不思議な味噌壺

黒星★チーコ

前編

「おい、何だこの味噌汁は。随分と濃いじゃないか」

「えぇ、そうですか?」


 椀に口をつけるなり、顔をしかめて文句を言う河合 弥之助かわい やのすけに対し、新妻のお登勢とせは上品に首を傾げた。


「これでも控えた筈なんですけれど」

「もう一度、隣の婆さんに作り方を教えて貰え」


 弥之助とお登勢は新婚だ。が、二人の住まいは、上等な着物に袖を通し肌も髪も艶々としているお登勢には実に不釣り合いな安普請――――元々弥之助が住んでいた長屋――――だった。


 隣の長屋に住む独り身の痩せた老婆は、飯炊き婆として弥之助の様な独身男の飯を作る代わりに自分も僅かな相伴にあずかる事で何とか食い繋いでいた。味噌問屋のお嬢様で上げ膳据え膳の生活だったお登勢は料理なぞしたことがない。弥之助は老婆に米の炊き方と味噌汁の作り方だけでもお登勢に教えてやってくれと頼んだのだ。

 だがそのせいで、なけなしの金を米や野菜を買う事に使ってしまった。お登勢の家の用心棒として貰っていた金の残りを使い果たしたことになる。




 時は天保五年。昨年飢饉が起きたせいで農民がいつ一揆を起こしてもおかしくないご時世。江戸の町も物騒になり、食い詰めた者達が米問屋を壊して米を奪う暴動、所謂「打ち壊し」が起きるのではないかと言われていた。かつての天明の大飢饉では打ち壊しで米問屋だけでなく裕福な商家も襲われたため、米問屋以外の商家も他人事ではないと恐れ慄いている。

 それでお登勢の父、つまり味噌問屋の下田屋の主人も店を守ろうと用心棒を求め、浪人である弥之助がその一人として雇われたというわけだった。


 弥之助は見栄えのする男である。

 彼が半眼になると辺りの空気がキリ、と引き締まるような妙な雰囲気がある。つまり剣の実力はそれほどでもないが、腰のものを抜いて立つだけで剣術を知らない相手なら十二分に威嚇が出来た。

 それに加えて男ぶりも中々のもので、長い間の浪人生活が染み付いて月代さかやきが伸びきっているのに、それすらも粗暴さではなく男らしい魅力に繋げることが出来ている。箱入り娘のお登勢が彼の見目に心を掴まれるのも時間の問題だった。


 だが勿論、下田屋の主人がお登勢の恋を許す筈もない。跡取り娘の婿に商売のしの字も知らない弥之助を迎えるわけにはいかぬし、そもそも立たぬ腕を鍛えもしないくせに一人前の武士の誇りだけは口にする弥之助が、お登勢の為に刀を捨てて商人になるなど考えられなかったのだから。


「弥之助様、私を攫って下さいませ」


 父親に叱られ、頬がまだ濡れたままのお登勢が弥之助の胸に飛び込んできた時、弥之助は正直、おぼこい小娘の相手など面倒臭いと思った。


(まあ、箱入りだ。あの長屋に連れ帰り、狭く汚い部屋を見せれば目が覚めて家に帰ると言うだろう。手を付けずに上手く宥めて帰せば下田屋の主人から礼のひとつも貰えるか)


 ……という打算もあり、弥之助はお登勢を連れ帰った。彼の内心は兎も角、端から見れば立派な駆け落ち、または勾引かどわかしである。

 ところがだ。予想外にもお登勢は弥之助の住まいを見ても嫌な顔一つせず、覚束ない手つきではあるがせっせと掃除を始めたのだ。日が変わってもお登勢の心は変わらぬようだった。


「弥之助様……」


 次の夜、ひとつしかない布団の中で一緒に寝ていたお登勢が弥之助の懐に手を差し入れた。潤んだ目元がほんのりと赤く色づいている様は小娘にしては色っぽく、弥之助は一寸だけぐらりと心を揺らされた。そうしてうっかりと手を付けてしまい、駆け落ちは本物となり、二人は夫婦となった。弥之助は下田屋に合わせる顔がなくなったのだ。


 もうひとつ予想外の事があった。

 弥之助はお登勢を連れ帰る際に「大事な物だけ持ってこい」と言った。櫛や紅など、彼女の手に持てるものはたかが知れているが、裕福な商家の娘の持ち物なら上等なものに違いない。お登勢がすぐに家に逃げ帰るようであれば、例え主人からの礼が貰えなくとも残った持ち物を売れば金になるだろうという浅ましい目論見だったのだ。だが、お登勢が大事そうに持ってきたのは一抱えの風呂敷包みだった。


 お登勢が長屋の上がり框でその風呂敷を解くと、中から出てきた壺に弥之助は再度驚く。それは小さめの味噌壺だった。中は味噌でいっぱいに満たされてはいたが、壺そのものはなんの変哲もない茶色い壺だ。はて、これが大事なものか、と弥之助は片眉を上げた。


「父が、この壺は我が家の宝だから火事の際には真っ先に持ち出すように、と」


 お登勢の言葉に成る程と思う。たとえ店が全て焼け落ちても味噌が僅かでも残っていればそれを基に再び味噌を作り店を再興できる。だが、流石は味噌問屋の娘だと納得する気持ちと、これでは金にならぬとがっかりする気持ちで弥之助は内心複雑になった。

 とは言え、その味噌で隣の婆に味噌汁を作らせてみれば、かなり上等なものだったらしい。普段旨いものを食いつけない弥之助にもわかるほど非常に旨い汁物であったし、いつも骸骨の様で陰気な婆は珍しくニコニコと自分の椀に味噌汁を注いで帰っていった。


 しかし、このような上等な味噌が無くなっても当然新たに買えるわけではない。壺の中身がただ目減りしていくのを待つだけだ。だから弥之助は味噌を控えめに使えとお登勢と婆に言ったのだが、今朝お登勢が作った味噌汁が濃かった為に文句のひとつも言いたくなったわけである。


「でも、隣のお婆さんもこのくらいは味噌を使いたいと」

「そりゃあ自分のものじゃないんだからそう言うだろう。自分の金で買った味噌ならもっと渋くなる筈だ」


 弥之助の言葉に、お登勢は不満を言葉にこそしなかったものの、顔にはあからさまに表した。それを見た弥之助は内心でやっぱり小娘を嫁にしたのは面倒くさいなと思った。しかしお登勢に手を付けた事を悔やんでももう遅い。




「あら、まあ」


 数日後の朝。畳の上でごろごろとしていた弥之助は、土間で高い声が上がったのを聞いてそちらに目をやる。朝餉の支度をしようとしたお登勢が壺の中を何度も覗いては「まあ」と言っていた。


「どうした」

「弥之助様、味噌が増えています」

「む?」


 壺の中を覗くと、だいぶ減っていた筈の味噌が最初にこの家に持ち込んだ時と同じくらい満たされていた。


「どういうことだ」

「不思議ですねぇ」


 そう言いながらもお登勢は躊躇いなく味噌を僅かに掬い、ぺろりと舐めた。


「お、おい。そんなものを食べて大丈夫か」

「あら、大丈夫ですよ。とても美味しいです」


 弥之助は少々慌てたが、お登勢の無邪気な笑顔を見て自分も味噌を舐めてみる。塩気の中に豆の芳醇な旨味と甘みが隠れていた。


「む。旨いな」

「弥之助様、せっかくですから今日は少しだけ多目に味噌を使っても良いでしょうか?」

「うむ、そうだな」


 朝餉の味噌汁はいつもより濃いめで旨かった。




 その日の夕刻。弥之助は不機嫌で帰途についていた。金が尽きたので新たな仕事を見つけねばならぬ。だが用心棒の仕事をしていながらそこの店の娘を攫った弥之助に、当然仲介人は厳しい態度だった。娘が勝手についてきたのだ、暫くしたら娘の方が飽きるだろうから店に帰すつもりだと言っても通らない。


「だってお前、その娘と夫婦になっちまったんだろう」


 そう言われればぐうの音も出なくなる。仲介人は「下田屋から追っ手を差し向けられないだけましだと思え」と言って弥之助を追い払った。さて困ったと弥之助は道を歩き歩き悩む。以前のように傘貼りなどの内職でもするか。さりとて昨年の飢饉の影響で大した金は貰えない筈だ。独り身ならともかく、お登勢の分まで食い扶持を稼ぐとなると厳しくなる。良い答えが見つからぬまま長屋へ戻ってきた。


「今帰った」

「お帰りなさいませ!」


 お登勢の声が弾み、目もきらきらと輝いている。その理由は台所を見ればすぐに分かった。竈の横に大根と葱が置かれている。そんなものを買う金は当然無い。


「これはどうした」

「味噌を長屋の皆さんにお裾分けしたんです。そうしたら大根はお向かいに、葱は二軒隣のお家から頂きました」

「なに!?」


 弥之助が味噌壺の中を覗くと、中の味噌は昨夜の量と殆ど変わらない程まで減っていた。お登勢は増えた分の味噌をそっくり気前よく皆に分けてやったのだ。


「『流石、下田屋の味噌は美味しいね』と皆さん喜んでくださって。ほんの少しですけどお米も分けて頂けたんですよ」


 無邪気にはしゃいで言うお登勢の様子に、弥之助は愕然とし言葉が出なかった。




 言葉が出なかったのは却って良かった。あそこで怒りに任せてお登勢を怒鳴りつけでもしたら、翌朝弥之助は非常に気まずくなっていただろう。


 何故なら、減った味噌はまたもや増えていたのだから。

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