った薫は、俊幸の遺骨の前に百万円の束を置いて、静かに両手を合わせた。

「あなたが来てくれてから、自分でも驚くほど大胆なことができているの。不思議と不安も消えたわ。あなたのことは使わないで取っておくことにします。これからも勇気をください。ありがとう、ありがとう」

 札束を差し出した、紳士の顔を思い出す。

 あの人は何者だったのだろうか。

 どうして薫にこの百万円をくれたのか。

 どうして薫が選ばれたのか。

 何度も繰り返し考えたが、答えはわからない。男は自分のことをミリオネアと言った。外国語だろう。英語に明るくない薫に正確な意味はわからないが、おそらく金持ちを指す言葉なのだろうと思う。

 「ありがとう、ミリオネア」

 薫はそう零して、百万円を封筒ごと収納に片付け、日常の中に戻っていった。

 簡単に掃除した浴槽にお湯をためて、服を脱いで肩までお湯に浸かる。まだ少し高揚している自分を抑え込むように深く深呼吸を繰り返した。じわじわと汗がにじむのが清々しい。達成感にほぐれた緊張が、お湯の中に溶けていった。

 検認日当日。一貴夫婦、そして透を抱いた聡美と圭介夫妻を伴って、薫は家庭裁判所にやってきた。一貴の子どもたちは、妻である七菜の実家に預けてあるらしい。

 手提げバッグの中には、遺言書と、お守りの百万円が入っている。

 窓口を経由し、会議室に通された一行は、それぞれ椅子に腰をおろして沈黙していた。

 一貴はふんぞり返って足を組み、七菜はスマートフォンを眺めている。圭介と聡美は子どもが泣き出さないか心配しているようだった。どこかぴりりとした空気が流れるが、薫は至って落ち着いていた。

 薫たちの計画はほぼ成功だ。あとは圭介が矛盾を指摘し、一貴が遺言書を偽造したのだと告発するのみである。一抹の不安もなかった。

 ノックの後、扉が開かれた。黒衣の二人組が、丁寧にお辞儀をして室内に入ってくる。一人はきびきびとした歩行が印象的な、オールバックのポニーテールだ。まだ若く、かなり背が高い。その相棒と思しき人物は、杖をついた猫背の老人だった。空いた席に二人が腰を下ろすと、整った顔立ちの若者が口を開いた。

「大変お待たせ致しました。裁判官の黒部です」

「同じく、高山です。この度はご愁傷さまでした」

 深く頭を下げる二人に、聡美と圭介はお辞儀を返す。薫も慌てて会釈したが、一貴と七菜は素知らぬ顔をしていた。

「これから、遺言書を開封し、内容を確認させていただきます。早速ですが、遺言書のご提出をお願い致します」

「はい」

 薫はバッグの中から薄い封筒を取り出し、二人の執務員の前に差し出した。

「拝見します」

 薄い唇の長髪が、封筒をひらりと裏返した。

「令和三年四月一日付の封印ですね。故人のお名前は三枝俊幸様でお間違い無いですか?」

 「はい、間違いありません」

 薫が答えると、黒部は二度頷いて、「失礼します」とペーパーナイフで封を切り、遺言書が蛍光灯にさらされる。ここにきて、薫の心臓はせわしなく活動しはじめた。

 (大丈夫、大丈夫)

 薫は自分に言い聞かせるようにして、職員の作業を見守る。折り目の付いた便箋を広げ、たっぷりと時間をかけて目を通した家庭裁判所従業員は、相棒にもそれを確認させた。

「本文の書式に誤りはありませんでした。遺言書として必要な情報はすべて記述されています」

 便箋を受け取った眼鏡の老人も、しっかりと頷いた。

「日付、氏名、本文に問題がございませんでしたので、筆跡のご確認をいただきます。ぱっと見で構いません。こちらは故人、三枝俊幸様の字でお間違いございませんか? 疑わしい点があれば、お聞きかせください。順番にお見せします」

 まず薫に渡ってきた封筒。字は亡き夫のものに酷似している。そのはずだ。圭介が夫の字を書き写したのだから。薫は神妙な面持ちで、「主人の字に間違いないと思います」と告げた。薫から遺言書を受け取った一貴夫妻は、「母が言うのだから、そうなのでしょう」と投げやりに答えた後、遺言状を見つめて静かに――笑った。

 (なぜ――?)

 圭介の書いた遺言書は、一貴にとって不利な内容であるはずだ。にも関わらず、一貴は何に喜んでいるのだろう。

 戸惑いを悟られないために前髪をなでつけた薫は、圭介と聡美の手に渡っていく遺言状を見守った。

 聡美が「父の字です」と答えた後、驚いたように目を見開いた。

 「どうかされましたか?」

 すかさず職員が身を乗り出すと、聡美は慌てた様子で圭介を見た。「なにかみつけたのか?」と圭介が更に問いかける。聡美は二度、何かを言いたそうに口を開き、しかし言葉は発せられることはなかった。そしてとても悲しそうに「――なんでもありません」と呟いた。

 おかしい。

 一貴の微笑。

 聡美の動揺。

 そして偽造を告発する役割だったはずの圭介の沈黙。

 薫は妙な胸騒ぎを抑えられず、視線を彷徨わせた。

 (何が――起こってるの――?)

 六人の大人たちの手に回された紙切れは、黒衣のポニーテールの手中に戻った。女性職員は「それでは、最後に内容の確認だけ行います」と、遺言を目の高さに掲げて、朗々と読み上げた。


 遺言者三枝俊幸は、次の通り遺言する。

 第一条、遺言者は遺言者の有する下記の財産を遺言者の長男である三枝一貴(昭和五十五年五月二十三日生)及び遺言者の長女である井筒聡美(昭和六十三年十二月一日生)にそれぞれ二分の一の割合で相続させる。

 (一)土地

 ①所在 ひたちなか市室伏町一丁目

  地番 二番三

  地目 宅地

  地積 一八七㎡

 (二)家屋

 ①所在 ひたちなか市室伏町一丁目

  地番 二番三

  種類 居宅

  構造 木造モルタル瓦葺二階建 

  床面積 一階七〇.八九㎡ 二階六〇.二二㎡

 第二条、遺言者は遺言者の有する下記の財産を遺言者の妻である三枝薫に相続させる。

 (一)土地

 ①所在 久慈郡徳田町大字袋内

 番地 七八五番一

 地目 居宅

 地積 五八六.六五㎡

 

 薫は耳を疑った。

 次に、たっぷり時間を駆けて情報を噛み締め、静かに仰天した。

 わなわなと体が震えるのは、驚愕のためか怒り故か。

 慌てふためく薫の視界に、嗤う圭介が映る。

 心のうちだけで静かに狼狽する薫をあざ笑うかのような、ずる賢い笑みだ。

 遠くの方で職員の声がする。

 皆様、異議はございませんか――。

 薫は現実に引き戻され、慌てて手をあげようとするが、圭介はそれを封じるかのように「ございません」と声を上げた。一貴が満足げに頷き、聡美が圭介を睨む。家庭裁判所の職員二人組は、聡美のささやかな抵抗と、薫の声のない悲鳴など、あたかも存在しなかったかのように頷きあった。

「では、これで遺言書の検認は終了です。検認済証明書の交付を致しますので、待合室でお待ち下さい。ご足労お疲れ様でございました」

 二人の裁判官が立ち上がり、頭を下げる。一貴と菜々、そして圭介が揚々と席を立った。聡美もおずおずと椅子から離れていく。薫は沸騰しそうな頭で肩を怒らせて立ち上がり、圭介の後を追った。

 かつかつと太い踵の靴を鳴らして圭介の両腕を掴む。圭介はぞっとするほど卑しい顔をしていた。薫は精一杯声を抑えて詰め寄る。

「――どういうこと?」

「何がですか? お義母さん」

「約束したわよね? あの子に――一貴に遺産を相続させないって――一貴が遺言書を偽装したように――」

「そんなこと言いましたっけ?」

 圭介はせせら笑いを浮かべて薫の両手をつかみ、下へ下ろした。何事もなかったかのように通路を進む圭介をもう一度捕まえる。今度は、少し声が大きくなった。

「どうして私があの土地を相続することに? 誰も寄り付かない、山奥の空き地よ。価値なんてないんでしょ? むしろ地税がかかって赤字になるのはわかりきってるのに」

「さっきから変なことをいいますのね、お義母さん」

 圭介は深い溜め息と共に声を出した。

「それじゃ、まるで僕が遺言書を書いたみたいじゃないですか。書いたのはお義父さんなんです。お義父さんの意のままに従うのが僕らのあるべき姿じゃないんですか?」

 圭介は薫の目の高さまで腰をかがめると、薫にしか聞こえないほどかすかな声で言った。

「お義兄さんを公文書偽造罪に陥れようとしたこと、露見してもいいんですか? もしバレたらお義母さんが罪人になる。僕は言われたことをしただけだ、情状酌量の余地がある。でもあなたは違うでしょう。お義母さんは首謀者だ。犯罪者になるか、赤字だらけの負債を相続するか、二つに一つですよ」

 にんまりと笑った圭介が、思い出したように付け加えた。

「ああ、そうだ。あの家と土地は売払い、お義兄さんと聡美で公平に分けます。だから、お義母さんの住むところはなくなりますので」

「そんな――」

「約束が違うわ!」

 赤ん坊を抱いたままの聡美が薫に駆け寄り、肩を抱く。

「あなた、一緒に暮らすって言ってくれたじゃない!」

「おいおい、何を寝ぼけたことを言ってるんだ、聡美――離婚されたいのか?」

 ぱっと聡美の表情を見る。ごくりと喉を鳴らした聡美の顔は、恐怖に戦いていた。

 圭介が聡美の肩を掴み、軽くゆすりながら言う。

「おまえみたいな不出来な女が結婚できたのは誰のおかげだ? おまえみたいな石女が子どもを授かったのは誰のおかげだ? おまえみたいな無能が専業主婦になれたのは誰のおかげだ? 全部全部俺のおかげだ。違うか? もし離婚なんてしてみろ。低賃金重労働に加えて多額の養育費に生活費。背負えるのか? おまえのような愚図に」

 聡美の肩を突き放した圭介は、獣のように鼻を鳴らして待合室へと去って言った。

 しくしくと聡美が泣き始める。

 ごめんなさい――、

 お母さん、ごめんなさい――。

 薫の声は耳に届いていたが、薫は返事をすることができなかった。

 鞄の中の百万円を握り、悔しさをこらえることが、薫にできるすべてだった。

 検認証明書のついた遺言書を返却された一行は、めいめいの住処へと戻る。薫は玄関の扉を閉めてしっかりと鍵をかけると、大粒の涙がぽたりとコンクリートに染みを作った。

(どうして、こんなことになったのだろう――)

 次々に溢れてくる雫を重力に任せたまま、思考の渦をもがいている。

(一貴を陥れようなんて考えた私が悪かったんだ――どんな子であっても、我が子にはかわりなかったはずなのに――それに、聡美だって、あれほどかわいがっていたはずなのに、どうして圭介のような男に嫁がせてしまったのだろう――どうしてあの男をこれほどに信用して、弱みを見せてしまったのだろう――)

 とめどなく流れる涙をそのままに、薫はその場にへたり込んだ。

 何もしなければ、遺言書の執行のため、住み慣れた家を追い出される。そのうえ、固定資産税を発生させる以外に収益の見込めない土地だけを背負わされている。しかしながら、圭介を告発しようものなら、自分が企てていた悪行が明らかになり、犯罪者として逮捕されてしまう。

 (なんてことをしてしまったのだろう――)

 後悔だけが積もり積もって、薫は無意識に小さなパッチワークの巾着型の鞄を抱きしめた。そして、その厚みを思い出した。

 これは、あなたのお守りにしてください――。

 繰り返しになりますが、使っても、使わなくてもいい――。

 ただ持っているだけでも構いません――。

 (たったの、百万円じゃ――)

 手にした瞬間は、大金だと思った。けれど、百万円で薫がどれほどの期間生計を立てることができるだろう。固定資産税を賄えるとは思えない。

 それに、住処を無くす薫には新たな家が必要でもある。月々の賃料を払うことができるのかすらあやしい。

 そのうえ、薫はもう働ける年齢ではない。清掃員のアルバイトくらいなら見込みがあるだろうが、その過酷さと賃金の低さで、状況が好転するとも思えない。

 嗚咽を零しながら、薫は死を考えた。

 愛する夫のもとにいけるなら、それも悪いことではないのかもしれない。けれど、死ぬのは――死ぬためには――死ぬ場所が必要だ。もしこの家で薫が首をつってしまったら、この土地を相続する聡美が困ることになる。資産価値が下がるからだ。それに、葬式代だって安くはない。

 何より、死んでも死にきれない。娘をこけにしたあの男を、地獄に落としてやらなければ気がすまなかった。しかし、どうやって。

 終わりのない思考の迷宮を揺蕩う薫の涙が枯れ果てるのは、すっかり夜が更けてからだった。

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